やがて訪れる聖夜の祝福を予言するような、ある晩のことだった。
麗人の微笑にも似た水銀の三日月が、冬の霜に包まれた上海の夜天に冴え渡る。邪魔するものなど何も無い静寂の中、人々は微睡
み、束の間の夢に浸される頃合だ。頽廃と混沌に彩られた魔都の夜の享楽は遠くで華やぎ、繁栄から離れた県城内の片隅に佇むうらぶれた骨董店も、今は深い眠りの底に沈んでいる。
冴え冴えと広がる夜空の星だけが密やかに瞬き、昼は賑やかにざわめく街路樹も今はひっそりと寝息を立てるばかりだ。静止した安寧の時間を動かそうとするものはいない。ましてや一人の少年が忍び足で階段を下りる気配に、気付く者などいるはずもなかった。
寝室から抜け出した少年は、物音を立てるのが罪であるかのごとき足取りで階段を下りると、壁伝いに廊下の奥へと進んだ。やがて目的の部屋を前にした少年は暫くその扉を見つめたのち、意を決したようにドアノブに手をかけた。古くも頑丈なつくりの扉が、微かな軋みを立てて少年を闇の向こうへと誘う。かそけき音さえ際立つほどの静寂が耳に痛い。
すっきりと片付けられた部屋は、薄蒼い闇に染め上げられていた。毛布を頭まで被った部屋の主が、招かざる客人の侵入に気付く気配はない。それでも少年は出来る限りの注意を払って、目的のものを探し始めた。戸棚のすぐ傍、確かこの机の上にあれが置いてあったはずだ。今日の夕暮れ時に確認した記憶を辿りながら、机のそこかしこを探る。息苦しいほどの緊張を強いるこの部屋は彼にとって鬼門だ。一刻も早く、だが気付かれることなくあれを見つけ、さっさとこの場をおさらばしなければ―――
「真夜中に女の部屋に忍び込むとは、あんたもなかなか大胆だね」
上から三つめの引き出し、そこに暗闇の中鈍く光る弧を見つけた刹那、凛と澄んだ声が少年の背筋を貫いた。跳ね上がった鼓動に呼応するように、とっさに体を反転させる。いつの間に目を覚ましたのだろうか。月明かりに
微睡む闇には、少女の幼げな面が浮かんでいた。
「だけど…夜這いとは違うみたいだな―――そこで何をしている?」
寝台の脇で此方を見据える少女の表情は暗がりの所為で伺えぬが、 屹度挑発するような笑みをのせているのだろう。
紫霖はその言葉を聞き終えるよりも先に、引き出しにしまってあった懐中時計を掴むと、開け放したままの扉に向かって駆け出した。
この暗がりの中そう容易く反応することは出来まい。少女――麗紅に追いつかれる前に店から逃げおおせることが出来れば上出来だ―――そう踏んだ少年の思惑は、闇から伸びた手が肘を捻り上げ、膝の後ろに絡みつくような鈍い衝撃を感じた瞬間、脆くも崩れ去った。
「どうやら聞くまでもないみたいだ」
足を掬われ、冷たい床の上に頭を打ち付けた少年の上に少女がのしかかる。鎖骨の辺りを押さえつける
麗紅の繊手にはさして力が掛けられていないのにもかかわらず、少年の躰の自由を完全に奪い取っていた。
「大方、時計を持ち出して孫と取引しようとしたんだろう?」
優しくも冷ややかな響きを込めた尋問が、紫霖の耳朶を撫でた。それには応じないとばかりに顔を背ける。掌に確かな質量を落とす真鍮の時計を、少年は強く握り締めた。まるでそれが自分の命運を救う存在であるかのように。
「黙っているってことは、肯定と認めていいのか?」
「だったらどうだって言うんだよ?」
「別にどうもしないさ。あたしたちの任務が終わるまで柱にでも縛りつけておくまでだ。それとも手錠に繋いで騎士団本部の檻の中にでも閉じ込めておくか?どっちがいい?選ばせてやる」
「どっちもごめんだね」
組み敷かれたまま紫霖が侮蔑も露わに吐き捨てた。跪くように乗せられた少女の片膝が肺を圧迫する。濃い闇の中、うっすらと浮かび上がる少年の滑らかな白磁の肌に、琥珀の眼差しが突き刺さった。
「あんたが素直な聞き分けのいい子になってくれたら、そんなことはしないさ。こっちだって手荒な真似はしたくないしな」
「どうだか」
少女の台詞の裏に、悪意が塗りこまれているような気がしてならない。その匂いを隠すは欺瞞と偽善で固めた権力という名の翼だ。よくよく考えてみれば、彼らの狙いは紫霖の持つ時計だけであって、それは彼を助けた時点で手に入れてしまっている。松花の救出などおまけみたいな奴らの言うことなど、信用できる理由がどこにあるだろう。保証も何もない妹の救出をちらつかせて取引しようという輩など、彼女を攫った孫とか言う奴と大差ないではないか。
「ったく。何でそんなに意地になるんだよ。あんたの望みはあたしたちが聞き届けたじゃないか。これ以上何を要求するって言うんだ、」
そんな卑劣な人間に貸す耳などない。こうして無遠慮に床に押し倒されているのも不愉快だった。だが情けないことに反抗しようにも体が言うことを利かない。紫霖はただ顔を背け続けることしか出来ない自分の非力さを呪った。
「自ら危険に飛び込むほど、あんたも莫迦じゃないだろう?それともそんなに若いうちから死ぬような目に遭いたいわけ?―――おい、聞いてんのか?」
「聞いてるよ」
ややうんざりしたように呟いた紫霖は、噛み合わないでいた視線を漸く此方へ向けると、
「それよりも退いてくんない?オレ、こんなことしてる暇ないんだけど」
そう、こんなところで埒の明かない言い争いをしている場合ではないのだ。愚鈍ともつかぬ企みが露見してしまった今もなお、紫霖の体にはたった一つの願いだけが渦巻いていた。彼を動かす唯一の衝動にして、情熱。
「へぇ。そんなに急いでどんな大層な用事があるっていうんだ?そんなこと言わずにもう少し付き合ってよ、夜はまだ長いんだし」
「あいつを助けに行かないといけないんだよ。分かったら、退け」
自分でも莫迦だと知りつつ、正直に告げた声が昂ぶるのを抑えられなかった。自棄になった紫霖を屹度彼女は鼻で笑うに違いない。だが予想に反して麗紅が返したのは、嘲笑でも怒りでもない、何処か哀しげでシニカルな微笑だった。
「妹を助けたい……ね。だが、その気持ちだけで何が出来る?」
「え?」
彼女の言葉は、あるいは嘲りとも取れたかもしれない。だがそれを包む声からは諭すとか見下すとかいった感情は一切排除されていた。むしろ何か縋るように問いかけられた、穏やかで残酷な声音に紫霖の心はざわついた。
「―――孫を許さないと、言ったな」
初めて逢ったときに言った紫霖の言葉を、麗紅が噛み締めるように反芻する。
「許さない。だったらあんたはどうするんだ?こんな無茶までして助けようと思う妹を攫った男だ。一発お見舞いでもしてお仕舞いと言うわけにはいかない、そうだろう?孫を捕まえるのか?裁くのか?それとも―――殺すのか?」
殺す、という響きに冷水を浴びせられたかのような衝撃が走った。確かに自分は孫を許さないだろう。命に代えても守りたいもの、それを当然のように奪い、傷つけた。その罪は重い。だが自分に出来るだろうか。銃口を奴の頭に向けること、研ぎ澄ました刃で孫の心臓を抉ること。なぜかその瞬間が、肉を引き裂く音も鮮やかに自分のなかで演じられて、少年は次の言葉を繋ぐことさえ忘れていた。
「だけど、どれもあんたの役目じゃない。それが現実だ」
悪魔が彼に垣間見せた幻影を見透かすように、麗紅が告げた。聞かずとも、紫霖の中に答えがあるのを知っているかのような口ぶりだった。
「武器もない、身を守るすべもない、そんなあんたが孫のところへ乗り込んで何が出来る?そのお奇麗な顔が蜂の巣にされて黄浦江にでも棄てられるのがいいとこだろう。よしんば孫がお前の取引に応じてくれたところで、素直に妹を返してくれるとは思えない。仮令帰ってきたとしても、無事な姿じゃないかもしれないぞ。第一あんた孫の家が何処だか知ってるのか?万が一突き止められても奴の家は最新鋭の安全性系統によって包囲されている。電脳さえ満足に扱えない素人が、どうやってその網をかいくぐるって言うんだよ」
幼子をあやすように優しく、だが残酷な現実を容赦なく並べ立てる。言葉とは裏腹な甘やかな声が、紫霖の志気を一つずつそぎ落とすように沁み込んでいった。
「無謀と勇敢を履き違えるなよ。英雄気取りで妹を助けに行けるほど、あんたは強いのか?」
どこまでも真摯で、どこまでも酷薄な囁きを彼の耳に残して、麗紅は拘束を緩めた。少年が僅かに伏せた睫毛が、くすみのない頬に陰影を落とす。闇にあってもなお紅い口唇が、こみ上げてくる震えを押さえつけるように硬く引き結ばれた。
「分かったらこれ以上無駄なことはするな。世の中には知らなくてもいい方が幸せなことだってあるんだし」
「―――それは、あんたが決めることじゃないだろ」
「何?」
「オレは松花を助ける。それだけだよ。英雄気取りとか勇敢とかどうでもいいし、考えてもみなかった。それから、オレの幸せが何かなんて勝手にあんたに決められたくないね」
知らないほうが幸せ―――突きつけられた言葉に、反抗心が首をもたげた。何も知らされぬまま得た幸福など、何の価値があるだろう。もしその所為で妹の危機を救えなかったのならば、それこそお笑い草だ。こんな目に遭ってまで無関係でいることに納得し、平穏を守ろうとするほど彼は単純ではない。
「あんたが言うように、オレがやろうとしてることは勝ち目も何もない賭けだと思う。だけどちっとも信用できない人間に松花を任せるくらいなら、自分で何とかしたほうが数段ましだ」
それにあんた達に協力する義理もないしな、と心の中で付け足す。信用できない利害関係など、築くつもりは毛ほどもなかった。
自分の無力さくらい、自分が一番よく分かっている。それを確かめるように未だ塞ぎきっていない腕の傷を抱いた。けれどそんなことを嘆くくらいなら、妹のために命を落とす方を自分は選ぶだろう。そもそも自分の大切なものを他人に預けるような真似をするのは、彼の流儀に合わない。
「自分の命を懸けるべきところくらい、自分で決めるさ。そのくらいの覚悟はあるつもりだけど。あんたに指図されるなんて死んでもごめんだ」
「………傲慢だな」
不意に雲間に翳っていた月がその姿を現した。銀青色の淡い月光が、闇に沈んだ部屋を仄白く浸食していく。麗紅を見据える少年の麗貌が、月影の闇に映えた。何処か彫刻じみたその顔の中で、漆黒の瞳だけが揺らぐことなく麗紅を見上げている。そこに映るのは目の前の少女ではなく、最愛の妹の姿と、自分を巻き込む運命の向こう側だ。
この瞳に、純粋で愚かな覚悟に、動じるほど麗紅は甘くはなかった。どんなに言葉を重ねたとしても、彼の言い分を退けるのが自分の役目だ。罵られようが、蔑まれようが一向に構わない。彼の安全と任務の遂行が保障されるならば、喜んで悪役を買って出よう―――――
「ならば、その覚悟とやらを見せてもらおうか」
先に口を開いたのは麗紅だった。紫霖の体から漸く身を離すと、むしろ楽しげな素振りであとを続ける。
「十二月二四日、聖夜の夜だ。断っておくが、くれぐれもあたしたちの仕事の邪魔はするなよ」
自由になった体を起こし、少年は黙したまま頷いた。そんな面倒な真似をする余裕などないし、もとより彼らの仕事になど興味はない。
「だがあまり期待はするな。あんたが行ったところで、妹が絶対に戻るとは限らない」
「……それは、あんた達が行っても同じなんじゃない?」
「ふん、そういう言い方をするか。ま、せいぜい頑張れよ。聖夜の夜が明けてもその無駄に高慢な物言いが出来るか楽しみにしてるからさ。……さて、話が済んだらとっとと出てってくれないか?それとも、ここで夜明かしするつもり?」
「いや、それは遠慮しとく」
「ああ、あんたとは気が合うな。あたしも同じ意見だ」
だから速やかに部屋に帰れと言わんばかりの微笑を浮かべて、麗紅は立ち上がった。にこやかな皮肉を悪びれもせず向けてくる少女の言い分に答えるが如く、紫霖は身を翻して開けっぱなしの扉へと向かう。途中、澄んだ氷の美貌を一瞬だけ麗紅へ向けたが、結局その口唇を開くことは無いまま、少年は部屋を後にした。
「……まったく、とんだはねっかえりだな、」
紫霖が出て行ったあと扉を閉めて、そこに凭れ掛かった麗紅が愚痴っぽく呟いた。
彼を止めろと理性は叫ぶ。騎士団員としての自分が肯くなと懇願する。自分がとるべき立場は心得ているのにもかかわらず、気がついたら彼の我が儘に手を差し伸べていた。麗紅の心のうちに燈ったか細い焔が、それらの声を焼き消したのだ。痛いくらい真っ直ぐに見据える少年の瞳が、その火に油を注いだ。ほんの一瞬だけ勢いを増した焔に、自分は何を期待したのだろうか。
「これで……いいわけないよな、たぶん」
少年を追い出した部屋で呟く声は、ひどく心許ない。だがああ言ってしまった以上、約束を反故にするような卑怯なことはしたくなかった。
ああ、今度はあいつになんて言われるかな。
再び黒い翳りが戻った虚空をひたと見つめ、麗紅は密かに嘆息した。