降神祭聖夜クリスマスイヴの夜空は、煙ったような紫に覆われていた。
 恐らく、夕刻から降り始めた雪の所為だろう。うっすらとぼやけた夜天そらは、闇を優しく包み込むような慈愛に満ちている。イルミネェションを纏った聖夜の魔都には、幸福そうなざわめきがひしめいていた。
 中でも、旧時代の面影を色濃く残す孫邸は派手な賑わいを見せていた。上海市街の郊外に居を構える彼の屋敷は、その周りに立ち並ぶ名だたる政治家や商人たちの大邸宅と勝るとも劣らない。上海でも有数の貿易商である孫宅では、引っ越し祝いを兼ねた降神祭パーティが催されていた。精緻な彫刻が施された黒い門を、商人や政治家、財閥家を乗せた俥が次々と潜り抜けてゆく。そして一等目に付くのが、一介の個人宅にはおよそ不釣合いな時計塔だ。どっしりと構えた風格のあるその佇まいは、英国にある大時計ビックバンを連想させた。





 石造りの重厚な屋敷の中では、既に宴が始まっていた。深紅の絨毯が敷き詰められた廊下には、着飾った客達の賑やかな談笑が溢れている。豪奢なシャンデリアのもとで、女たちが身につけている宝石が瞬く。その中の一人―――薄紅色のイヴニングドレスを纏っていた女に目をつけていた、一人の中年男がいた。キザったらしい視線を彼女に送り、話し掛けようか迷っていた最中、不意に肩にぶつかってきた人影によってその思考を中断されてしまった。
「あっ……すみません、」
 消え入りそうな声で詫びたのは、まだ若い男―――いや、少年だった。ぶつかられた男はあからさまに眉をしかめ、少年に目を遣り……息を飲んだ。明るい茶の前髪からのぞいたのは、端麗な氷細工を思わせる完璧なまでの美貌だった。儚げに彷徨わせた濡羽色の瞳が、男の視線を射抜く。我を忘れて彼に魅入っていた時、後ろからあどけない声が聞こえてきた。
「何してるの、紫霖ツーリン。こっちよ、早くいらっしゃい、」
 母親のように少年を叱りつけたのは、これまた若い娘だった。生意気に、紅梅色の布地に金の縫い取りがされた旗袍チャイナドレスを着ている。彼女は素早く少年の手を引いて、男の好奇の眼差しから彼を遠ざけた。二人は着飾った大人たちの間を、軽々とすり抜けていく。
「なぁ・・・本当にこれで大丈夫なのか?」
 少女に引きずられた少年―――紫霖ツーリンはぼやいた。変装と称して染めた髪を不安げに揺すり、呆れたように溜息を吐く。
「あら、何情けない顔してるの?ついてくるって言ったのは、貴方のほうでしょう。今更怖気づいてどうするの?」
 華やかな笑みを浮かべた少女―――もとい麗紅リーホンは、今までの粗雑さからは想像も出来ないほど、気品のある口調でそう返した。その振る舞いは紛れもなく、良家の娘のそれである。
 その豹変振りに閉口した紫霖ツーリンは、それ以上言うのをやめて、二人の先を歩く女に目を遣った。にな色がかった黒髪を美しく結い上げたその女は、呉瑞杏ウールイシンという財閥家の娘だった。聞くところによると、麗紅リーホンの友人らしい。背筋をぴんと伸ばして歩くそのさまは、今にも羽根を広げようとする孔雀を思わせた。
 
 今宵、麗紅リーホン紫霖ツーリンは、彼女と連れ立ってこの孫家を訪れていた。客人を装って、孫福康ソンフーカンの不正を暴こうと言う作戦である。
「此処最近、ソンのほうできな臭い動きが見られるの。孫の下請けである子会社名義の貨物船が、やたら港に来ているらしくてね。表向きは、帝國からの機械やら製品やらが積まれているんだけれども、武器の密輸をしているってもっぱらの評判よ。その上、犯罪組織に銃や火薬を流しているらしいわ。その武器を見つけて、取り締まるのが今回の任務ってわけ、」
 喧騒に埋もれてしまいそうなほどの小声で、麗紅リーホンが今回の狙いを復唱した。
「貴方との約束は、私達の仕事が終わってからよ。首尾よくソンの尻尾を捕まえたら、あとは好きなように屋敷を探しなさい。それまでは大人しくしてること、いいわね?」
 紫霖ツーリンは、不機嫌な表情で軽く頷く。それは耳にタコができるほど聞いた。だがそれとあの時計がどう関係しているのかは今をもっても分からないままだ。


 大広間へ入っていくと、華やかな喧騒が一段と増した。煌々とした灯りの中で交わされる言葉は、どこか異国の言葉のようで落ち着かない。所在無く辺りを見回していると、不意に声をかけられた。
「おや、ウーの娘さんではないですか。お久し振りですね。今日はご友人と一緒に?」
 愛想よく訊ねてきたのは、どうやら瑞杏ルイシンの知り合いのようだった。
「ええ。父の代理で参りましたの。・・・・・・紹介しますわ、此方は黄麗紅ホヮンリーホン
「始めまして。お会いできて光栄ですわ、」
 優雅な微笑をもって、麗紅リーホンは軽く会釈をした。普段の彼女を知る者にしてみれば、舞台役者だってこうはいくまいと思うだろう。この場に於いて何の違和感もない麗紅の振る舞いは、隣に立つ貴婦人にまったく引けを取っていなかった。
「折角の聖夜イヴなのに、部外者が紛れ込んでしまって申し訳ないですわ、」
 殊勝に目を伏せる。その仕種は貴族的ですらある。
「いや、構わないさ。どうせ似た様な客が大勢いる…。と、私もその一人なんだがね。気にすることはないと思うよ。宴の華は一人でも多い方がいいだろうし」
「あら、お上手ですこと」
「ところでウーさん、先日浦東プートンの開発地区で私どもの企業が買い取った敷地のことはご存知で?」
「ええ、父から伺っております。何でも新たな商業施設を展開するとか……」
 麗紅リーホンとは違い、紹介にあずからなかった紫霖ツーリンは彼らの辞令をまるきり他人事のように聞いていた。男のほうも態度にこそ出さぬが、彼の存在をやんわりと咎めている気配が窺える。事件に巻き込まれなければ一生顔を合わせることもなかった人間の商談に立ち会うのは不自然な気がして、少年はさりげなく彼らから身を離した。
 五歩ほど退いてしまえば、最早連れとは関わりのない人間としてパーティの風景と同化することが出来る。ただ呆然と屹立しているだけでは怪しまれるだろうが、今宵宴に集った貴顕淑女きけんしゅくじょたちは彼のような部外者に注意を払うことなどなかった。
 琥珀色のシャンデリアの輝きのもとで華やかに咲く貴婦人たちのドレス、ゆるやかに流れるは古典的クラシカル円舞曲ワルツ。招待客の手元ではシャンパンが煌めくように弾け、純白のテーブルクロスには見たこともない美食の数々が陳列されている。西洋風の趣を占める広間ホールだったが、優美に羽根を広げて舞う鳳凰が描かれた天井画やいかめしい黒檀の飾り棚など、絢爛たるかつての王朝時代の栄華を偲ばせる調度が品よく誂えられていた。
 きらびやかな宴席の中にいるというのに、素直に楽しむことが出来ずにいるのは、何も妹の安否に気をとられている所為だけではない。
 紫霖ツーリンにとって降神祭クリスマスを告げる存在は、氷雪の都の礼拝堂モスクを彩る電飾光彩イルミネーションのみであった。真白き雪の夜、朧ろに浮かぶ荘厳な尖塔と、街ゆく人々の浮き足立った雰囲気。日々を繋ぐために享楽や行事と言ったものとは無縁の生活を送ってきた彼にとって、降神祭は繰り返される味気ない毎日の一つに過ぎなかった。そんな少年がかように華やかな席に参列しても、嬉しさよりも困惑の方が勝ってしまうのも無理はないだろう。

「そう言えば、主賓はどこにいらっしゃるのかしら?」
 緩やかな談笑に興じていた瑞杏ルイシンが、ふと誰かを探すように訊ねる声が聞こえた。
「ああ、あちらにいるよ。今は丁度、取引先の人と話しているようだがね、」
 それまで大仰に笑っていた男はそう言って、広間の奥を指差した。虎と龍が描かれた金の屏風の脇に、小太りな中年男が何やら話し込んでいる。
「それでは申し訳ありませんが、少し席を外させて貰いますわ。先ほどの話は父にお伝えしておきます。……海嶺ハイレイ、行きましょう」
 艶っぽい笑みを残して、貴婦人は踵を返した。海嶺ハイレイと呼ばれた黒ずくめの男が、無言でそれに付き従う……どうやら彼女の護衛のようだ。先程から影のように瑞杏ルイシンの後ろで控えている。
 漸く自分とは無関係の話が終わったらしい。再び連れの少女に向き直ろうとして振り返った紫霖ツーリンだったが、その姿を瞳に写すことは出来なかった。
「………?」
 どうやら無関係を装って人ごみに紛れているうちに、麗紅リーホン瑞杏ルイシンらの姿を見失ってしまったらしい。先刻さっきまでは確かに声を追うことが出来たのに。期せずして孤立してしまった紫霖ツーリンは、自分の迂闊さをかみ締めるように眉を顰めた。
 このまま広間で麗紅リーホンを探すべきか、向こうが自分を見つけるのを待つべきか。だが彼女が目的を持って姿を消したのならば、後者を望むことは不可能だろう。かと言って、迷子のように自ら麗紅リーホンを探し歩くのも気が利かない。あるいは―――少年は無意識のうちに広間の四方にある入り口へと視線を滑らせた。
 麗紅リーホンは自分たちの任務を終えた後に、屋敷を探索する権利を紫霖ツーリンに与えた。だがそれは無事に任務を完遂できた場合の話だ。もししくじってソンが逃亡したりすれば、妹の身に危険が及ばないとも限らない。そうなってしまう前に、先手を打つのが賢い選択ではなかろうか。
 ―――― 一か八か。
 潜入する前に叩き込んだ邸宅の間取りを頭の隅に蘇らせた紫霖ツーリンは、躊躇ためらうことなく賑やかなざわめきに満ち満ちた大広間に背を向けた。
  






 大広間の絢爛たる喧騒から逃れるようにして、屋敷の奥へと伸びる廊下を渡っていく。此の辺りは予備の客室や私室を兼ねているのだろう。両脇に構えた重厚な扉の連なりは、賓館ホテルの廊下を思わせた。
 試しにそのうちの一つを明けてみようとしたが、螺鈿らでんの彫り物が施された把手ノブはびくともしない。落ち着いたニスの色が輝く洗練された木の扉の群れは、迷い込んだ少年を嘲笑うかのように佇むばかりである。
 個人の家にしては随分と無駄に部屋があるよな、と心の中で毒づいて、紫霖ツーリンは踵を返した。それにしても、せんからまったく人の気配が感じられないのはどうしてだろう。使われぬまま時が経って久しい回廊だったが、此処に辿り着くまでただの一度も警備の者と顔を合わせないのは妙だった。もっとも、電子仕掛けの安全装置セキュリティが此の屋敷を守護しているというのなら話は別だ。しかし仮に監視カメラや赤外線感知器センサーを始めとする電脳性安全装置コンピューターセキュリティが正常に作動しているのならば、無断で屋敷を彷徨する少年を見咎めてもよさそうなものだが、一向にそういった兆しは見られない。
 奇妙な疑念が思考のはじっこに取り憑いている。それを半ば無視するように東洋風な刺繍壁掛タペストリィの傍を左折しかけた時、ふいに聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。
 




「此処だよ、麗紅リーホン
 其処は、何の変哲もない廊下の突き当たりだった。丸くくりぬいた鏡に、黒縁の飾り額が施されている。その脇には、これみよがしな胡蝶蘭が活けられていた。いかにも成金趣味な室内装飾だ。
 そして青磁の重たげな壺を取り囲むように麗紅リーホンと、黒い警備服に身を包んだ翡翠フェイツェイ彗星フォイシンが立っていた。どうやらこの二人は、警備員に化けて屋敷内に潜入したらしい。なにやら緊張を孕んだ空気を読み取った紫霖ツーリンは、咄嗟に壁際に寄ってことの成り行きを窺った。
「開けられそう?」
 不安げな面持ちで問う彗星フォイシンの声には応えず、麗紅リーホンはやおら鏡を取り外そうと試みた。
「どうかな。室長でも解けなかった防壁だ。外苑式の独自保択プロテクトでもかかってたらお手上げだな」
 はめ込み式の壁鏡はどうやら動かせるものではなかったらしい。麗紅リーホンは鏡に問いかける魔女めいた手つきでそれを撫でると、行動とは無関係の言葉をつないだ。
「なァに。そんときゃダイナマイトでもぶっ放してやりゃあいい」
「……あんたの単細胞にはついていけないな。物理的な攻撃でどうにかなる問題なら、とっくの昔にこの屋敷にミサイルでも打ち込んでるさ」
 馨しき胡蝶蘭が薫る場処に相応しい優雅さで物騒な言葉を返した少女が肩をすくめた。まあ見てろとでも言いたげに傍らの青年を見上げた彼女の瞳に、えもいわれぬ光が宿る。言うなれば、恍惚。あるいは、興奮。少しばかり不気味な笑みを湛えながら、麗紅リーホンはおもむろに左の掌を鏡にかざした。
 それにあわせて、印を結んだ右手を額へと掲げ、心持ち腰を低く沈める。簡素な舞踏の構えを見せた麗紅のまわりを、波紋一つ立てぬ水面の静けさが取り巻いた。何を始めるのか……紫霖ツーリンが訝しく思った直後、密やかに紡がれていた吐息が静寂しじまを切り裂き、少女が鏡に向かって軽やかに一歩踏み込んだ。
 少年は自分の目を疑った。舞い踊る飛鳥さながらの動きで鋭く虚空を裂いた麗紅リーホンの右手が、鏡に触れた刹那、壺の後ろの壁が鈍い音を立てて横に開いたのだ。まるきり千夜一夜アラビアンナイトの世界だった。
「あっけねぇー、」
 自分より格下の相手を叩きのめした時の口調で、麗紅リーホンがぼやく。その右手は、発光した炎紅色の、細い電子の糸に彩られていた。
 彼女が使用したのは、電磁濫戯でんじらんぎと呼ばれる能力だ。前にも述べたとおり、第二階級の一部の者、及びそれ以上の階級に属する人間は、特殊な電磁波を体内で形成できる系統システムを有している。それは主に電脳に触れずして他者の晶片チップ存取アクセスしたり、他者に牽制をかけるために使われるのが一般的であった。麗紅リーホンが所持する力はさらに特殊で、彼女の体内に先天的に存在する特異な磁気を、晶片チップを介して電子命令に変換、そして生み出された電磁パルスは国内のありとあらゆる電脳機器に干渉・破壊を働きかけることが出来た。あたかも己の手足を自在に操るかのように。
 この隠し扉はおそらく、電脳コンピューター制御された安全性施錠セキュリティロックだったのだろう。故に、こんな芸当をお披露目することが出来たのだ。
 壁の奥に突如現れた深遠なる闇を覗き込んだ翡翠フェイツェイは、揶揄ともつかぬ口笛を吹いた。
「何時見ても腑に落ちねぇな。触っただけで開けちまうんだ。これじゃあ室長の面目が立たねぇわけだ」
「余計な御託はその辺にしろよ。誰のお陰で怪しまれずに此処を歩き回れたと思ってるんだ?」
 軽く嗜めるように翡翠フェイツェイを見上げると、麗紅リーホンは物怖じすることなくひらりと闇の向こう側へ身を投じた。他の二人も慌ててそれに続く。
 かくして世にも珍しい潜入劇を終えた廊下の片隅には、何の変哲もない空気が舞い戻っていた。突き当たりの壁が黒い口を開けているほかに、先刻の時ならぬ光景を残すものはない。
 物陰に潜んでいた紫霖ツーリンは彼らが戻る気配がないことを確認したあと、慎重に先ほどまで壁があった場所へ歩み寄った。少女たちを飲み込んだ闇の向こうを恐々と覗き込む。壁の奥には、地下へと続く階段があった。足元に僅かな照明があるほかは、灯りらしい灯りもない。
 紫霖ツーリンは彼らに続いていくべきか迷った。麗紅リーホンたちの任務と自分の目的はもともと無関係なのだから、無闇に首を突っ込むべきではないだろう。だがもしこの階段の麓に妹が居るかもしれないとなれば話は違ってくる。
 僅かな逡巡のあと、少年は己の掌を握り締め、用心深く闇の中へ足を踏み入れていった。
 カツン…という頼りない音が闇に溶けてゆく。紫霖ツーリンの鼓動は、今にも破裂しそうなほど高鳴っていた。心なしか、躰の芯が掻きまわされるような耳鳴りまでする。




「やっぱりね」
 一方、紫霖ツーリンよりも先に階下に足を踏み入れた騎士団三名を迎えたのは、蛍光灯に照らされた倉庫だった。それも、かなりの広さだ。いたるところに、木箱だの段ボール箱だのが無造作に積み上げられている。
 先にたどり着いた麗紅リーホンは、大胆にも箱の蓋を開けて中を物色していた。ごそごそと中を引っ掻き回していた時、ふと表情が強張った。
「これ……」
 指先に触れた固い感触を掴みあげる。その手には帝國産の模倣コピー銃―――三十口径のトカレフが握られていた。
「物騒だな、」
 翡翠フェイツェイのほうも、何かに感づいたらしい。近くにあった木箱に鼻を寄せると、
「……火薬の匂いだ。」
「やっぱりソンは、武器の密輸をしていたんだね」
 用心深く辺りを見回していた彗星フォイシンが頷いた時、不意に入り口から物音がした。
「……ッ」
 それが耳に届くよりも先に、麗紅リーホンが振り向きざまに太股に吊るした拳銃を引き抜く。撃鉄を上げる音と、今しがた倉庫に侵入した少年が反射的に手を挙げたのはほぼ同時だった。
紫霖ツーリン!?」
 先刻広間に置いてきた少年を薄暗い照明に見出した麗紅リーホンは、琥珀の瞳を大きく見開いた。銃口を向けられているとは思えぬほど落ち着き払った少年は、いささかばつが悪そうに此方を見つめている。
「なんで……どうしてあんたが此処に……」
 予期せぬ来訪者に言い淀んだ途端、少女の第六感がある種の危険信号を感じ取った。倉庫の空気が僅かに張り詰める。それを感じ取ったのは何も麗紅リーホンばかりではなかった。
「伏せてっ!」
 異変に気付いた小動物めいた動きで、彗星フォイシンがこちらを振り返る。叫ぶと同時に、麗紅リーホンが半ば飛び掛るような勢いで、紫霖ツーリンを近くの物陰に押し倒した。抱きかかえられた少年の視界が反転する。次の瞬間、風船が弾けた時のような耳障りな音が連続的に降り注いだ。
 耳元で、麗紅リーホンの舌打ちが聞こえた。つい先刻さっきまで少年に向けていた銃口の矛先を変えるかのように、グリップを握りなおす。
「何だ……」
 状況把握が出来ずにいた紫霖ツーリンは、空気の抜けた声を上げた。
「畜生……。やっぱり刺客がいたか」
 傍らで彗星フォイシンを庇っていた翡翠フェイツェイがうめいた。その右手にも、やはり拳銃が握られている。戸惑いながら紫霖ツーリンが地面に手をつけたとき、何かが手に触れた。薬莢だ。転がってきたそれを見て、彗星フォイシンが目を見開く。
「これは、機関銃マシンガン用の……。ってことはもしかして―――」
 不意に、発砲音がやんだ。その隙を狙って、騎士団三人が物陰から飛び出す。
 天井に張り巡らされた太い梁の一隅に、二つの人影が浮かんでいた。闇に溶けるのを拒むような白い髪。死を象徴するかのような、あの赤い瞳は――――
「「「双児の拳銃使いガンスリンガーツインズ!!」」」
 その称号を呼ばれた途端、小柄なほうの人影が挨拶代わりに連射してきた。三人は間一髪、それを逃れて紫霖ツーリンとは別の物陰に飛び込む。
「けっ。すばしっこいなぁ、てめぇら」
 大柄なほうの人影が、残念そうに嘲笑う。
「大人しくしていれば楽に死ねたものを、」
 それに続いたのは、この状況でぞっとするほど冷静な女の声。
 どうやら奴等は騎士団の三人に気を取られているらしい。紫霖ツーリンは、物陰からそっとそちらを窺った。梁から二人が軽やかに飛び降りる。辛気臭い照明の元で映し出されたのは、年若い男女だった。
 深雪の如き白髪、赤い瞳。太陽の光を知らぬまま育ったと思えるほどに白い肌。二人そろって、研ぎ澄まされたナイフを思わせる怜悧な顔立ちをしている。髪を短く刈った男のほうは、今一度銃口を三人が隠れたほうへと向けて、
「じゃあな、騎士団。今日がお前らの命日だ・・・・・・」
 舌なめずりしそうな顔で引き金に手をかけたとき、女のほうがそれを止めた。
「やめときなさい、チュワン。あなたは少し弾を使いすぎです。ここは私が…」
「っせえなァ、チェン。妹の分際で!少しは兄貴を立てろや!」
「これ以上弾の無駄使いをすると、喬石チャオスー様からお叱りが飛びますよ?」
「だーから、一発で仕留めりゃあ、文句はねェだろうが!」
 思わぬところで諍いを始めた二人に呆れていた瞬間、手首を捕まれて物陰から引きずり出された。麗紅リーホンだ。翡翠フェイツェイたちと4人、何も言わずに一目散に倉庫を横切ろうとしたその時、
「逃しませんよ、騎士団!【紅楼の夢】は私たちが頂きます!」
 チェンと呼ばれた少女が、容赦ない弾丸の雨を撒き散らした。反射的に跳び退り、被弾を免れる。あと半秒タイミングがずれていたら、今頃そこで無様に血を流していたに違いない。
「ちっ……。こんなときに」
 麗紅リーホンは物陰から、十数歩離れた螺旋階段へと目を遣った。あそこを上り切れれば、一先ずは無事に済むかもしれない……。
「―――翡翠フェイツェイ、今日の保険はどれくらいある?」
「持ってきたのは三つだが、…何、心配するこたぁねェよ、」
 捨て台詞と共に、翡翠フェイツェイはすかさず双児に向かってそれを放り投げた。
「年明けにはちっとばかし早ぇが、今夜は無礼講だ。ありがたく受け取れ」
 導火線につながれた数十本の火薬の連なりが竜神の如く宙を舞い―――発火した。
「しまった……ッ!」
 ぱんぱんぱんっ、と喧しい音を立てたそれは、催涙効果を有した爆竹だった。
 白い煙と光を吐き出して、ほんの少しだけ双児の目を眩ませる。
「今のうちに行けっ」
 翡翠フェイツェイが怒鳴る。素早く物陰を後にした麗紅リーホン紫霖ツーリンは、倉庫の奥にあった螺旋階段へと駆け出していた。
「逃すかァ!」
 それに気付いたチュワンが、煙に巻かれつつも麗紅リーホンたちに銃の照準を合わせる。と思った瞬間、黒い塊がチュワンめがけて投げつけられた。ごん、と鈍い音がして彼の額に直撃したそれは―――麗紅リーホンが所持していた拳銃ではないか。
「おいおい。銃は投げるもんじゃねぇぞ、麗紅リーホン
 心底呆れたように呟いて、翡翠フェイツェイは物陰から立ち上がった。今にも降り注ぎかねない銃弾の雨に臆することなく、銃を構えた双児に向かい合う。
「さァて。お前らの相手は俺らがすんよ。胆据えとけや、雑魚が、」
 自信たっぷりに言い放った翡翠フェイツェイの隣に、どこか不安げな面持ちをした彗星フォイシンが現れる。
「誰に向かって物言ってんだよ、チンピラが、」
 次の瞬間、チュワン機関銃マシンガンが火を噴いて二人に襲い掛かった。