最初に認識したのは、鼻をくすぐる微かな匂いだった。
 何だかとても美味しそうな、香ばしい薫り。
 ああ・・・・・・。紫霖ツーリンは、無意識のうちに納得した。松花ソンファが夕飯の支度をしているんだな・・・。
 少年は安堵の溜息を吐いて、台所に立つ妹へ目を遣った。見慣れた華奢な後ろ姿が、狭い台所を行き来している・・・・・・。
 瞬間、視界が爆発した。目が眩むほどの閃光が走り、炎が一気にその勢いを加速させる。赤い火の塊が触手のように壁をなめつくし、踊り狂う。
―――――松花ソンファ
 叫び、伸ばしかけた紫霖ツーリンの腕を、火の手がなぎはらった。少年と少女の間に、紅に蠢く炎の河が横たわっている。恐怖に慄く少女の横顔を、紅く照らした火の渦が飲みこんでゆく―――――
「・・・・・・松花ソンファ・・・ッ」
 掻き消えてゆく妹の姿にもう一度呼びかけ、そして目を疑った。
 古典的な唐草模様の天井が、自分を見下ろしている。
 訳がわからなくなって、反射的に飛び起きようとした。・・・が、直後に襲ってきた鈍い痛みが、それを赦さなかった。
「・・・・・・ッ・・・」
 覚えの無い痛みに呻き声が上がる。体中が軋んで思うように動かない。まるで長いこと油を注さずに居た機械みたいだ。困惑した少年が臥したまま身を捩った時、それに拍車をかけるような声がかかった。
「オ、起キタミタイダナ、」
「―――――は?」
「オーイ、麗紅リーホン。意識ガ戻ッタミタイダゾ〜」
 およそ人間とは思えないような質をした声音。人を小莫迦にしたような、不自然に高いそれは、紫霖ツーリンの頭上から降ってきた。
「・・・・・・・・・」
 無言のまま、天井を見回す。そして突如、黒い影が紫霖ツーリンの傍らにあった卓子テェブルの上に舞い降りた。
「・・・・・・・・・・・・カラス、」
 漆黒の羽根と、賢そうな黒い瞳が少年を見下ろしている。なぜか黄色い嘴をしたその鳥が、最後に見た記憶と重なった。
「カラスジャ、無イシ。」
 独特の抑揚をつけた声で、主張された。
 言われてみれば、カラスよりも一回り小さいかもしれない。では、何だこれは。

「あー、ご苦労だったね、カラス。後で餌やっから、籠ン中で大人しくしてな、」
 いきなり降ってきた不可解な存在に頭を悩ませていた時、紫霖ツーリンの鼓膜を透明感のある声が叩いた。
「ダーカラ、カラスジャ無イッテノ」
 なおも翼をバタバタ言わせながら鳥が喋る。しかしその声は紫霖ツーリンではなく、今しがた部屋の衝立ついたてから姿を現した少女に向けられたもののようだ。
「あー、はいはい。分かったからちょっと其処どいて。それから、彗星フォイシンに例の薬を持ってくるように言ってきてくれ」
 てきぱきとした口調で少女が言った。命じられた黒い鳥は、意外にもあっけなく衝立の向こうへ消えてゆく。紫霖ツーリンは呆気にとられたまま、少女をじっくりと眺めた。
 大きな琥珀の瞳に、ぽってりとした口唇と小さな鼻。まだ子供の印象が抜け切っていない、幼い顔立ちをしていたが、豊かな曲線を描く胸は大人の女性そのもので、何となく不釣合いだった。紅みがかった煉瓦色の髪を耳元で二つに束ね、先っぽをカールさせている。言葉遣いは年頃の少女にしては粗野で乱暴だったが、北京訛りの貴族めいた口調がそれを帳消しにしていた。身なりや物腰から察するに、上流階級―――何処かの金持ちの娘なのかもしれない。
「さて、ちょっと傷見せてもらうよ」
 傍らに坐り、腕を取ろうとした彼女の手を紫霖ツーリンは振り払った。
 上層部の人間の施しなんか、受けたくない。天から見下ろされるような同情を掛けて貰うなんて、死んでもごめんだった。
「・・・変な意地を張るな。人の好意は、受けられる時に受けておきな」
 あんたに何がわかるっていうんだ―――そんな想いを込めて少女を睨んだが、有無を言わさぬ強い力で腕を取られ、あっけなく無視されてしまった。何ともいえない威圧感が伝わってくる。紫霖は抗うことを諦め、されるがままにした。
 少女は慣れた手つきで左腕の包帯をほどき、傷口を診た。縫合の痕がちらりと見える。少女は持参した薬品を傷口に塗ると、新しい包帯を巻きつけた。鮮やかな手際の良さだ。
「熱は・・・無いみたいだな。とりあえず薬を処方しといたから、後で飲んで置くように―――あ、起き上がれるか?」
 身を起こそうとした紫霖ツーリンの背に手を添えて、少女がそれを手伝う。背中の節々はまだ痛んだが、こうしているぶんには支障はない。
「・・・・・・あんたが、助けてくれたのか?」
「まぁな。三日前に、君がうちの店の前で倒れていたんだ。カラスが見つけてくれたのさ。感謝しとけよ」
 三日・・・・・・三日も眠っていたのか。目の前がぼんやりしているのも、当たり前だ。
 久し振りに、まともな寝台で眠りについた。
「傷よりも、疲労のほうが酷かったな。何があったんだよ、」
「―――――あんた、名前は?」
 余計な詮索をされたくなくて、紫霖ツーリンはわざと聞きかえした。
「あたしは黄麗紅ホヮンリーホン。この骨董店、『宝蘭堂』の店長だよ。と言っても名目上の、だけどね。こう見えても本業は医者だから、君の手当てのほうは心配しなくてもいい。左腕の傷は、十日もあれば塞がるかな。それから、さっきの鳥はカラスじゃないよ。九官鳥さ。シュウって言うんだ。何でか人の言葉を喋るけど、AIの類じゃない。生身の鳥さ。ちなみに今は十二月の一七日午後三時だ。
―――――さて、これで満足したかな、朱紫霖チュウツーリン君?」
「・・・・・・・・・何で、」
 紫霖ツーリンは絶句した。何故この少女は自分の名前を知っているんだ?
 怪我を負ったとき、身分証明になるものは何も持っていなかったはずだ。
「朱と紫なんて、随分とカラフルな名前だな。ま、あたしも黄と紅だから、人のことは言えないか」
 そう言って、少女は楽しげに紫霖ツーリンの顔を覗きこんだ。見下すような、僅かな揶揄を含んだ笑み。それを見せつけられたとき、紫霖は直感した。
―――――侵入黒客ハッキングか。
 この国の階級格差の根源となるもの。それは国民の体内に埋め込まれた超高性能の電磁波微小晶片マイクロチップの存在だ。名前、生年月日から始まり、DNA情報や簡単な経歴、果てはGPS系統システムまで搭載しているそれは、国の中枢に置かれた特殊電磁パルスの遠隔操作によって機能している。そして通常ならば晶片チップに書き込まれた個人情報は、専用の電脳機器を用いなければ読み取ることが出来ない仕組みになっている。 
 だが、例外というものは存在した。
 微小晶片マイクロチップを脊髄と接続し、脳からの僅かな指令を電子命令として増幅させ、末梢神経を伝って特異な能力を生みだす自然型電脳人間ナチュラルサイボーグ―――橙式の粋を極めた技術をその身に享受する人間ならば、専用の機器を使わずとも他人の晶片チップ存取アクセスすることが可能だと聞く。
 そればかりではない。橙式、つまり第二階級より階級が上の者は、晶片チップによる能力を駆使して下層部の人間を牽制することが出来るという。情報統制を隠れ蓑にした国の公然の秘密であるそのからくりこそが、この社会システムを不動のものにしているのだ。
 もしこの少女が上層部の人間ならば、自分のデータを知ることなど造作も無いだろう。
 その可能性に思い当たった時、紫霖ツーリンの背中を寒いものが貫いた。先程彼女は自分の知りたい情報を与えてくれたはずだ。なのに、徐々に湧き上がってくるこの不安は何だ。オレはこのコのことを何一つ知らない。なのに彼女は知っている………。
 戦慄にも似た黒い不安。それは鍵をかけた机の奥に隠していた秘密を、何の形跡も無く覗かれたような不快感と酷似していた。
 得体の知れない恐怖と戦っていた時、不意に廊下から忙しげな足音が聞こえてきた。二人分の足音が、不協和音を奏でながら近付いてくる。と思った瞬間、黒い縁取りがされた衝立から、一人の少年がひょっこりと姿を現した。
麗紅リーホン、入るよ」
 少しぱさついた鳶色の髪、つぶらな瞳に形の良い口唇をした、東洋人離れした顔立ちの少年だ。色素の薄さから察するに何処か西洋の、それも露西亜ロシア系の血が混じっていると思われた。頼りなげな肩には、先程の黒鳥が羽根を休めている。盆を持って控えめに構えていた彼の後ろから、また別の影が姿を見せた。
「よっ。やっと起きたな、」
 馴れ馴れしく呼びかけてきたのは、派手なシャツをだらしなく着崩した、柄の悪そうな若い男だった。無理に脱色したらしい薄墨色の髪の男に向かって、麗紅リーホンは心底うざったそうに眉をひそめると、
「あたしは彗星フォイシンしか呼ばなかったはずだけど、翡翠フェイツェイ?」
「何でそんな冷てぇこと言うんだよ。俺だけハブにすんな、」
 不平不満を口にしながら、男は近くにあった椅子を麗紅リーホンの傍まで引きよせ、乱暴に腰掛けた。ついてきた少年は、困ったような笑みを麗紅に投げかける。何か言いたそうな少年を見て、麗紅は悪戯っぽく口許を歪めた。
「あんたは筋金入りの面食いだからねぇ。このコが危ないと思ったまでだよ、」
 意味ありげな視線を、紫霖ツーリンに向ける。
「危ないって・・・おいおい。幾ら俺でも、男は許容範囲じゃないぜ、」
「嘘ばっかり。四六時中彗星フォイシンを可愛がってるくせに、」
 麗紅リーホンの思わぬ切り返しに一番慌てたのは、後ろで大人しく二人のやり取りを見守っていた彗星フォイシンだった。頬を赤くし、俯いてなにやら口ごもっている。
「人聞きの悪いことを言うんじゃねえ、莫迦ッ。彗星フォイシンが固まってんじゃねーか、」
「ああ、そうだね。彗星フォイシンは可愛いなぁ、あはは」
 うろたえる少年を見ながら、麗紅リーホンは堪え切れないと言ったように低く笑い始めた。
「でッ・・・・・・でも、本当に奇麗な人だね、」
 どうにかして話題を転換させようとした彗星フォイシンは、やたら不自然な笑みを紫霖ツーリンに向けた。
「だね。見てよ、肌なんか白くてすべすべだよ、男のくせに」
 素早く笑いをおさめた麗紅リーホンが、紫霖ツーリンに向き直ってそれに応じる。好奇と感嘆に満ちた三つの眼差しが、一気に彼の元に注がれた。
確かに、彼の美貌は賞賛に値するものだった。困惑したように伏せられた睫毛は長く、肌のきめも細かい。襟足を軽く伸ばした髪は、夕闇の、夜の帳がおりる一歩手前の夜天の艶を宿している。線の細いおとがいの輪郭や、氷細工を思わせる鼻梁は、澄んだ憂いを帯びていた。そんな儚げな顔立ちをしていたが、同時に他人を寄せ付けない厳しさも備わっていた。言い換えるならば、気位が高いというところか。
「こーゆー顔は、化粧をしたらさぞかし映えるんだろうなァ」
 うっすらと、人を食ったような笑みを浮かべて、男――翡翠フェイツェイ紫霖ツーリンの頬に手を伸ばした。
「さ・・・触るなっ」
 軽く触れかけたその手を、少年が押しのける。と、その瞬間、翡翠フェイツェイの指先に静電気のような衝撃が走った。耳障りな粒子の音が、少年の拒絶を顕著に表す。
「・・・・・・吃驚びっくりした・・・・・・あんた、何者だよ?」
 まだ軽く痺れているらしい指先を抑えながら、珍種の動物でも見るような目つきで紫霖ツーリンを眺めまわす。
「それはこっちの台詞だっ!お前らの目的は何なんだ?こんな・・・見ず知らずの人間助けて。そもそも、何でオレの名前を知ってるんだよっ!」
「知ってるのはそれだけじゃないよ、」
 頑是無い子供のような無邪気さで、彗星フォイシンは信じられないような言葉を口にした。怪訝そうに眉を寄せた紫霖ツーリンに向かって、翡翠フェイツェイが後を続ける。
朱紫霖チュウツーリン、十六歳。二千年五月二十二日に上海市長寧区で生まれる。その後、電脳関係の仕事に就いていた母親に従って大陸を転々とした後、十歳のときに北方監察都市・哈爾浜ハルピンに定住するが、その二年後に母親と死別。父親も身寄りもなかったあんたは、飯店の下働きやら何やらをしながら、妹と二人で哈爾浜ハルピンにあるマンションに暮らしていた。しかし十日前に妹が行方不明になり、その二日後に住居であるマンションが爆破事故に遭って、行き場を無くた挙げ句柄の悪い連中に追いかけまわされる羽目になった。そして手持ちの金で行けるところまで逃げようとして、上海に流れ着いたのが九時間前……―――と。これで間違いないな?」
 寸分違わずに暗唱された自分の歴史。
 紫霖ツーリンは、またあのどす黒い不安が込み上げてくるのを感じた。息苦しさが募る。彼らの意図も、正体も、まったく読めない。もし仮に、自分を追ってきた奴等の仲間なら、何故自分を殺さずに助けたんだ?形の無い不安と言うのは、こんなにも自分を苛むものなのか―――躰が震えた。
「あんたら・・・・・・一体何者なんだ?」
 からからになった喉が紡いだのは、酷く掠れた声だった。今自分が抱える黒い焦燥を如実に示すような。そんな少年の不安を見て取った麗紅リーホンは、急に真面目な顔になって紫霖ツーリンと向かい合った。芯の強そうな瞳が、彼の眼差しを受け止める。
「単刀直入に言おう。君、朱紫霖チュウツーリンの身柄は十二月十四日をもって、我々上海騎士団第九部特別派遣捜査局が保護しました」
「騎士団・・・・・・だって?」
「言っとくけど、君の体を調べたハックしたわけじゃないからね、」
 凛とした少女の宣告、そして突きつけられた黒革の手帳は、紫霖ツーリンの不安を一掃するには十分な効力を持っていた。

 連邦警備保安部隊――――通称上海騎士団は、古くは第一階級の一族たちに仕える傭兵貴族の集まりだった。
 現在での彼らの役目は本部を置く商都・上海から、大陸全域に発生した連続殺人事件やテロ、組織犯罪に関する事件などの一級犯罪を取り締まる連邦警察である。騎士団の隊員はすべて橙式(第二階級者)、それも選りすぐりの凄腕ばかりで構成される精鋭部隊であると聞く。


 何故そんな連中が、自分を―――身寄りもない最下層すれすれの孤児を保護したのかは分からなかった。けれども、頼れる相手は今此処にいる三人しかいない。
「だったら・・・・・・頼む!松花ソンファを・・・妹を助けてくれっ。お前ら、警察なんだろ?」
 決死の想いで少年が懇願した。今にも飛び掛りかねない勢いで、麗紅リーホンの腕を激しく揺さぶる。
 夢の中で見た幻影が、瞼に強く焼きついて離れなかった。こうしている間にも、松花いもうとの身に何かが起きているかもしれない。それでなくても、心細い想いをしているはずだ―――少年の手に、力が籠もる。
「まずは、落ち着け。今から事情を話すから、手、離してくれない?」
 沈着な少女の一言にたしなめられて、紫霖ツーリンは渋々手を離した。
「―――まず、キミの妹を攫い、マンションを爆破させ、キミを追ってきた連中についてだ。奴等は多分、孫福康ソンフーカンという貿易商の手の者だ。と言っても、雇われたチンピラだろうけど」
「・・・・・・なんでそんなお偉いさんが、オレたちなんかに?」
「あんたを追ってた奴らは、この時計を狙ってきただろ?」
 待ってましたとばかりに、翡翠フェイツェイが答えを寄越した。その右手には、真鍮製の懐中時計が掲げられている。
「それは・・・ッ」
 たなびく瑞雲と、羽根を広げた鳳凰が蓋を覆うように彫り込まれた時計。見覚えがあった。当たり前だ。自分が命を狙われる鍵となった、母の形見である懐中時計なのだから。
 紫霖ツーリンは深く息をつき、恐れ入ったというように首を振った。
「まさかそんなことまで知っているとはな。確かに、その時計を渡せと脅された。でも横柄な態度が気に入らなかったし、妹を攫った奴等だと思ったから断った。そしたら、あいつらいきなり撃ってきた」
 左腕の傷を強く握り締める。
「莫迦だなー。これを餌にして、妹君を助けることも出来ただろうに、」
「でも、その時計に何の価値があるんだ?」
 不謹慎極まりない翡翠フェイツェイの意見は聞かなかったことにして、紫霖ツーリンは再び麗紅リーホンに尋ねる。麗紅はついと視線を逸らした。ほんの一時だけ、忘れていた沈黙が舞い降りる。
「―――――ごめん。これ以上は勘弁して、」
 麗紅リーホンの口を割って出てきたのは、言いにくそうな低い声だった。
 紫霖ツーリンは無感動に彼女を凝視していた。どうせ聞いても教えてくれないとは思っていたが。事件の当事者とは言っても、結局自分は蚊帳の外か。紫霖は納得のいかない様子で目を伏せた。
「別にいいさ。そんな値打ちものなら、オレには必要ない。欲しいんなら、やる」
「そりゃ、どうも、」
 嫌いな相手に再会してしまった時のように、麗紅リーホンは苦く笑った。紫霖ツーリンはそんな彼女に冷たい視線を投げつけると、刹那、男の手から時計を掠め取った。
「けど、条件がある。もし妹を攫ったのがその孫って奴なら、オレはそいつを許さない。お前らがそいつのところに行くんなら、オレにも行かせてくれ」
 突きつけるような挑戦的な光が、少年の瞳に宿った。先程の早業を目の当たりにした翡翠フェイツェイは、目を瞬かせて少年を見遣る。
「へぇ。なかなかやるじゃねぇか。そうしないと、時計も渡さないって訳か」
 にっと、品定めするような薄ら笑いが口許に浮かぶ。
「言っとくけど、俺らは今此処でそれを奪うことだって出来るんだぜ?」
「賭けにもならないね」
「ツウカ、オ前ミタイナ非力ナ奴ガ乗リコンデドウスル?スグニ捕マッチマウノガ関ノ山ダゾ。足手マトイニナルダケダ」
 カラスには言われたくないな・・・。それまで黙っていた九官鳥に向かって、心の中で毒づく。
「やめといた方がいいよ・・・。僕らだって危ないんだ。民間人の君を、これ以上の危険に晒すわけにはいかない・・・」
「――――そんな言葉は聞いてない、」
 ゆっくりと、だが凄みのある声が異口同音に叫ばれる非難を蹴散らした。
シーか、不是プーシか。聞きたいのは、それだけだ」
 真っ直ぐに紡がれた言葉に、迷いはなかった。少年の硬質な眼差しが、其処にいる全ての者の言葉を奪う。ひっそりと降りてきた静寂が、彼の意思をいっそう強いものへと変化させた。呼吸さえも慄きそうな、密集した時間が流れてゆく―――
不諾ダメだ
 一切の感情を窺わせぬ事務的な口調で、少女が沈黙と彼の懇願を切り捨てた。無慈悲な言い様に怯んだ紫霖ツーリンの隙を突いて、その手から風のような鮮やかさで懐中時計を奪い去る。
「君の気持ちは分かる。だけどあたしたちはその感情に付き合うことは出来ない。これは仕事なんだ。お遊びと勘違いしてもらっちゃ困る」
 それまでの何処か巫山戯ふざけた振る舞いとはうって変わって冷ややかに告げると、麗紅リーホンは医療箱を手早く片付け、おもむろに立ち上がった。
「悪いけど、時計は預かっておくよ。心配するな、君の妹のことはあたしたちが何とかするから」
 少年の嘆願の欠片さえ拒むようにその背を向け、麗紅リーホンは呆気にとられた仲間を置いて早々に衝立の向こうへと姿を消してしまった。残された男と少年は、気まずそうに顔を合わせて、その後に続く。
 帰り際、彗星フォイシン紫霖ツーリンの枕もとに薬と水差しが載った盆を置いていった。
「抗生剤と、痛み止め・・・だって。此処に置いておくね」
 おだいじに、そう言い添えて、彗星フォイシンは目も合わせずにそそくさと部屋を出て行った。紫霖ツーリンは暫らく洋盃コップの水を眺めていたが、やがて渡された薬とともに一気に飲み干した。
 眠る場所は確保できた。わけの分からぬまま追い回され、明日の命すら保障されない日々も終わりを告げた。その上突如現れた騎士団の人間が、妹を救い出すと約束した。つい数日前までままならなかったことが、強風に流された雲間から覗く太陽のように、自分の前に光を落としている。
 だが――――少年は自問した。
 極限まで追い詰められたあの状況が逆転し、自分がこうしているのはあまりにも虫がいい話だ。
 今自分を照らしている光は、真実を誤魔化すためのまがいものではないのか。
 そもそも遠く離れた北の街で起きた爆破事件や、ただの孤児がチンピラに追われるような瑣末な事件にどうして連邦警察がとりあうのだろう。その理由は一つだけ。あの懐中時計の存在があったからこそ、彼等は自分を救ったのだ。
 ならばもう自分は用済みだ。最低限の世間体を取り繕うために、このまま彼を放り出したりはしないだろうが、妹を救い出すのは彼らの任務計画に組み込まれていないに違いない。臓器売買や売春を目的とした誘拐は大陸に蔓延する日常的な犯罪の一つだ。そこに強大な犯罪組織の匂いが嗅ぎ取れれば、被害に遭ったのが一般的な中流階級者であろうと、警察は深入りせぬまま事件をうやむやにすることも少なくない。ましてやなんの力も持たぬ孤児を救出して、彼らに何のメリットがあるというのか。
 何が得で、何が損なとなるのか。腐敗した階級社会ヒエラルキィの方程式において、少年に味方するものなどいない。正義を掲げる人間の心地よい言葉にほだされるほど、紫霖ツーリンは純粋でも、愚かでもなかった。
 眩しすぎる偽者の陽光に包まれたまま、強すぎる光が生み出した影と闇の底に潜む真実に気付かないままで居るわけにはいかない。そのためには何を成すべきなのか、少年は十分承知している。紫霖ツーリンは布団に潜り込み、これから起きるであろうことに頭をめぐらせた。
 松花ソンファ―――。
 無事で居てくれるだろうか。もう十日以上も逢っていない、たった一人の肉親。
 焦燥と不安が、躰を取り巻く。両手を握り締め、目をつぶってそれを振り払おうとした。大きく息を吸い込んで、意識を分散させる。そうしているうちに、少年は浅い眠りの淵に沈み込んでいった。