「ええ?お客さんまた来たの?懲りない人たちだなぁ、もう。
ん?この辺りで黒髪の十五・六歳くらいの少年 を見なかったかって?写真は…どれどれ?うわっ。すげぇ美人じゃないですか。……って言うか、これと同じ質問を、三時間ほど前にも旦那の口から聞いたような気がするんですがねぇ。やれやれ、これじゃあ、メビウスの輪ッかだね。いつまでたっても堂々巡り……。道に迷ったんなら、素直に言ってくださいよ…。え、そうじゃないの?つうか質問に答えろって?……あー、さっきも言った通りっスよぉ。こんな辺鄙 で胡散臭いとこになんか、誰も来やしませんて。
ってちょっとちょっと!勝手に店のもん触らないで下さいよ。しかもその壷、何気に高いんですよ。壊れたりしたらどうしてくれるんですかっ!まぁ、お客さんが買い取ってくださるなら別に構いませんが。……て、何そんなに睨んでるんですか。え?この店は本当に骨董店なのかって?見ての通りっス。ちょいとうらぶれちゃいますが、正真正銘の骨董店ですよ。まぁ副業で、喫茶のほうもやってますが。
え、最近店に懐中時計を持ち込んだやつが居なかったかって?いやぁ、ここ一カ月くらい、お客さんが一人も来ないんですよぉ。ましてや商品持ってくるような酔狂な奴なんて、いません。……嗚呼、雨も本降りになってきたことだし、よかったら、一杯珈琲でも如何です?ついでに、この壷買い取ってくれませんかねぇ、旦那?」
朱に染まった黄昏の街を、少年が駆けゆく。
息を乱し、目を見開き、髪を風に靡 かせながら、もつれる足が悲鳴をあげるのも構わずに、ただひたすら前を向いて。
此処を左に行けば、一体幾つの角を曲がったことになるだろう。そもそも、どれ位の間、こうしているんだ?わからない。思考を始めた途端に、足が竦んでしまいそうだ。今はただ、恐怖に駆り立てられるままに、走らなければ―――――。
「……ぅわっ」
取り憑かれたように走り続けていた少年を、不意に眩暈 が襲った。
張り詰めていた神経が、ぷっつりと切断される。急にスピードを失った彼の躰 が、糸の切れた操り人形めいた動きで、前のめりに倒れこんだ。
「―――っ……」
咄嗟についた左腕に、焼け付くような痛みが走った。悲鳴とも溜息ともつかない声が、少年の口唇からこぼれる。庇うように右手で腕を抑え、そして痛みの源へ目を遣った。
指の隙間から覗くのは、雨上がりの夕暮れに染まる、浅く抉れた醜い傷跡。
少年の肩が小刻みに震えた。息苦しいほどの恐怖がこみ上げてくる。
左腕から目を逸らすと、少年はもう一度立ち上がろうと膝をついた。こんなところでぐずぐずしていては、間違いなく殺される。そんな予感を断ち切るように足に力を入れたが――――叶わなかった。
膝から下が、麻痺したように動かない。軽い痙攣さえ起こしている。
そのとき少年は、初めて恐怖以外の表情を浮かべた。
諦めることでしがらみから開放されたような、奇妙な笑み。確かな冷静さを伴ったそれが、少年の恐怖を少しずつ和らげてゆく。
やつらの足音は、既に遠のいてしまっている。自分の死を暗示する、あの忌まわしい発砲音も。多分、上手く撒けたのだろう。今はそう信じるしかない。
荒く息を弾ませながら、少年は近くの壁に隠れるようにして寄りかかった。
十二月。降誕祭 を間近に控えた上海の風は、吐き出す息までも白く凍りつきそうだ。
ほぼ沈みかかってしまった夕陽のかわりに、一番星を宿した紺碧の空が、魔都の色彩を変えてゆく。何処かの大通りから流れてくる賑やかな喧騒が、これから訪れる夜を物語っていた。
――――随分遠くに来たみたいだ。
少年は魂を抜かれたような表情で辺りを見渡した。
ひび割れた瀝青土 の、狭く暗い路地裏。壁が煤けてしまった背の低い建造物 の群れには、夕暮れ時なのに灯り一つ見当たらない。屋根のかわりに取り付けられた粗末なトタン板が、キシキシと不気味な音をたて、古びた窓には風が容赦なく吹き付けている。
時代に置き去りにされたまま、化石になってしまった街。
全体を覆い尽くす灰色の空気は、廃墟と呼ぶに相応しい。
少年は、自嘲に充ちた溜息をついた。まったく、傷ついた自分が果てるには相応しい場所だ。反吐が出る。
―――寒い。
少年は、自分を抱きしめるようにして身震いした。喉から取り込まれる酸素が、体全体を内側から凍らせてゆく。
寒かった。氷に閉ざされた北の街で育った彼にとって、このくらいの気温はなんでもないもののはずだ。だが先ほど流してしまった血液によって奪われた体温が、彼を限界へと追いやっていた。少年は唇をかみしめた。傷口から、寒さがじわじわと凍み込んでくる。かじかんだ指先に、感覚はなかった。躰の感覚が、深い絶望にも似た夜気によって、蝕まれてゆく―――――。
―――そろそろやばいな。
少しづつかすれてゆく意識の中で、少年の直感が告げた。
躰が、もう自分のものではないみたいに重い。眩暈と痛みが押し寄せてくる。目を開いているのさえ、困難な状態。
それでも何とか意識を保とうとしていた時、視界の片隅に黒い影が舞い降りた―――――カラスか。黒い、賢そうな瞳が少年を見つめている。
このまま野垂れ死んだら、こいつの餌になるのかな。目を抉られ、肉を啄ばまれ、ゴミよりも非道い死に様を、この廃墟に晒して。
不意に頭を掠めたヴィジョンは、少年の精気をことごとく奪い去った。死神に、自分の死に顔を突きつけられたような気分だ。
戦意喪失。生きる気力がゼロになる。
「オイ、シッカリシロヨ、紫霖 」
まどろみにも似た闇の中へ意識を葬る最中、少年は自分の名前を呼ばれたような気がした。