午后になっても、空は相変わらず清々しい輝きを滲ませていた。少し霞がかった碧空を背景に、洗濯物の群れがふわりと優しくなびく。
 働き者の神経を、ほんの少し和らげてくれる陽気である。ともすればうたた寝したくなるような心地よい風を頬に受けながら、黛玉ダイユー彗星フォイシンは洗濯物を取り込んでいた。
「いい天気ね、」
 黛玉ダイユーは手摺から身を乗り出して、空を仰いだ。南中よりも少し傾いた太陽は、冬とは思えないほど穏やかに、眩しく輝いている。
「うん。洗濯物が早く乾くから、助かります」
 てきぱきと動きながら答えた少年の顔は、いたって大真面目だった。
 まるで家事をこなすことを生業とする者のような口調に、危うく噴き出しかけた。実際、彼はこの家の家事全般を一人で請け負っているので、その喩えはあながち間違ってはいないのだが。
 その働きぶりたるや、主婦顔負けである。まだまだ幼いばかりの少年には重荷だろうに、彼は文句一つ言わずにその仕事をこなしていた。
「それに、黛玉ダイユーさんもいるし。何時も手伝ってくれてありがとうございます」
「そんな。改めて言われるほどのことでもないわ」
 それは謙遜でも何でもなかった。彗星フォイシンがやっている仕事ぶりに比べたら、自分の労働なんて子供の遊びのようなものである。事実、今たたんでいる洗濯物も、きちんと折り目がついていない所為か不恰好で、とても見られたものではなかった。
 ふと思い返してみれば、こんな風に洗濯物をたたんだり、掃除の手伝いをする機会など、これまで生きてきたなかで殆どなかった。別に必要なかったからだ。儚くか弱げに微笑んで見せること。ただ従順に男を受け入れること。それだけが、黛玉ダイユーに課せられた『仕事』だった。それだけで、タンを初めとする男たちは満足してくれた。
「おーい、彗星フォイシン!!ちょっと来てくれないか?」
「わかった」
 階下したから麗紅リーホンに呼ばれて、彗星フォイシンは慌てて部屋を後にした。残された黛玉ダイユーは、自分の仕事を黙々と続けることにする。
 此処に来て初めて、普通の生活の大変さを思い知った。部屋を片付け、ご飯を作り、服を干す。自分は本仕事の三分の一もこなしていなかったが、それでも慣れないことに対する疲れは募った。だが、その疲労感と引き換えに手にしたのは、ささやかな充足だった。
 当たり前のことが、こんなにも大変で、けれども幸せだなんて、知らなかった。眩しいくらい、嬉しかった。
 窓際から差し込む暖かな陽だまりを躰中に受けながら、黛玉ダイユーがその想いをかみ締めていた時、不意に頭上でバタバタという激しい羽音がした。
 おもむろに顔を上げると、壁際に木製の鳥篭があった。何故かその存在に、ぞくりとする。中で大人しく羽を休めている黒い鳥―――シュウと言ったか。に歩み寄りながら、躰の中心が冷えていくのを感じていた。
「開けて欲しいの?」
「違ウ、違ウ。ソノぺんだんとガ、気ニナッタダケダ」
「これ?」
 シュウの意外な一言に面食らった。首から下げていた銀色のを指先で弄いつつ、どうしてなのか聞いてみる。
「眩シイモノガ、気ニナルンダ」
 まるでカラスみたいなことを言う。あるいは九官鳥も、光物が好きなのだろうか。純銀製の首飾りペンダント、天使の羽根に茨が絡んだ装飾デザインの首飾りは、先日タンから贈られた品だ。シュウはお気に召したようだが、持ち主である黛玉ダイユーは自分を拘束する象徴のように感じられて、あまり好きではなかった。
 羽を絡めとる茨。それはタンが自分を閉じ込めるために拵えた鎖だ。彼はそれを愛情と呼んだ。そして片時も離れないように彼女を籠の中へと仕舞いこんだ。それが黛玉ダイユーの幸せの全てであるかのように。
 だが―――
「こんなところに飼われていて、窮屈じゃない?」
 ふと口から零れた言葉は、今まで聞いてきたどんな疑問よりも自然だった。
 何時も感じていた違和感。あの男が『愛情』と呼ぶものは、歪んだ所有欲だ。籠の中に自分を閉じ込めて、呼ばれた時にさえずり、戯れるだけの玩具。そこに、人間としての価値など存在しない。
 だとしたら私は、何者なのだろうか。
 その答えを、この黒い鳥が教えてくれるような気がした。
 聞くのは怖かった。でも聞かずにはいられなかった。
「窮屈?何言ッテンダ、オ前」
 だがその意に反して返って来たのは、鼻で笑うようなシュウの声だ。
「俺ハ、此処ニ居タイカラ居ルダケダ。愛想ガ尽キタラ出テ行クシ、疲レタラ鳥籠デ休ム。飼ワレタナンテ思ッタコトハ、一度モナイネ」
 どうやら黛玉ダイユーの質問は、彼のプライドを酷く傷つけたようだった。シュウの声に誇張や意地は微塵もなく、本気でそう思っていることがはっきりと伝わってきた。むしろそんな愚問を投げかけてきた黛玉ダイユーを、世間知らずの子供を相手にするかのように見返している。
 飼われたなんて思ったことは、一度もない……。本物の鳥は、自分なんかよりもずっと自由で、強かだった。
 澄んだ漆黒の瞳に打たれて、黛玉ダイユーは何故か無性に泣きたくなった。








 「結局無駄足……か、」
 不自然なくらい何もない部屋を見渡して、麗紅リーホンは一人ごちた。
 華山路ホヮシャンルー 一八七号。
 かつて仏蘭西フランス租界と呼ばれたこの地区エリアには、異国の要人たちが贅を尽くし華を競った瀟洒な古邸が数多く点在している。ゆるやかな曲線を描く露台バルコニー、翳り始めた夕暮れに染まる赤煉瓦の外壁に、唐草が絡まりあう鉄扉てつび。佳き時代の古びた記憶を未だ鮮やかに留めた屋敷はしかし、人の住む気配を感じさせなかった。
「見事なまでにもぬけの殻だな……そっちは?」
「全っ然だめ。なぁんもない」
 隣室から戻った蓮英リェンインは、手を交差させ否定の意を示しながら首を振った。至極つまらなそうに口を尖らせながら、同伴者に抗議する。
タンの居場所を突き止めたってゆーからさ、わざわざ来てみたのに……完全な空家じゃん。麗紅リーホンの嘘つき」
「文句言いたいのはこっちなんだけど、」
 蓮英リェンインを軽く睨みつけると、麗紅リーホンは一縷の望みをこめて戸棚の抽斗ひきだしを開けた。手がかりどころか、髪の毛一本見当たらない。乱暴に抽斗を閉めながら、麗紅リーホンは苛立たしげに爪を噛んだ。
 黛玉ダイユー晶片チップから個人情報をスキャンし、彼女が住んでいたと思しき場処を探り当てたのはつい昨日のことだ。厳密に言うと、タンの住居を捜索する権利すら麗紅リーホンにはない。罪状が見つかっていないのだ。だが御曹司との関係が指摘された以上、彼の元にも犯罪の証拠が残っているはずだった。そしてリュウも、その証拠を探している。猶予はなかった。罪状が無いなどと言って、それを悠長に探している暇があるならば、直接本人の手から証拠を押さえたほうがよほど確実である。
「もぉ、行こっ。トンズラされたんじゃどぉしようもないって」
 未練がましく棚と床の隙間を覗き込んでいた麗紅リーホンに、蓮英リェンインが呼びかける。
「大体さぁ、麗紅リーホンんとこに愛人が流れ着いたってのも嘘くさいんだけど。その人逃げ出してきたんでしょお。なんで何も言わないわけ?超怪しいんだけど、」
「――― 確かにな。もしかしたら感づかれたかもしれない」
「やぁだ。翡翠フェイツェイがその人拾ったのも、なんかの罠だったりして、」
「まさか」
 蓮英リェンインの台詞は冗談としても、タンに感づかれた可能性はあった。リュウの手駒である捜査局の人間も、この事件に当たっている。第九部の敵は、花渓幇ファーシィパンだけではないのだ。
 蓮英リェンインに促され、麗紅リーホンが渋々立ち上がったとき、ふと何かが視界の端に止まった。事件の手がかりか……床の隅に、まるで隠されているかのように落ちていたそれを反射的に拾い上げる。写真だった。くしゃくしゃに丸められ、真ん中に破られた痕の残る―――けれども切り裂かれることの無かった写真。
「りぃほ〜ん。早くぅ〜〜」
「―――ああ、今行く」
 少女はその写真を裏返し、そっともとの場処へと戻した。そしてもう一度、部屋を見渡す。写真から微笑みかける黒髪の女を待ち続けるかのような寂寞せきばくの静けさが、黄昏とともに溶け込んでゆくのを見届けると、麗紅リーホンは感傷を振り払うように、その部屋を後にした。