粉のふいた白い生地に具を乗せ、油で幾分湿らせた生地のへりを少しずつ繋ぎ合わせてゆく。たったそれだけの作業なのに、思うように上手くいかないのが歯痒かった。試行錯誤の中で生み出されていった餃子ギョーザたちは、作り手の要領を得ないまま、不恰好に崩れた状態で目の前の皿に積まれてゆく。
 春節しゅんせつを目前に控えた旧市街は、幸福を呼ぶとされる紅に染め上げられていった。県城けんじょうの寂れた露地に店を置く宝蘭堂ほうらんどうも例外ではない。いつもは素っ気ない店先には鮮やかな春聯チュンレンが飾られ、店の住民たちの棲家は丁寧に掃き清められた。慌しい年の暮れの総仕上げは、旧正月前夜に食す餃子作りだ。長寿と繁栄を願い食される餃子は、春節に欠かせない料理の一つである。
 少しでも役に立てればと、餃子作りに手を貸した黛玉ダイユーだったが、あまり捗々はかばかしい成果は得られなかった。慣れた手つきで餃子を包んでゆく彗星フォイシンの手許を見ながらそれに倣うが、彼のようにきちんとした形にならない。憮然とした表情で、黙々と作業に取り組む紫霖ツーリンのほうが、よほど奇麗に包んでいっている。
「ただいまー」
「お帰りなさい、」
 外出から戻った麗紅リーホンが、居間へやって来た。帰宅の声に、作業する手を休めた黛玉ダイユーがそれに答える。だが振り返ると同時に、麗紅リーホンが抱えていたものに一瞬眼を奪われた。
麗紅リーホン……それ、どうしたの?」
「ああ、これ?」
 黛玉ダイユーと同じく、驚いたように眼をみひらいた彗星フォイシンが戸惑いがちに尋ねた。麗紅リーホンは一抱えもある花束にちらりと眼を走らせたあと、
「ちょっとね」
 曖昧な微笑を浮かべ、決まり悪そうに肩をすくめた。円卓テェブルに坐った黛玉ダイユー紫霖ツーリンの間の椅子に花束を置く。その拍子に、甘くも懐かしいかをりがふわりと漂った。淡く綻びかけた白木蓮マグノリア。深雪をその身に宿したかのような白いはなびらは、凍える冬の隙間あわいに、春の芽吹きが訪れていることを告げていた。
「ところで彗星フォイシン、花瓶とかない?これが生けられるくらいの」
「店にいっぱいあるじゃない。好きなの使っちゃえば?」
 同居人の答えに暫し考え込んだのち、麗紅リーホンは踵を返して居間から出て行った。
「お店の花瓶、使ってもいいの?売り物なんでしょう、」
「大丈夫。どうせあっても邪魔になるだけだし」
 罪のない笑顔で首を振る少年は、黛玉ダイユーの心配など意に介さないようだった。腑に落ちない気分で笑みを返した黛玉ダイユーだったが、それ以上は追及しない。所詮自分はよそ者なのだ。他人の事情に深く首を突っ込む資格など、もとより存在しないことを忘れていた。
黛玉ダイユーさん、段々上手になってきましたね、」
 再び餃子作りへ意識を寄せた黛玉ダイユーに、彗星フォイシンが声を掛けた。漸く見られる形になった餃子を苦笑しながら見つめた黛玉ダイユーは、幾分困ったように首を傾げる。
「――― そう?」
「うんっ」 
 力強く頷かれて、何だか気恥ずかしくなる。弟とも言えるくらいの少年に褒められるのも妙な心地がしたが、湧き上がってきた嬉しい気持ちは、素直に認めることにした。
「具の量は、もう少し多くても大丈夫です。このスプーンちょっと大きいから、八文目くらいに盛って……そうそう、それくらい」
 円卓の向かいに坐った彗星フォイシンが、身を乗り出して説明を加える。
「あと、生地はこんな感じにたたんで……あ、それはちょっと幅が大きすぎるかな。端からこんな風に、結ぶようにしていけば奇麗になります」
 彗星フォイシンの手ほどきを受けながら、言葉通りに生地を包んでゆく。やっと出来上がった餃子は、真ん中がふっくらと丸みを帯びた、美味しそうな形に仕上がった。
「ほら、出来た」
 まるで自分のことのように喜ぶ彗星フォイシンに、黛玉ダイユーもつられてはにかんだ笑みを零す。一瞬、忘れかけていた過去が甦った。物心がついた頃の思い出だ。小さな酒家みせを経営していた両親の真似をして、春節の前の晩に餃子を作らせてもらった記憶。今よりもさらに歪な餃子だった。貧しいながらも素朴で優しい料理を作っていた母が、その不恰好な形を褒めてくれた。粗末な屋台めいた故郷の店が、麗紅リーホンの残した白木蓮マグノリアの馨りの如く、淡い影を胸に落として消えてゆく。
「ねぇ、」
 それまで一切言葉を発しなかった少年が、不意に口を開いた。
「邪魔」
 素っ気なく言い放った一言に、彗星フォイシン黛玉ダイユーが慌てて身を引く。円卓を挟んで話し込んでいた所為で、真ん中に置いた具と生地が取りにくい状態になっていたらしい。だが作業を妨害された紫霖ツーリンは、さして怒った様子もなく自分の仕事を静かにこなしていった。
 やがて麗紅リーホンが、壺を抱えながら居間に舞い戻った。円卓の後ろを通って、庭に面した窓の片隅にそれを置く。そして椅子に置き去りにした花束を、無造作に突っ込んだ。雄大な霊峰に渺々びょうびょうとたなびく雲が流れ、それを覆うように躍り出た鳳凰が、煌びやかな尾を翻しながら飛翔してゆく白磁の壺。悠久の時を越えた神話の世界に、白木蓮マグノリアの華やかな芳香が興を添えた。
「随分作ったな」
 花を生け終えた麗紅リーホンは、円卓に次々と積み上げられてゆく餃子の山を覗き込んで眼をしばたたかせた。
「あっ、彗星フォイシン!あんだけ韮菜ニラ大蒜ニンニク入れんなって言ったのに、何で入ってるわけ?」
「……韮菜と大蒜が入ってない餃子は、餃子じゃないよ」
 麗紅リーホンの抗議に、彗星フォイシンが疲れた様子で首を振る。
「誰の教えだそれは。翡翠フェイツェイか?!畜生あいつめ、彗星フォイシンが自分に逆らえないのをいいことに、あたしを陥れようと……」
「勝手に話をこじらせないでよ」
 誇大妄想じみた麗紅リーホンの言い分に、彗星フォイシンが口を尖らせた。そのやり取りを見つめていた黛玉ダイユーが苦笑を漏らす。麗紅リーホンの偏食ぶりは、此処へ来て間もない黛玉ダイユーでも呆れるほどに分かりやすかった。
 彗星フォイシンと幾つかの言葉を交わしながら、麗紅リーホンが円卓の向かいにあるソファに腰を下ろした。喋ることがなくなったのか、手持ち無沙汰な様子で脇に放り出してあった新聞をめくる。時計の針が、淡々と時を刻んでいった。居間に舞い降りた静寂を、降り積もらせるように。
 やることを失くした麗紅リーホンは、新聞の中ほどを広げた姿勢のまま、円卓の三人をじっと凝視した。その気配を察した黛玉ダイユーが、ちらりと少女に眼を遣る。賢そうに輝く琥珀の瞳が、隣に座る少年にひたと据えられていた。まるで何かを固く決意したかのような、閉塞感すら覚えるほど張りつめた眼差しに、つい紫霖ツーリンの顔まで眼で追ってしまう。
 彼らの関係など知る由もないが、同じ年頃の二人だ。彼女が紫霖ツーリンを慕っている、と考えられないこともない。だが彼を見つめる麗紅リーホンの眼差しは、恋焦がれているというにはあまりにも鋭く、ただならぬ気迫すら籠っていた。少なくとも、片恋に悩む少女の切なく疼く、それでいてとろけそうに甘美な胸の内は、そこには感じられない。思いつめている。だがそれは届かぬ思いに喘ぐ恋のため息ではなく、もっと別の次元に存在する何かのような気がしてならなかった。
「何?」
 執拗な麗紅リーホンの視線に、たまりかねたように紫霖ツーリンが顔を上げた。漸く標的の関心を得た少女は、勝ち誇ったような笑みを瞳に漂わせると、
「お気に障りましたか、姫様。貴方のかんばせがあまりにもお麗しかったゆえ、つい我を忘れて魅入ってしまいました。御無礼、どうぞご容赦くださいませ」
 音もなく立ち上がり、円卓に坐る紫霖ツーリンの元へ歩み寄った。芝居がかった調子で、少年のおとがいに指を添える。そこにある種の揶揄を見取った紫霖ツーリンは、くだらないとばかりにその手を払い、そっぽを向いて彼女の言葉を跳ね除けた。
 黛玉ダイユーは舞台のワンシーンでも眼にしたような気分で、彼らのやり取りを見守っていた。あたかも淑女を誘う紳士の如く洗練された身ごなし、振る舞い。ふとした瞬間に見せる麗紅リーホンのこうした所作には、驚かされることもしばしばだ。
 思えばこの娘は、生粋の大陸人から随分と異なる容姿をしている。顔立ちは東洋人そのものだが、赤みがかった髪の色と杏の露酒リキュールを思わせる琥珀の眼と言う組み合わせは、上層階級の大半を占める大陸移民・皇明こうみん族のものだ。彼女がもし官僚や貴族、名の知れた財閥などで占められる支配階級の出身であれば、こうした振る舞いをなんのけれんもなくやってのけることにも納得がいく。
 紫霖ツーリンから冷たくあしらわれた少女は、不貞腐れた面持ちで彼の隣の席に腰を下ろした。黛玉ダイユーは不意に湧き出た邪推を頭から追い出すと、努めて自然に麗紅リーホンへ問いかける。
「貴女は作らないの?」
「此れ、」
 餃子を指で示すと、麗紅リーホンはちょっとだけ眼を丸くした。そんなこと、考えもしなかったというように。
「作らないんじゃなくて、作らせないんです。とんでもない形になるから」
 手にした餃子の形を整えながら、さりげなく彗星フォイシンが横槍を入れた。その口調には、家の手伝いをしない少女への非難がそれとなく仕込まれている。彗星フォイシンの遠まわしな言い分を聞き咎めた麗紅リーホンは、おもむろに生地と具に手を伸ばし、無言のまま彼の真似事を始めた。
 神妙な顔つきで、麗紅リーホンが生地のふちに油を塗りこむ。そのまま二つに折りたたんで具を包み始めると思いきや、何を思ったか、茶巾のようにてっぺんを丸め出し、むりやり生地を纏めていった。
麗紅リーホン……此れは一体……」
 苦心して完成させた少女の作品を見つめながら、理解に苦しむとでも言いたげな表情で彗星フォイシンが問うた。
「見りゃわかるだろ。餃子だよ、餃子」
「違うよ。小龍包ショウロンポーみたいな形してるじゃない」
 この場合は、彗星フォイシンの主張のほうが正しかった。潰されたお手玉を思わせるふくよかな姿は、餃子と言うより小龍包と称したほうが分かりやすい。
「あたしのうちでは、こう言う形だったんだよ」
 だが麗紅リーホンはそんな意見に耳を貸さずに、しゃあしゃあとうそぶいた。彼女の言動は総じて、冗談か本気かの区別がつきにくく、それが真実かどうかは疑わしい。だが彗星フォイシンも負けじと言い返す。
「しかも生地の端っこ破れてるし。此れ、麗紅リーホンが食べてよね」
「厭だね。韮菜と大蒜が入ったものなんて食えるか。口が腐る」
麗紅リーホン、それは何かな。僕が作ったものへの侮辱と取っていいのかな?」
 にこやかに笑いながら、その裏に剣呑な空気を忍ばせた彗星フォイシンの言葉に、麗紅リーホンがさりげなく眼を逸らした。その雰囲気をとりなすように、
「それじゃあ此れは、私が戴くわ、」
「え、」
 二人の間に入った声に、麗紅リーホンが眼をみひらいた。麗紅リーホンが何か言おうと口を開きかけたのを遮って、黛玉ダイユーが言葉を繋げる。
「なんて言うか……とっても面白い形だし。材料は一緒なんだから、味は変わらないと思うの」
 黛玉ダイユーの提案を汲み取った麗紅リーホンは、弁明の言葉を捜すように視線を彷徨わせたのち、困ったような苦笑いを浮かべて頭を掻いた。
「じゃあ、味見してもらおうかな。……黛玉ダイユー、」
「何?」
「何でもない。ただ……貴女はきっと、いいお嫁さんになるんだろうな、って思っただけ」
 照れながら肩をすくめた麗紅リーホンに、黛玉ダイユーの顔がふと強張った。
 そんな言葉、二度と聞くことはないと思っていた。とうの昔に記憶から追いやった幼い日の春節前夜の思い出が、紗をめくるように露わになる。
 よく出来たね、黛玉ダイユー。あんたはきっと、いいお嫁さんになれるよ。今は亡き母の言葉。他愛もない瞬間の欠片が、胸の奥に鋭く突き刺さる。
 その時は旦那になる人と子供に、こうして餃子を作ってやるんだよ。丹精込めて作ってやれば、自ずと美味しくなるんだから。
 後に続く言葉までもが鮮明に思い出され、それと共に湧き上がった感情に瞳の奥が熱くなった。母の語った未来が、当たり前のように描かれると思っていた頃。それが決して叶わぬ夢であると悟った夜、心の奥に鍵をかけた。二度と返らぬ幸せだった時間が、これ以上自分を苦しめないように。娼婦に身を堕とした自分が、これ以上惨めにならぬように。
「どうした、黛玉ダイユー
 急に項垂れたまま黙り込んだ黛玉ダイユーの顔を、気遣わしげに麗紅リーホンが覗き込んだ。黛玉ダイユーはその眼差しから逃れるように、
「ごめんなさい。ちょっと手を洗ってくるわ」
 顔を伏せたまま、足早に居間を立ち去っていった。
 駆け込むようにして飛び込んだ洗面所の鏡に、眼を赤くした白い顔の女が映っている。その女と目を合わせた瞬間、黛玉ダイユーは秘め続けていた心の鍵穴が開くのを感じた。
 すべてを諦め、流されるままに生きようとした自分が、おのが心を欺き続けていた自分が、音を立てて崩れてゆく。朝の来ない悪夢の中描いた、けれどもそれを望むことすら拒み続けていた、穏やかで優しい幸福に満ちた日々が、手の届く場所に横たわっている。
 その幻に、触れてしまうのが恐かった。それは私が手を伸ばした瞬間、きっと儚く砕け散ってしまう。汚れたこの躰が手を触れた瞬間、黒く染まってしまう。男に身を売って生き永らえた自分に、今更そんな夢を見る権利などあるはずもないことを、黛玉ダイユーは厭と言うほど理解しているつもりだった。
 黛玉ダイユーは力を失った鳥が失速するように、床へくずおれた。何度も言い聞かせていた諦めの言葉が、必死になって自分を宥める。全ては夢だと。だがそれを受け入れるには、彼らはあまりにも優しく、過ごした時間は幸せすぎた。
 幾度となく胸の内で反芻し続けた想いが、虚しく響く。こらえきれなくなった黛玉ダイユーの喉から、誰にも気づかれぬほど低い嗚咽の声が、ひっそりと零れ落ちていった。