旧正月を明日に控え、年の瀬の慌しさがひと段落した頃のことだった。夕暮れ時になって買い物を頼まれた黛玉ダイユーは、この家に来て初めて店―――宝蘭堂ほうらんどうへと足を踏み入れた。
 よく熟れた鬼灯ほをずきを思わせる緋色の灯籠ちょうちんが、軒先に幾つも吊るされていた。たったそれだけで、素っ気ない店にも即席の正月気分が漂う。薄暗い闇に浸されかけた店内を紅く色づかせた灯籠が、引き戸から吹く風に揺れ動き、朧な影を仄かに浮き立たせた。誰か居る。
 カウンターと思しき処に、少年が一人腰掛けていた。夜の気配が忍び寄る闇の中、其処だけが切り取られたようにほんのり明るいのは、灯した洋燈ランプの所為だろう。
「何か、用?」
 人の気配に気付いたのだろう。頼りない照明の元で本を読んでいた少年――紫霖ツーリンは、出し抜けに声をかけてきた。今は顔を俯けている所為で分からないが、初めて逢った時はその面立ちに言葉をなくした。男にしておくには惜しいほどの美貌だ。昔棲んでいた売春窟の娼婦にも、これほど麗しい者は居なかったように思う。
 だが如何せん、彼はあまりにも無口だった。
「……」
「………」
「…………」
「坐れば?」
 長い沈黙の末、紫霖ツーリンは本から顔を上げて店内にあった椅子に坐るよう勧めた。まるで、たった今彼女の存在に気付いたかのような口調に、怒るよりも拍子抜けしてしまう。
「いえ。買い物に行くから、」
「ふーん」
 もしかしたら、来たのが黛玉ダイユーだったことすら気付かなかったのではないか。さして関心を示そうともしない眼差しは、そんな疑問を抱かせるほど無機質だ。
「お客さん、来ないわね」
「そうだな」
 というか、見たことがない。少年の心の呟きを、黛玉ダイユーは知る由もない。
「何時も、こんな感じなの?」
「ああ」
「暇じゃない?」
「ヒマ」
「繁盛してないのね」
「うん」
 聞いたら怒りそうなことでも、無愛想ながら律儀に答えてくれる。邪険にするでもない、それでいてひどく心地のいい沈黙を作り出す人だった。
 それにしても……。心の中で黛玉ダイユーが一人ごちる。壁に据え付けられた棚には玻璃ガラス細工の香水壜や陶器の急須が無造作に積まれ、紫檀したんの文机や青磁の壷は埃を被り、眼にも綾な透かし彫りの施された戸棚は今にも壊れそうなほど危うかった。少年の坐るカウンターの後ろの棚には漢方薬や中華茶、西瓜すいか南瓜かぼちゃの種を始めとする茶請けなどを瓶詰めにしたものや陶器の茶器具、さらには熟成した紹興酒の壺などが陳列されている。
 あらゆる骨董品が雑然と置いてある店内を見渡しながら、黛玉ダイユーは思った。紫霖ツーリンの言うように、客など滅多に来ないのだろう。となれば、一体どうやって此処の住人は生計を立てているのか。
 裏でいかがわしい商売でもしているのだろうか?妙に勘ぐりかけたところで、黛玉ダイユーは頭を振った。こちらの事情を聞かないで家に置いてくれるのだ。変に詮索しては罰が当たると言うものだろう。
 思い直して、店を出て行こうとしたその時。
「―――あんたさ、何時まで此処に居んの?」
「え……?」
 思わず足を止めた黛玉ダイユーを、問い掛けた本人は見ようともしない。あるいは今のは空耳だろうか?そう疑いたくなるほど落ち着き払っている紫霖ツーリンに、黛玉ダイユーは背を向けた。何かが喉に引っかかってしまったかのような違和感を覚えながら、店を後にする。
「――――此処に居たって、何も変わらないと思うんだけどな、」
 そんな少年の独り言は、行き場を失ったシャボン玉のように弾けて消えた。
 


 前世紀の西洋建築が建ち並ぶ外灘ワイタン、近代的な高層ビルがそびえる浦東プートンは、上海の観光名所として広く知られた場処だが、上海の伝統を今に伝える昔懐かしい場所と言えば此処、豫園ユーユェンを中心とした地域エリアであろう。
 古くから県城けんじょうとして栄えたこの近辺には、現在でも中華的な街並みが残っていた。上海庶民が肩を寄せあいながら暮らし、在来市場や屋台があちこちで開かれ、溢れんばかりの活気と熱気がひしめき合って此処に来るものを圧倒させる。
 大晦日を迎えた人々の心が浮き立っている所為だろうか。極彩色の人民街が、何時も以上に熱を帯びて見える。春節前夜の賑わいは徐々に加速し、臨時の露天商の掛け声も自然と高くなってゆく。眼の醒めるような真紅の天幕テントの前には烟火はなびや爆竹が山と積まれ、縁起を担ぐ人々がひっきりなしにそれらを買い求めていった。
 豫園の古典庭園からほど近い方浜中路ファンビンヂョンルーを、買い物を終えた黛玉ダイユーは意味もなく歩いていた。
 いかつい瓦屋根に、漆で染めた木枠が象嵌された白い壁。金で描かれた漢字の看板を掲げた店の連なりは、江南こうなん建築様式で統一されている。歩いているだけで、いにしえの繁華街の様子が偲ばれる界隈であった。
 このまま帰りたくない。いや、帰らないほうが彼らの為にいいのではないか?そんな事を取りとめもなく考えて歩く黛玉ダイユーは、さながら深窓の令嬢の如き清楚な風雅を漂わせていた。そんな彼女を呼び止めようと試みる商人も少なくない。だがそんな彼らの誘惑は、彼女の耳に届くはずもなかった。

――――何時まで此処に居るの……か
 家を出る時に言われた、紫霖ツーリンの台詞が耳から離れない。
 よくよく考えてみれば、自分はただの迷惑な居候に過ぎない存在なのだ。その事実を、暖かな時間の中に居た所為ですっかり忘れてしまった。
 邪魔な物。ならばいっそのこと出て行ったほうが彼らの為だ。だが出て行ったところで、行く当てなどなかった。貧乏人のくせに何も出来ない自分は、結局また躰を売って生きていくしかないのだろうか。
 黛玉ダイユーは、空を見上げた。夕陽に暮れなずむ、上海の空。もうすぐ夜が訪れる。自分がこれまで生き長らえてきた、漆黒の時間。欲望と絶望、暴力と退廃。そんな世界に生きていくのが厭で、あの男の元から逃げ出した。だが逃げ出した今でも、憧れた大空へ飛ぶことは出来ないで居る。
 結局、未だ何も解決していないのだ。そんな自分に厭気がさして、思わずため息が漏れる。そのとき、不意に足場が喪失した。
「あっ……」
 不安にも似た浮遊感が、躰を駆け巡る。転ぶ、そう思った矢先、前のめりに傾きかけた黛玉ダイユーの腕を、不意に強い力が掴んで引き寄せた。
「あんまりぼけっとしてると、怪我するぜ、」
 予想もしていなかった声に、信じられない気持で振り返る。そこには、午前中に家を出た翡翠フェイツェイが居た。