翡翠フェイツェイは路の段差を踏み外しかけた黛玉ダイユーから腕を放すと、そのまま背を向けて歩いていこうとした。雑踏に紛れそうになったその後ろ姿を慌てて追いかける。横に並んだ黛玉ダイユーに、怪訝そうな一瞥をくれた翡翠フェイツェイだったが、別段厭そうなそぶりも見せずに歩き続けた。
 嬉しい偶然を前に、だが黛玉ダイユーは何も言えずにいた。
 本当ならば、ありがとうの一つも言うべきなのかもしれない。しかし今更言ったところで遅くはないか。大体、何故あそこに翡翠フェイツェイが居たのだろう。そんな事を考えあぐねいている間にも、翡翠フェイツェイはどんどん先へといってしまう。
 何時もそうだ。何か言いたいことがあるはずなのに、いざ翡翠フェイツェイを目の前にすると、なんと言えばいいのか分からなくなる。何の外連けれんもなく、素直に感情を言葉として変換することが出来ない。言い寄る男を適当に騙して満足させる術なら知っていた。けれども、そんな手段を彼に対して使いたくなかった。
 哀しいとか愛しいとか惨めとか、そんな感情を長いこと忘れていた。そんな物を心に抱え込んでいたら、自分がいつか壊れてしまうと思っていた。
 ただの人形に、心はいらない。
 そう痛感させられたのは、もうずっと昔のことだ。タンに飼われる前から、それを知っていた。だから自ら鍵を掛けたのだ。心と言う名の小鳥を、躰の奥深くに閉じ込めた。哀しみに啼く声に耳を塞ぎ、痛みに喘ぐ声から眼を逸らす。それは自分の声ではないと頑なに信じ続け、この身を欲する男たちに、虚ろな心ごと全てを投げ出していた。
 そうか。黛玉ダイユーは突然、何かを知った気がした。自らを鳥籠へ閉じ込めていたのは、他ならぬ自分であると。黛玉ダイユーの心も、人生も、がんじがらめにしていた鎖はこの手が繋いだものだと。
 初めて湧き上がってきた答えだった。突然辿り着いた真実に、黛玉ダイユーが密やかに息を呑む。
「何考えてたんだ?」
 気まずい沈黙を破ったのは、翡翠フェイツェイのほうだった。礼も言わずに付いてくる黛玉ダイユーを責めるでもなく、素朴な疑問を投げかけてくる。
「いえ……別に大したことじゃないの。気にしないで」
「気にするなって顔じゃなかったぜ?眼が泳いでたし」
 黛玉ダイユーは顔を伏せた。知らないうちに、随分と深刻な顔をしていたらしい。
 だが、それを翡翠フェイツェイに言ったところで、詮無いことだと思った。余計な心配をかけてさせるくらいなら、何かでっち上げて上手く誤魔化してしまうほうが利口だ。だが、そんな言い訳をすぐに思いつけるほど、彼女は器用ではなかった。
「―――紫霖ツーリンさんに、言われたんです。何時まで此処にいるのかって」
「へぇ……。そんで?お前はどうしたいわけ?」
「どうって……」
 まるで世間話でもするような翡翠フェイツェイの口調に、面食らった。出て行くなとか、そんな言葉を期待していたわけではなかったが、それでもその一言は意外だった。出て行くか、否か。黛玉ダイユーの頭には、その二択しかなかった。
 結局また黙り込むことになってしまった二人は、やがて観光客の少ない通りへ出た。どちらかと言えば地元の人間が多い辺りだ。陶磁器の店や、怪しげな漢方薬を売る店などが軒を連ねている。店先では老人が煙管を吹かし、のんびりと世間話などに興じている。何処かの路地裏から、食欲をそそる美味しそうな匂いが漂ってきた。帰路を急ぐ子供達の元気な声も、遠くから聞こえてくる。
 何気ない日常の、黄昏色の夕陽がよく似合う瞬間だった。
 不意に黛玉ダイユーの胸に迫ってくるものがあった。郷愁と呼ぶにはあまりにも遠くに行ってしまった、それでも忘れられなかったもの。
酒家みせを……」
「あん?」
「酒家を、持ってみたいわ」
 酒家とは、俗に言う食堂のようなものだ。狭い店の前には鮮やかな遮陽傘パラソルを差した卓子テェブルが並び、素朴で安価な小吃シャオチーを振舞う。道行く人が何気なく立ち寄るような、気兼ねのない場処。
「酒家?何でまた」
「別に酒家じゃなくてもいいんだけど。ただ、あんな風に働けたらいいなあって、」
 黛玉ダイユーは、近くにあった食堂を目で指した。もうすぐ店を開く時間なのだろう。旧正月前夜にもかかわらず、小太りの女将が忙しそうに動き回っている。
「そうは言っても、きついんじゃねぇの?」
「それでもいい。小さい頃からの、夢だったから。お父さんとお母さんは、二人で酒家を営んでいて、何時も忙しそうだったけど、凄く幸せそうだった。私は何時も店にいて、其処に来るお客さんたちを見ていた。みんな優しかった。お父さんの作る上海炒面シャンハイチャオミンと、粽子ゾンズはとっても美味しくて、私の自慢だった」
「……」
 向こうから、子供たちが駆けてきた。無邪気な笑い声が、吹き付ける風のように、あっという間に通り過ぎてゆく。
「私も、二人みたいに働きたいと思ってた。あんな風に、元気な子供と一緒に暮らして行けたらいいな、って」
 どこか遠くを見るような黛玉ダイユーの横顔は、子供をあやす母親のように優しげだった。だがどこか寂しそうなのは、きっとその夢が無駄だと知ってのことだろう。一度夜の世界に身を堕とした女にとって、人並みのささやかな幸せを望むことは、ただの夢物語に過ぎない。
「まァ、どっちにしろ今すぐ叶えんのは無理だわな」
「………」
「焦って叶えることじゃねぇよ。まずは、お前が雇ってもらえるところを探せ。それまでウチに居させてくれって言うなら、別に構いやしねぇ」
 ぶっきらぼうな声だった。夢でも見ているような心地で見上げた彼の顔も、いつも通り平然としていた。それなのにこの瞬間が、何よりも愛しく感じられたのはどうしてだろう。
 ありがとう――――  その一言を、黛玉ダイユーは湧きあがって来た想いとともに飲み下した。そんな言葉じゃ足りない。自分と言う名の盃から溢れ出る感情には、もっと相応しい言葉があるはずだ。
 だが、結局見つからなかった。
 その代わりに、黛玉ダイユーは白くしなやかな腕を翡翠フェイツェイの首筋に回した。物言いたげな視線を遮断するように瞳を閉じて、そのまま口唇を重ねる。
 夜気を含んだ冬の風が、頬を掠めた。淡い吐息が、とけるように絡み合う。やがて口唇を離すと、黛玉ダイユーは華奢な躰を翡翠フェイツェイの胸に預けた。
 離したくない。翡翠フェイツェイの鼓動を聞きながら、そう強く思った。これまで自分に触れたいと言っていた男はいたけれども、触れて欲しいと思った相手はいなかった。
「……もし、夢が叶ったら、その時は一緒に来てくれませんか?」
 不意に口をついて出てきた言葉は、黛玉ダイユーもまったく予想していなかったものだ。何を言っているのだ自分は。大きく息を吸い込んだとき、彼女の耳にあまりにも静かな声が降ってきた。
「――――わりぃ。それは、出来ない」
 幾分申し訳なくも聞こえる、低い声。だがそれだけで、黛玉ダイユーの希望を突き放すには十分な響きを備えていた。
「―――― ……っ。ごめんなさい、」
 弾かれたように躰を離すと、黛玉ダイユーは一目散にその場を駆け出した。
 何を期待していたのだろう?翡翠フェイツェイが頷いてくれると本当に思っていたのか?
 勘違いもはなはだしい。自分がどんな人生を送ってきたのか忘れたのか?金で買ってくれる男どもに、媚びて甘えて躰を売って。穢れきった自分が、『愛してる』と口にすることさえ、烏滸おこがましいと言うのに。
「あっ――――」
 思考がぐちゃぐちゃになりかけたとき、黛玉ダイユーは後ろから腕を掴まれた。
 翡翠フェイツェイだろうか……?反射的にそう思ってしまう自分に厭気がさした。そして後ろを振り返った黛玉ダイユーの瞳に映ったものは――――
「あんた、リン 黛玉ダイユーさんだな?」
 見覚えのない、小流氓チンピラ風情の男二人組だった。にやにやと、下卑た笑いを顔中に貼り付けながら、黛玉ダイユーを覗き込んでくる。
「………」
「黙ってたってバレてんだよ」
「何の用ですか?」
タンさんが、あんたを探してる。見つけたら、即刻連れ戻せってな」
 黛玉ダイユーは蒼ざめた。ついに来てしまったか。
 これでまた、あの牢獄に閉じ込められるのだ。きっともう一生出られないかもしれない。だが、結局自分にはそれが一番相応しいのではないか。
「放して……。放してください」
 それでもなけなしの勇気を振り絞って、黛玉ダイユーは必死に抵抗した。仮令たとえそれしか生きる道がないにしても、一度逃げ出したところへ連れ戻されるのはごめんだった。
「ほら、黙ってついて来い。死にたくなければな」
 男ははなから黛玉ダイユーの懇願など聞くつもりはないらしかった。強引に腕を引いて、黛玉ダイユーを連れて行こうとする。こんな形で終わるのか。幸せだった束の間の安寧が、こんなにもあっけなく幕を下ろすのか。
黛玉ダイユー!!」
 突然聞こえてきた声に、耳を疑った。だが振り返った時に見つけた姿は、幻でも夢でもない、現実の存在だった。
翡翠フェイツェイさんっ!」
「なんだぁ、てめぇは?」
 黛玉ダイユーの歓喜の声と、小流氓チンピラの濁声が重なる。
「そいつ、俺の連れなんだわ。ちょっと手、放してくんねぇか?」
 頭を掻きつつ、何処か間の抜けた声でそう指摘する。男はそんな翡翠フェイツェイを鼻で笑うと、
「はっ。テメェ、この女が誰だかわかってんのか?」
「やめて。言わないで」
 男が台詞を皆まで言わないように、黛玉ダイユーが間に割って入った。今此処で真実を知られたら、あの家にはいられなくなる。だが黛玉ダイユーの反抗も虚しく、男が口を開きかけた時――――。
「ぎゃっ」
 半開きになった男の口から、むさくるしい見た目に似合った醜い悲鳴が転げ落ちた。拳銃を取り出した右手を、翡翠フェイツェイが捻り上げたのだ。更に男の躰を引き寄せ、そのわき腹に膝を叩き込んでとどめを刺す。
「テメェ……」
 残ったもう一人の男が殴りかかってくる。
黛玉ダイユー!!こっちだ」
 すかさず黛玉ダイユーの手を引いて、翡翠フェイツェイはその場を駆け出した。


「くそッ……あいつら何処行きやがった」
 凶悪な響きが籠もった男の声が、足音とともに遠ざかっていく。手頃な路地裏に隠れた黛玉ダイユー翡翠フェイツェイは、ひとまず安堵のため息をついた。
「行ったみたいだな……」
 翡翠フェイツェイは傍らで顔を俯けたままでいる黛玉ダイユーに問い掛けた。
「あいつら、明らかにお前を狙ってたな」
「……」
「何でだか、教えては呉れねぇよな」
「……」
 黛玉ダイユーは何も答えなかった。答える代わりに、翡翠フェイツェイの手を強く握り締めた。縋りつくように、翡翠フェイツェイの顔を覗き込む。その瞳には、母親とはぐれた迷子の子供のように心細げな色が漂っていた。
 不意に、翡翠フェイツェイの胸に激しい風が吹き抜けた。埃を被った記憶を、掘り起こすようなかすかな嵐。この瞳が、それをもたらした。
「―――今まで、黙ってたんだけどな。別に隠すつもりじゃなかったんだけど」
「なに?」
 翡翠フェイツェイらしくない歯切れの悪さに、黛玉ダイユーが首を傾げる。
「俺、騎士団の職員なんだ」
 唐突なその告白に、黛玉ダイユーが眼を見開いた。
「嘘」
「嘘っぽいけど、マジな話。俺だけじゃないぜ。麗紅リーホン彗星フォイシンもそうだ」
「………」
「だから、何かあるなら言ってくんねぇか?なんか隠されると、こっちも気になるし」
 まるで今日の天気の話をするかのようなその調子に、黛玉ダイユーは言葉を失った。
 もう……これ以上迷惑はかけられない。自分がいる所為で、翡翠フェイツェイたちの身に災難が降りかかる。ならばいっそのこと、全て言ってしまったほうが楽なのではないか。
「――――― 分かったわ。全部、話す」
 長い逡巡の後、漸く黛玉ダイユーが口にしたのは、絶望と同異議の一言だった。


   


 約束どおり、黛玉ダイユーはその晩全てを麗紅リーホンたちに話した。
 タンの元から逃げ出してきた経緯、唐の仕事、そして唐が今どんな所にいるのかを、分かる範囲で、けれども何の偽りもなく伝えた。
 それと引き換えに麗紅リーホンは、騎士団が黛玉ダイユーを探していたことを打ち明けた。彼女の晶片チップから個人情報を盗み、タンの隠れ家に乗り込んだことも。その上で、今まで黙っていたことを真摯しんしに詫びた。
 それを聞いたとき、裏切られた気がした。彼らは『リン 黛玉ダイユー』と言う個人ではなく、『タンの愛人』である自分を助けたのだ。やはり自分には、それだけの価値しかなかった。
「よく……喋る気になったな、」
どこか優しげで、それでいて後ろめたそうな麗紅リーホンの面持ちは、数日間一緒に過ごした中で、初めて見る顔だった。その表情に、何故だか申し訳ない気持が募る。
「――――これ以上、迷惑をかけるわけにはいかないもの、」
「そっか……」
 躊躇いがちに答えた黛玉ダイユーを、麗紅リーホンがいたわるように覗き込んだ。
「一つ、聞いてもいいか?」
「何?」
「どうして……逃げ出したりしたんだ?」
 麗紅リーホンの眼差しは、しなやかな強さをはらんでいた。見詰めていると、無性に息苦しくなる。それに耐えられなくなって、黛玉ダイユーは視線を外した。その先に、彗星フォイシンの肩に止まったシュウがいた。
「………耐えられなくなったの。あの人のもとで、生きていることが」
「え?」
 思いもしなかった一言に、麗紅リーホンが怪訝そうに表情を曇らせる。
「あの人は売春の他に、人身売買や臓器売買などの違法取引にも手を出していた。その中には、攫ってきた人間の橙式とうしき晶片チップの情報を改竄かいざんし、横流しするっていう商売ビジネスも含まれていたの」
 橙式とうしきとは第二階級者を指す言葉であるが、正しくは紅橙電工ホンチョンディェングォン公司コンスと言う会社が製造する晶片チップの総称であった。橙式製の晶片チップは大陸でもトップクラスの性能を誇り、生産量も少ない。晶片チップの性能が所有する人物の階級を左右する大陸において、この晶片を身に宿すことは第二階級者を名乗ることを意味していたのである。
 実際、橙式とうしき晶片チップを持つ人間は様々な面で優遇されていた。身分証明の役割を果たす晶片チップは高価であればあるほど、その人物の社会的地位を示す指標にもなる。
橙式とうしき晶片チップと言っても、国への登録は最初の所有者のまま躰に移植するわけだから、完全に自分のものになるわけではないの。言い換えれば、他人の戸籍をお金で買うってことよ。此処に来る少し前だったかしら。あの人のところに、ある女の子が連れてこられたの。内地で大事業をしていた家が破産して、身売り同然で上海まで流れ着いたって聞いたわ。彼女の持っていた晶片チップは、橙式製のものだった」
「………」
「あの人はそれを、私に移植しようとしていた。けれどそれは、あの女の子を殺すことを意味していたのよ。彼女は貴女より、幼かった。そんな子供が、非合法の手術に耐えられるわけがないもの」
 淡々と語り続けていた声が、徐々に震えだした。まるで誕生日を祝うかのようにそれを告げたタンの顔が、目蓋の裏にくっきりと浮かび上がる。
「………我慢できなかった。私が生きるために、罪のない誰かが犠牲になる。そんなことをしてまで、私に生きる価値があるなんて思えなかった。誰かの生命を踏みにじってまで生きていけるほど、私は強くなかったもの」
 黛玉ダイユーが自嘲気味に微笑んだ。目尻に溜まった涙が一滴、短い嗚咽とともに流れてゆく。
 もしどちらかが死なねばならなかったのなら、私が死のう。そう思ってあの夜、窓から飛び出した。けれどあの時一度死んだと思った自分は、今こうして生きている。だとしたらそれが、自らの運命が選び取った答えなのではないか。
 ならば私は、生きよう。この身を繋いでいた鎖から抜け出し、生き続けてみよう。それを赦した誰かのためではなく、紛れもない自分のために。
「それにね、私はもっとありふれた生活を送りたいと願った。毎日くたくたになるまで働いて、いつか好きな人と結婚して、子供を生んで……。そんな幸せ、私にとっては夢でしかないけど」
「―――夢なんかじゃないさ」 
 黛玉ダイユーの最後の一言を飲み込むように、麗紅リーホンが強い口調で言い放った。
「絶対に夢なんかじゃない。貴女なら、きっと叶えられる。今までの生活を捨ててまで、逃げ出してきた貴女なら、」
 黛玉ダイユー のような境遇に堕ちて、其処から逃げ出そうと言う勇気を持てる女が、果たしてどれだけいるだろう。絶望と混沌を映し出す夜の世界。その毒を、罪を知ってしまった者は、もう元には戻れないのだ。消せない罪を背負って昼の世界で生きていけるほど、人間は頑強に出来てはいない。
 だからこそ、彼女にはその夢を叶えさせてやりたいと思った。彼女なら取り戻せるかもしれないという、それは自己満足にも似た願いだった。