「今んとこ、それらしい人影は見当たらないな」
 晴れやかな日差しが、燦々と肌に照りつける正后しょうご前。淮海公園ワイハイゴンユェンにほど近い通りを歩いていた少女は、連れであるらしい二人の少年に向かってそうぼやいた。
 どことなく煙った空気が街中を薄く染める上海にあって、こうもすっきりとした青空が拝めるのは珍しい。旧正月五日目。何時もより閑散としていた街に、数多の人影が行き交い始める時期である。
 特に淮海路ワイハイルー周辺は、ただならぬ人混みで溢れかえっていた。黒山の人だかりが群れを作る中、その真ん中を眼が覚めるような緋色の民族衣装を纏った踊り子たちが、軽やかに舞いながら進んでゆく。その後ろを、獅子舞が豪奢な尾を振り乱しながら突き進み、光を跳ね返す金色の鱗をいからせた龍が泳いでいった。
 春節名物の祝賀行進パレードである。年を追うごとに華やぎを増してゆくこの行列を楽しみにしている者は多い。淮海路ワイハイルーは派手好きな市民たちでごった返し、噎せ返るほどの熱気と喧騒に包まれていた。その客たちを呼び込もうとする露天が、道の端をずらりと陣取っている。見物客の野次と呼び込みの声が交錯し、耳鳴りのようなざわめきが辺りいっぱいにひしめいていた。
 人波を器用に掻き分けて歩くこの三人も、この行進目当てに街に繰り出したのだろう。だが、先刻から双眼鏡を斜向かいに立つ高級公寓マンションに走らせている少女の視線は、そんなシュチュエーションにはおよそそぐわないほど緊迫した空気を放っていた。
「此処に、タンって奴がいるのか?」
 少女の隣で訝しげに眉をひそめた美貌の少年―――紫霖ツーリンは、腕に抱えた紙袋を抱えなおしながら首をかしげる。
「ああ。住所も此処で間違いない。黛玉ダイユーが言ってた通りだ」
 自信たっぷりに言い放った少女……もちろん麗紅リーホンは、それでもどこか物足りなさそうな表情で、手にしていた珍珠乳茶タピオカミルクティのストローに口をつけた。
 黛玉ダイユーの証言によれば、この高級公寓マンションタンのもう一つの隠れ家であるらしい。以前住んでいた洋館が騎士団に眼をつけられた際、首尾よく逃げ込めるよう手配した仮の住まいと言うわけだ。
蓮英リェンイン。そっちはどうだ?」
『今んとこ動きはないみたい』
 助っ人として高級公寓マンション付近に張り込んだ蓮英リェンインが、無線機の向こうから気のない声を返す。短く息をついた麗紅リーホンは、定刻になったらそちらへ向かうと告げ、無線を切った。
 もし彼がまだ上海に留まっている場合、隠れるとしたら此処しか残っていない。その可能性に賭けた麗紅リーホンは、リュウの息がかかっていない捜査局の人間に応援を要請した。正后になっても動きが見られない時は、麗紅リーホンと捜査局の人間が直接部屋へ押しかける手筈になっている。犯罪組織マフィア首魁しゅかいと言えど、春節の時期だ。まさか騎士団が乗り込んでくるとは夢にも思わないだろう。
「それにしても、向こうは大丈夫かな」
「なんだ彗星フォイシン。妬いてんのか?」
 一方、黛玉ダイユーの護衛としてどこかに行ってしまった相棒を思いやって独りごちた彗星フォイシンに、麗紅リーホンは意味ありげな視線を送った。
「なっ……ち、違うよ。何言ってんの?」
「顔に書いてある。黛玉ダイユーに取られたら厭だな、って」
 仄かに顔を赤らめた彗星フォイシンが、思わず顔に手をあてる。
「いや、なんも書いてあるわけないから」
 呆れたように紫霖ツーリンが呟く。そんな彗星フォイシンを見た麗紅リーホンは、してやったりといった笑みを浮かべると、
「心配する必要なんてないさ。今日くらい、あんたの相棒貸してやれよ。こんな機会、もう二度とないかもしれないからな、」
「………やっぱり、黛玉ダイユーさん出て行っちゃうのかな?」
「う〜ん……何とも言えないな。あ、あれ」
 再び双眼鏡を覗き込んだ麗紅リーホンの足が、ぴたりと止まった。レンズ越しに、一人の男の姿が映る。
「来たな……。時間も予定通りだ。行くぞ、彗星フォイシン
「了解」
「それから、紫霖ツーリンはその荷物持って先に家に戻っていてくれ。いいな?」
 戸締りの有無を確認する母親の口調で、麗紅リーホンが念を押した。
 夕食の買い出しを兼ねて麗紅リーホンたちに付いて来た紫霖ツーリンは、挽肉だの野菜だのが詰まった重そうな荷物を見下ろした。熟れすぎた西紅柿トマトの赤が、鮮やかに目に沁みる。
 彼は騎士団の構成員ではないので、危険な任務に巻き込むわけにはいかないのだ。万に一つもありえないとは思うが、もし付いて来られたりしたら厄介なことになる。
「はいはい」
 うんざりした顔で返事をする紫霖ツーリンには、その心配は無用かもしれない。ひとまず安心した麗紅リーホン達は少年を置いて、目的地へと足を向けた。
 その瞬間、大通りの方から盛大な歓声が沸き上がった。何事かと振り返った麗紅リーホンの瞳に、鮮烈な真紅の神輿が跳び込んでくる。極彩の羽根を翻した鳳凰と、絢爛たる龍の張りぼてが、絡み合うようにしてその上を飛び交っていた。陽気な祭囃子を従えるようにして歩む神獣たちの周りで、桃色の紙吹雪がめまぐるしく乱舞する。夢の如き光景に、その場に詰め掛けた見物客の間から感嘆の溜息が漏れていった。
「うわっ」
 行列に眼を奪われた矢先、不意に前方へ押しかけてきた若者が麗紅リーホンに体当たりした。その拍子に、麗紅リーホンが手にしていた珍珠乳茶タピオカミルクティが零れ落ちる。
「……ごめんなさい…って、ああっ!」
 忙しげに謝るも、若者の服には既に染みが広がっている。珍しく殊勝な様子で頭を下げた麗紅リーホンは、恐縮したように手巾ハンカチを差し出すと、若者に押し付けてその場を去ろうとした。
「おい、ちょっと待てよ。ぶつかっといてそれはないんじゃない?」
「だから、悪かったって言ってるじゃないか。そもそもぶつかってきたのはそっちの方だろ」
 険悪に眉を吊り上げた若者に、麗紅リーホンが食って掛かる。なおも言い募ろうとした男だったが、急に押し寄せてきた人混みに遮られて少しばかり麗紅リーホンから遠ざかった。これ幸いと踵を返した麗紅リーホンの腕を、細やかな少年の手が掴む。
麗紅リーホンっ!!だ、どうしよう、」
 今にも泣きそうな顔で、彗星フォイシンが首を振った。大通りの方へ流れてゆく人波に呑まれまいと、必死の形相で連れの腕を握り締めている。小柄な少年を守るように、麗紅リーホンがその肩を抱き寄せた。そうしているうちに、人混みの中で身動きが取れなくなって仕舞う。
 行列を見ようと押しかける群衆の波が、行く手を阻んでいた。どうにかその流れから逃れようと、麗紅リーホンたちが足掻く。約束の時間は、刻々と迫ってきていた。 






「いい気持ね。心が洗われそう、」 
 明るい陽光に眼を細め、黛玉ダイユーは傍らを歩く青年に笑いかけた。
 冬の日差しをいっぱいに受けた緑陰が、黛玉ダイユーの頬に淡い影を落とす。風に吹かれた梢が、清々しい音を立てて揺れた。
 淮海公園ワイハイゴンユェン。上海市内の中心部にあって、あまり広くはないこの緑地ではあったが、祝賀行進パレードの余波を受けてか、様々な露天があちこちに店を開いていた。甘栗の香ばしくも甘い匂いが鼻を掠め、山査子さんざし飴を携えた女が草叢くさむらを練り歩く。唐が住むという高級公寓マンションの裏手にある公園は、そんな商人たちの掛け声に混じって、肩を寄せ合った恋人や碁に興じる老人、そして子供を連れた親子たちの歓声に満ち満ちていた。
「あ、喉渇いてない?何か買ってくるわ」
「あ〜、別にそんな気ィ使わなくていいから」
「私が飲みたいの。じゃあ、ここで待っていて、」
 黛玉ダイユーはうきうきと楽しそうに微笑むと、止めかけた翡翠フェイツェイを振り切って露天の方へと駆け出していった。残された翡翠フェイツェイは、溜息をついて所在なさげに近くの長椅子ベンチに腰を降ろす。
 陽の光のもとで輝く黛玉ダイユーは、今まで見てきた彼女とはまるで別人だった。青空の下で生き生きとしている姿は、今の翡翠フェイツェイには眩しいくらいだ。あるいは無理にそう振舞っているだけなのだろうか。
 背凭れに深く身を預けると、翡翠フェイツェイ は懐から煙草を取り出した。まったく、憎らしいくらいにいい天気だ。吐き出された白い煙が、澄んだ青い空に吸い込まれていく。その時、隣に一人の紳士が腰掛けてきた。
「奇麗な女性ですね。……恋人ですか?」
 整った鼻梁に切れ長の眼をした、風格のある中年紳士である。往時の美貌を朧げに滲ませた男は、唐突に翡翠フェイツェイに問い掛けてきた。
「まぁな」
 降って湧いたように現れた紳士に不信感を覚えながら、翡翠フェイツェイは適当な相槌を打つ。他人の眼には、自分たち二人はそう映るのか。笑い出したくなるような冗談だった。罪悪感にも似た一抹の黒い靄が、心の奥で燻る。
「彼女を、愛していますか?」
 紳士はなおも問い掛けてくる。翡翠フェイツェイは流石に、この男は何かおかしいことに気付き始めた。
「……見ず知らずのあんたに、何でそんな事を言わなきゃならない?」
「愛していますか?」
 翡翠フェイツェイの言葉など意に介することなく、男が不躾に詰め寄ってくる。その瞳の奥で、どす黒い何かが蠢いていることに気付いた。これまで幾度となく受け止めてきた、もうお馴染みになってしまった感情―――異常なほどの殺意が。
「あんた………」
 言いかけた翡翠フェイツェイの声と、後ろで何かが落ちる音が重なった。暗闇に突き放されたかのようなそれを聞いて振り向く。そこには蒼ざめ、眼をいっぱいに見開いた黛玉ダイユーが立ち竦んでいた。
「やあ。久し振りだね、黛玉ダイユー
「――――タン……」
 にこやかな笑みを浮かべた紳士の名を、掠れた声で黛玉ダイユーが呼ぶ。紳士は立ち上がり、おもむろに黛玉ダイユーの元へと歩み寄った。
「相変わらず美しいね……。どうしたんだい、そんなに震えて」
「いや……来ないでッ!どうして……どうして此処が分かったの?」
 怯えた小鹿のように後ずさった黛玉ダイユーは、辛うじてそれだけを口にする。
「どうして?これは異なことを言うね。それなら、こんなことを考えたことは無いかい?」
「………?」
「一人の男が、愛する女を心配するあまり、お守りを贈った。そのお陰で、男は逃げ出した女の全てを知ることが出来た」
 こんな風に。そう続けた男の手元から、黛玉ダイユーの声が聞こえてきた。
『もし夢が叶ったら、そのときは一緒に来てくれませんか?』
 黛玉ダイユーの顔から血の気が失せた。自らの死を宣告されたが如き緊張が、遠くにいても痛いほど伝わってくる。
「まさか……盗聴器?!どうしてそんなものが……」
 うわごとのように呟いた黛玉ダイユーの躰が、はっと強張った。震える右手を、胸にかけた首飾りペンダントへと伸ばす。
「ああ、やはり君は賢いね。その通りだよ、黛玉ダイユー。それがお守りだったのさ」
「嘘よ……そんなの」
 白日に降った悪夢。その事実を前に、黛玉ダイユーは激しく頭を振った。
 そんな彼女の黒髪を、男が優しく梳くと、
「愛しい黛玉ダイユー。君は罪深いことをした。この私を裏切るなんて、愚かなことを……」
 男は黛玉ダイユーの細い手首を掴むと、乱暴に引き寄せて口付けた。もがく彼女をいたぶるように、その躰に指を這わせて抱きすくめる。
「あー。お取り込み中悪ぃんだけど、あんたそんな呑気なことしてていいわけ?俺一応警官だから、今すぐあんたを逮捕するけど?」
 こんな状況にはまったくそぐわない、まるで道を尋ねに来た人間のような口調で翡翠フェイツェイが釘を刺す。だがその眼光は、獲物を狩る鷹の如き鋭さを放っていた。
「観念しな、オッサン」
「ああ、もう一つ言い忘れていたよ」
「なんだ、命乞いか?」
「例えば、正后しょうご丁度にある犯罪者の自宅へ、騎士団の人間が乗り込んできたとしよう。その犯罪者は抵抗した挙げ句、逆上して騎士団の人間を道連れに自爆してしまった、なんて話があるとしたら?」
 噛み合わない翡翠フェイツェイと男の会話に、不意に割って入ったものがあった。
 正午を告げる鐘の音。
 今日ばかりは、耳になじんだその音がなぜかしら不吉なものに聞こえた。死を告げるときの声のような、重々しく絶望的な響き。
 そう思った直後、不意に轟音が翡翠フェイツェイの鼓膜を激しく貫いた。地獄の底から這い上がるような、図太い爆発音が炸裂する。
「まさか……彗星フォイシンッ?!」
 背後を仰ぐようにして振り返った時、木々と青空の隙間から何かが激しく燃えているのが見えた。あれは間違いなく、タン高級公寓マンションがある方角だ。
 男の予言が見事的中して、翡翠フェイツェイは絶句した。
「これで、私という人間はこの世から抹消された」
「テメェ……寝言言ってんじゃねぇよ。どう言う事だこれは?」
「簡単なことさ。君たちが追っていた唐宗昌タンゾンチャンという人間……正しくはその身代わりが、あの部屋で死んだ。私はこれから黛玉ダイユーと一緒に、帝國へ亡命する。君たち騎士団から逃れるのは難しそうだし、階級や何かに縛られるのは、もううんざりしていたところだからね」
「はン。そんな簡単に上手くいくか。テメェは此処で俺に捕まって一生監獄生活すんだよ、覚えておけ」
「それは困ったね……。私としても捕まるつもりは毛頭ない」
 そう言って、男は指を鳴らした。その仕種に、黛玉ダイユーが息を呑む。
「ならば君を始末しなければならない。……行け、鄂森アセン
 その直後、翡翠フェイツェイの傍らの茂みから一人の人影が襲いかかってきた。