不意に沸き起こった轟音に、何が起きたか認識する余裕はなかった。
 その衝撃波に、少女の身がいとも容易く吹き飛ばされる。予期せぬ出来事に眼をみひらいた麗紅リーホンの躰が、そのまま後方の床へと叩きつけられた。
「がはっ」
 背中を襲った重い痛みに、息が詰まる。数度咳き込んだのち、やっとの思いで顔を上げた麗紅リーホンが絶句した。突き当りに位置する扉から、すさまじい炎が噴き出している。
ホヮン局長っ!!」
 先刻まで傍らに潜んでいた捜査局の青年が、煙に巻かれながら此方へ駆け寄ってくる。それを眼で制すると、
「あたしのことはいい。それより……」
 そのまま視線を青年の後方へ転じた。その先では轟々と燃え盛る火炎のもと、扉の脇を固めていた二人の男―――捜査局の助っ人たちが倒れ伏している。それを認めた青年は、慌てて身を翻してそちらへ向かった。
 麗紅リーホンたちが来るのを計ったかのような爆発。これが偶然であるわけがない。思わず頭を抱えた麗紅リーホンの掌に、ぬめりとした感触がした。見れば、額から血が溢れている。恐らく、硝子片か何かで切ったのだろう。ついでに肘や膝、頬にも擦過傷さっかしょうを拵えてしまっていた。
 下で待機している彗星フォイシン蓮英リェンインは無事だろうか。外に面した高級公寓マンションの廊下からは、階下の様子が一望できた。身を隠すようにして立ち上がり、眼下へ眼を遣った麗紅リーホンが、軽く舌打ちする。建物の麓には、既に怪しげな風体の男どもが散らばっていた。
「随分手荒な歓迎をしてくれるじゃないか、」
 何処で情報が漏れたのかは知らぬが、春節の賑わいを利用して捜査に乗り出した騎士団を、部屋もろとも焼き払って始末してしまう算段だったのだろう。もし定刻通りに部屋の中に乗り込んでいたとしたら―――今頃はあの炎の中で、火だるまになっていたに相違ない。
 祝賀行進パレードの騒ぎに巻き込まれ足止めを喰らって、命拾いした。しかし間一髪のところで危機を脱したものの、そう悠長に構えてはいられない。同僚二人を担いだ青年が黒煙の向こうから姿を現すと、麗紅リーホンはすかさず意識を失っている助っ人たちの怪我の具合を調べた。
 爆発に巻き込まれた衝撃によるものだろう、一人は頭から血を流し昏倒していた。背中と脇腹に、鉄の破片のようなものも突き刺さっている。もう片方は、酷い火傷と煤に塗れたまま苦しげに呻いていた。その場で出来うる限りの応急処置を施していた麗紅リーホンに、唯一無事だった捜査局の青年が問いかける。
「一旦彼らを連れて降りますか?」
「それは無理だ。下が包囲されている」
 恐ろしく落ち着いた麗紅リーホンの言葉に、青年が奇妙な声を上げて階下を見下ろした。軽率きわまる振る舞いを咎めるように、麗紅リーホンが彼の腕を強く引いて身を屈めるよう促す。
「ならば、応援を寄越すよう本部に連絡を……」
 下の様子を察した青年が、しどろもどろに提案した。まだ若い、幼いといっていいくらいの男だ。そう言えば以前ソンの邸宅へ奇襲を掛けた際、見かけたことがある。捜査局に入隊して間もないのであろう青年の顔には、何かに縋らずにはいられないような恐怖が滲んでいた。
「応援が来るまで此処で待つつもり?もたもたしていたら、こいつら死ぬぞ。助かるもんも助からなくなる」
 じゃあどうすればいいんです?泣きそうな顔で眉を寄せた青年をあえて無視するように、麗紅リーホンが耳に嵌めた無線を繋いだ。
蓮英リェンイン。負傷者が出た。今からあたしと、動ける奴だけでそっちへいく。そうだな……住民たちの避難もあるから、裏口へまわってくれ。それから、救急の手配を頼む」
 簡単な連絡のあと、麗紅リーホンが青年に顔を向ける。辺りは既に、爆発の衝撃から逃れようとする住民たちの、張りつめたざわめきに支配されつつあった。
「救急の要請をした。彼らが駆けつける前に、待機している二人とあたしたちとで、下に居る雑魚を片付ける」
「そんな―――無茶な」
 絶望に満ちた掠れ声が、けたたましく鳴り渡る甲高い警告音に飲み込まれた。そのか細い響きを聞き取った麗紅リーホンが、皮肉っぽく眉を寄せる。
「天下の精鋭が、情けない声を出すな。此処から脱するには、あたし一人じゃ心許ない。あんたの力が不可欠だ。それとも此処で、こいつら見殺しにして逃げるつもり?」
 不安を掻き立てる警笛の音が、ふと遠のいた。恐る恐る顔を上げた捜査局の青年が、自信ありげにそう言い放った娘を、震える瞳で見つめる。
「ほっ……本官は、逃げも隠れもいたしませんっ!局長の命に、従う所存でありますっ!!」
 心持ち震えた、だが力強い口調で言い切った青年に、麗紅リーホンが深く頷いた。
「よく言った。頼んだぞ、新入り」
 ほんの少し不敵に微笑った少女が、慎重に立ち上がる。それに続いた青年を従えて、二人は悪魔めいたうねりを上げる炎へ背を向け、階下へと急いだ。





「おっと、何処へ行くつもりだい、お二人さん」
 案の定、と言ったところか。
 麗紅リーホンと青年は高級公寓マンションの裏口から脱出した直後、銃を構えた大男と面を合わせる羽目になった。さらにその後ろには、木刀や拳銃、刃子ナイフなどを手にした男たちが手ぐすね引いて待ち構えている。大方、爆破が失敗した時のための保険としてタンに雇われた連中だろう。
 いずれも屈強な、がたいのいい体躯の持ち主だ。人を殴り、痛めつけるためだけに生まれてきたような凶悪な人相がずらりと並ぶ。麗紅リーホンは観念したように短く息を吐くと、おもむろに両手を挙げた。
「これはこれは。随分と派手なお出迎えで。嬉しいね、見も知らないあんたたちに、こうも歓迎されるとは」
 大人しく降伏の姿勢を見せた麗紅リーホンだったが、その口調にはありったけの嘲笑が含まれていた。あたかも今日の天気でも問うような顔つきで、目の前の小流氓チンピラたちをじろりと見回す。
「爆破に巻き込まれてりゃー、楽に死ねたのによ、お嬢ちゃん?運が悪かったな」
 少女の不遜な態度を、彼らは虚勢と看做みなしたらしい。その思惑に応じるかのように、麗紅リーホンが悔しげに唇をかみ締め、眼を伏せてみせる。だが彼らがもう少し人の感情の機微に敏感であれば、彼女が意味ありげな視線を彼らの後方へ向けたことに気付いたかもしれない。
「安心しろ。お嬢ちゃんのことは悪いようにはしねぇ。何せ天下の騎士団様だ、高い買い手がつくようにしてやっからよ」
 麗紅リーホンに銃口を据えた男は、自分の勝利を信じて疑わないようだった。少女の幼い顔立ちに似合わぬ豊かな胸を睨めまわしながら、徐々に間合いを詰めてくる。
 次の瞬間、辺りの空気が一斉に弾け散った。
「なっ、何だ?!」
 虚を突かれた男が周囲を見回す。銃声めいた耳障りな破裂音が鼓膜を引っ掻いた。一つ音が炸裂するたびに、紅い煙が立ち込め、視界を曇らせる。
「おい……まさか………あがぁあっ」
 続けざまに鳴り渡った音の正体が、春節用の爆竹であると悟った時、男の口からくぐもった悲鳴が零れ落ちた。先刻まで麗紅リーホンに向けられていた銃が、手首もろとも千切れてあらぬ方へと姿を消していったのだ。
「あ……兄貴?!」
 切断された男の手首から血が噴出しているのを目撃した手下の一人が、驚愕の叫びを上げる頃には、その喉笛が鋭利な煌めきによって切り裂かれている。何が起きたのかわからぬまま後退あとずさる小流氓チンピラたちの行く手を阻むように、黒服に身を包んだ小柄な影がひらりと舞い降りた。
「どけっ、クソ餓鬼っ!!どかねぇと……」
 焦るに任せて引き金に手をかけた男の腕に、錆び付いた鎖が巻きつく。黒い影の姿をした少年が、数多の棘を纏ったその鎖を引き寄せ、男の腕をずたずたに切り刻んだ。一瞬の間も置かずに放たれた茨の鎖が、あたかも生きているかの如く、逃げ惑う別の男の頭を雁字搦がんじがらめにする。
「……捕まえた、」
 愉悦に満ちたあどけない声が呟くのと、獲物の頭から盛大な血が噴出すのが同時だった。素早く鎖を引き寄せた少年が、背後から襲ってきた敵の一撃を軽々と躱す。振り向きざま放った、針のように尖った刃―――峨眉刺がびしを敵の眼窩がんかにくれてやると、芸術的ともいえる身のこなしで跳躍し、そのまま倒れこんだ男の脳天の上でステップを踏んだ。
「冗談じゃねぇぞ、くそっ」
 少年の手許から、血に塗れた鎌が手妻めいた鮮やかさで現われる。鎖に繋いだそれが、周りを囲んだ小流氓チンピラどもの躰を噛み斬っていった。瞬く間に戦闘不能に陥った仲間たちを見捨てた髭面の男が、脱兎の勢いで駆け出したまさにそのとき。
「――― おじさん、もうお仕舞い?つまんないなぁ。もっと……遊んでよ」
 背後から耳朶を撫でる、この上なく無垢な少年の囁き。天使の祝福にも似た呼びかけとともに、少年の振り下ろした鎌の切っ先が、容赦なく男の背中を両断する。
「このォ……」
 少年を相手取るのは不利と見たのだろう。忌々しげに顔を歪めた禿頭とくとうの男が、無防備な麗紅リーホンに向かって銃を翳す。だがその指は一向に、引き金を引く気配を見せなかった。
「なぁんか、忘れてない?」
 不服そうな呟きが肩越しに聞こえた時、禿頭の男は身動き一つ取れずにいた。その理由を探ろうとした刹那、腕を有り得ない方向へ捻じ曲げられる。苦悶の叫びを漏らした男の顔面に、女物の靴の踵がめり込んだ。声もなく昏倒した男の後ろから、何時になく真面目な面持ちをした蓮英リェンインが顔を出す。
「此処はあたしたちに任せて。麗紅リーホンとそっちのお兄さんは、住民の避難を、」
 先刻爆竹の仕掛けを発動させた張本人は、武林の構えを見せながらそう言い放った。その言葉に頷いた麗紅リーホンが、入り口へ向かおうと踵を返す。その時、彼女の瞳に信じられないものが飛び込んできた。
「ッ!!」
 いつの間に紛れ込んだものか、幼い子供が一人半べそをかきながら裏口から姿を現した。小さくか弱い躰が、裏口を塞いでいた小流氓チンピラの一人にぶつかる。その存在に気付いた男は、まるで邪魔なものでも退かすように、子供の躰を蹴りつけた。
「止めろっ!!」
 咄嗟に駆け出していた麗紅リーホンが、飛び込むようにして子供を突き飛ばす。次の瞬間、少女の右肩に鈍い痛みが走った。
「逃げて!」
 鋭く叫んだ麗紅リーホンの気迫に気圧されたのか、あるいは身の危険を本能的に悟ってか、その子供は脇目も振らずに戦場から逃げ出していった。その後ろ姿を安堵とともに見送った麗紅リーホンの躰が、不意に有無を言わさぬ強い力に引っ張られる。
「ぅわっ?!」
「動くな、小娘。動けば、撃つ」
 腕を捻られ、身の自由を奪われた時には、麗紅リーホンの躰は大柄な男の太い腕に羽交い絞めにされていた。足を必死になってばたつかせるも、力の差は歴然としている。もがく少女のこめかみに、銃口の冷たい感触が押し付けられた。
麗紅リーホンッ!」
「局長?!」
「おっと。全員、動くんじゃねぇぞ。ちょっとでも動けば、お嬢ちゃんの頭は吹っ飛ぶことになるぜ?」
 ようやく起死回生の切り札を手に入れた男たちの間に、下卑た笑い声が広がった。さらに都合の悪いことに、入り口を見張っていた連中までもが、不規則な足音とともに駆けつけてくる。
 倍に膨れ上がった小流氓チンピラの群れが、たった四人の騎士団を取り囲むように壁を作った。彼らの銃口が、人垣の中央に追い詰められた四人を狙っている。撃鉄を起こす鈍い響きは、動けば蜂の巣と言う暗黙の合図。気味が悪いくらいに揃ったその音に、蓮英リェンインたちは観念したように固まるしかなかった。
 その時――――。
 男の頭に、真っ赤な飛沫が飛び散った。
 重たく生温い衝撃を顔面に受けた男の力が、不意に緩む。その隙を狙って、麗紅リーホンは煉瓦色の髪を揺らして男の顎に頭突きを食らわせた。
彗星フォイシンッ!!」
 腕の拘束から逃れた麗紅リーホンが叫ぶ頃には、少年の放った兇刃が男の喉元を深く切り裂いている。盛大に噴出した血飛沫が、白目を剥いて絶命した男の躰を朱くよごした。
「貴様ぁぁあっ」
 それを期に、小流氓チンピラたちの指が引き金にかかる。だが実際に、その銃口から弾丸が噴き出されることは無かった。
「時間切れだよ」
 少年の声をした死神の一言が、その場の空気を制圧した。
 いや、男たちがその囁きを耳にしたかどうかすら怪しいだろう。彼らが引き金に手をかけたその一刹那。彼らの最後の意識が判別したのは、闇をも飲み込む真っ黒な閃光のみであった。
 残酷な虐殺の時間はたった一瞬のうちに集約され、その犠牲となった十数名は、何が起きたか分からないまま意識を切断される。そのまま時間が止まってしまったかのように、ある者は怒りに眼を見開き、ある者は恐怖に顔を引き攣らせたまま、男たちが一斉にその場に倒れ臥した。
「あーあ。つまんないの。もう、お終い?」
 折角の玩具を横取りされた子供のように、彗星フォイシンが愚痴った。その白い頬には、およそ似つかわしくないほどの血糊が咲き誇っている。急速に広がってゆく血溜まりの海に足裏を浸した少年は、手近に居た男の頭をつまらなそうに踏みにじった。
「そう簡単に言わないでくれる?下手すりゃ死んでたんだ、大目に見ろ」
 背中に薄ら寒いものを感じながら、麗紅リーホンは辛うじて首を振る。その拍子に、彗星フォイシンの攻撃によって弾け散った誰かの返り血が、顎を伝ってゆくのを感じた。おもむろに振り返った麗紅リーホンの眼に、先刻まで自分を拘束していた男の骸が映る。
「お前……さっきこいつごと、あたしを殺そうとしただろ」
 耳元を掠めていった、風を切る刃の感触が生々しく甦る。その軌跡の上には、間違いなく自分の頭があった。逃げるのがあと一歩遅ければ、この男とともに無残な死に様を晒していたかもしれない。
「あれ、ばれちゃった?」
 悪びれもせず舌を出した少年に、毎度のことながら頭が痛くなった。およそ手加減というものを知らない殺戮の天才は、ひとたび理性を失えば獰猛な獣―――いや、それ以上にタチの悪い牙と本性を剥き出しにする。
 一度そうなった彗星フォイシンを止められるのは、翡翠フェイツェイしかいない。その因果に興味がないわけではなかったが、そんなことを気にする余裕はなかった。宝蘭堂ほうらんどうで見せるときと同じ、あどけない笑顔で殺戮を繰り返す少年。その笑顔が映し出す彼の本質をどう受け止めればいいのか、今でも分からないで居るのだ。
「……これは?」
 そんな心配をよそに、先ほど麗紅リーホンを羽交い絞めにしていた男の頭から流れるものを指先で掬い取った彗星フォイシンは首をひねった。血みどろの顔面に紛れて張り付いた、紅く熟した薄い皮。これは……。
「……西紅柿トマト?」
 興味深げに男の顔を覗いた蓮英リェンインが呟いた時、背後の茂みが蠢いて、一人の人影を吐き出した。
紫霖ツーリン……!?」
 彗星フォイシンの瞳が大きく見開かれる。そこには先に帰ったとばかり思っていた少年が、幽霊のように立ち尽くしていた。その腕に抱えられた紙袋に眼を止め、思い当たったように口を開く。
「まさか……これ、紫霖ツーリンが投げたの?」
 信じられないといったように彗星フォイシンが眼を瞬いた。紫霖ツーリンはばつが悪そうに肩をすくめたが、やがて観念したようにこっくりと頷いた。
 そのまま麗紅リーホンへと視線を送る。だが、麗紅リーホンはそれを撥ねつけるように睨み返した。上等な露酒リキュールを思わせる琥珀の瞳に、静かな怒気が揺らめく。
「何であんたが此処にいる?帰れと言ったはずだ」
「……なんだよ、それ。仮にも助けてやったのに……」 
 不服そうに紫霖ツーリンが口を尖らせる。しかし、返って来たのは予想もしない麗紅リーホンの叱責だった。
「偉そうなことを言うなッ」
 低く、それでいて烈しい鋭さを備えた少女の声と、ぱちんと言う小気味のいい音が重なった。紫霖ツーリンの左頬に、じんわりとした熱さが広がる。
「……っ」
「誰がこんな事をしろって言った?あんたが勝手にしゃしゃり出てきただけだろう。それを助けただと?自惚れんのもいい加減にしろ」
「………」
「いいか、今後一切あたしたちを助けようなんて思うなよ。勝手な行動は慎め。分かったか」
 突然の麗紅リーホンの剣幕に、紫霖ツーリンは言葉をなくした。引っ叩かれた頬を抑えながら、屈辱に耐えるような眼差しを麗紅リーホンへと向ける。
 しかし、彼女はそれに取り合おうともせずに踵を返すと、
蓮英リェンインは、そっちの新入りと一緒に此処の後始末を頼む。彗星フォイシン翡翠フェイツェイ達のとこへ行くぞ。もしかしたら、タンはあっちにまわったのかもしれない」
 きびきびとした足取りで、彗星フォイシンたちを促した。
「了解。―――勝手な行動は慎め、か。懐かしいなぁ、その台詞」
「は?」
「何でもない―――。さて、僕達も行こう。とりあえず紫霖ツーリンは、此処に居ない方がいい」
 彗星フォイシンは意味深な呟きを隠すように笑うと、紫霖ツーリンの腕を引いて少女の背中を追いかけていった。