タンの指が鳴らされたとき、黛玉ダイユーは背筋が凍りつくのを感じた。
 駄目だ。あいつが来る。最悪最凶の、タンの下僕。
 逃げて。そう叫ぼうとした直後、傍らの草叢くさむらから一人の人影が翡翠フェイツェイめがけて飛びかかってきた。その姿を認めたとき、それがもう遅かったことを悟る。
 その人影は、飛び出すと同時に翡翠フェイツェイの喉元に掌底を叩きこんでいた。翡翠フェイツェイの躰が大きく仰け反る。恐るべき速さだった。
翡翠フェイツェイさんっ!!」
 黛玉ダイユーの悲鳴が木霊する。それに呼応するように、人影は翡翠フェイツェイの脇腹を鋭く蹴りつけた。息が詰まるほどの衝撃を全身に感じつつ、翡翠フェイツェイは辛うじて次の攻撃を見切る。そして後方へ飛び退くと、深く沈みこんで右足を一閃させた。
 翡翠フェイツェイの回し蹴りを喰らった相手が、激しくよろめく。続けざまに繰り出された拳撃を、その男は危ういところでかわした。
 翡翠フェイツェイと男の間合いが広がる。互いに睨みあったまま、相手の出方を窺っているようだった。
「どう言う事なの、これは?!」
 黛玉ダイユーは傍らに立つ男に詰問した。タンは意外そうに眼を見開くと、
「見ての通りさ。あの青年は私にとってはひどく目障りだからねぇ。此処で消えてもらうことにしたんだ」
「だからって、鄂森アセンの相手をさせることはないでしょう?!」
 黛玉ダイユーの肩が激しくわなないた。その名を口にすることさえおぞましいといったように、身を竦ませる。
「いや。彼には鄂森アセンの手によって苦しんでもらわないと不可ないね。本当はこの手で彼の首を掻き切ってやりたかったのだが……」
「―――どうして……?彼は……何も悪いことなんかしてないわ」
「したよ」
 突然、タンの声色が変わった。ぞくりとせずにはいられない、冷酷にして無慈悲な支配者の声が低く垂れ込める。
「君を、私から奪った」
 その一言に、黛玉ダイユーが絶句した。
「そ…んな……」
 私が……私などが彼に惹かれたから。だから、こんな目に遭うのか?私を拾ってしまったが故に、彼はタンの制裁を受けねばならなぬのか?
「やめて……お願い、止めて」
 掠れた声でタンに縋っても、彼は気に留めようともしなかった。
 タンに背いたのは私だ。ならば、その罰を受けるのは私一人で十分ではないか。どうして翡翠フェイツェイや、麗紅リーホン彗星フォイシンまでそれに巻き込まれなければならない?
 疫病神だ。自分なんかがいるから、誰かを不幸にしてしまう。その事実に突き当たった時、黛玉ダイユーの口から嗚咽にも似た哀願の声が漏れた。
「……お願い……もう、止めて……!」
 耐え切れなくなったように黛玉ダイユーが眼を背けた直後、男―――鄂森アセンが地面を蹴って、再び翡翠フェイツェイのもとへと踊りかかっていった。




 息をも凍る沈黙に終止符を打ったのは、相手の方だった。そう思うや、敵の躰は既に目の前に差し迫っている。
 突きかかって来た男の手に、白く鋭い閃きが見えた。それが小刃ナイフだと分かるより先に、翡翠はターンの要領でこれを避ける。黒い長大衣ロングコートが、重たげな音を立てて翻った。
「?!」
 男―――鄂森アセンの視界が、不意に黒いもので遮られた。と、思った瞬間、鳩尾に深く突き刺さるような衝撃がめり込んできた。よろけそうになる足を叱咤して、態勢を立て直す。
「お、やるねぇ」
 飄々ひょうひょうと笑った翡翠フェイツェイの頚動脈めがけて、小刃ナイフの刃先が突進してきた。翡翠フェイツェイは真顔に戻って、これを受け流す。が、間髪入れずに鄂森アセン翡翠フェイツェイの両足を薙ぎ払った。
「……ッ」
 均衡ヴァランスを崩しかけた翡翠フェイツェイの喉元に、男の兇刃が振り下ろされる。あわや、という瞬間、咄嗟にその手首を掴んで鄂森アセンの躰を蹴り上げるように投げ飛ばしたのは、悪魔じみた翡翠フェイツェイの戦闘本能の賜物であろう。
 だが相手も負けてはいない。蹴り上げた反動を利用して再び翡翠フェイツェイが立ち上がった頃には、彼の小刃ナイフはくるりと軌道を変えて、がら空きになっている青年の脇腹に切りかかってきた。よく訓練された、猟犬の動きだ。痛みさえも黙殺する男の瞳には、獲物を切り裂く欲望だけが燃え盛っている。
 取った……そう確信した鄂森アセンの手に、硬いものがぶつかる感触が伝わった。
「何っ……?!」
 翡翠フェイツェイの手に現われた木刀が、男の小刃ナイフを受け止めていた。一拍の間を置いて、翡翠フェイツェイが男の握った凶器を弾き返す。きぃん、と澄んだ音が一つ、青い空の彼方に消えていった。
「――――っ!!」
 渾身の刺突を容易く弾かれた衝撃に、鄂森アセンの眼がかっと開かれた。その横を、重く唸る風と化した翡翠フェイツェイの木刀が掠め去る。だが鄂森アセンは斬撃の隙間を蛇のようにかいくぐって、大胆にも翡翠フェイツェイの懐に突っ込んでいった。瞬間、一文に払った白刃の輝きが、青年の髪を散らす。
「………詰めが甘ぇな、」
 不遜な一声が鄂森アセンの耳に入る頃には、顎の下から飛んできた拳が彼の躰を退けている。不意の衝撃によろめいた鄂森アセンの手首に、翡翠フェイツェイが容赦なく木刀を叩き込んだ。鈍い痛みとともに、小刃ナイフが宙を裂きながらあらぬ方へと飛び去ってゆく。
「生憎、てめぇより上手の使い手に散々しごかれたことがあってよ。こんぐらいじゃ、びくともしねぇわけ」
 勝ち誇った捨て台詞に続いて、左肩にも同じ痛みが突き刺さる。神経を伝わって、めきっと言う耳障りな音が届いた。肩を押さえて、鄂森アセンががっくりと膝をつく。翡翠フェイツェイが相手の敗北を確認したのと、その声が公園に響いたのはほぼ同時だった。
翡翠フェイツェイっ!!」
 まだ完全に声変わりしきっていない、少年の声。翡翠フェイツェイは弾かれたように顔を其方へ向けた。聞き違えるはずもない。これは………
彗星フォイシンっ?!お前無事だっ……」
 翡翠フェイツェイが言いかけた刹那――――。
 彼の肩を強く突き飛ばすものがあった。
 前につんのめって、倒れこむ直前。横目でその姿を追った翡翠フェイツェイの瞳に、驚愕と苦痛に眼を見開いた女の横顔が、やけにくっきりと映し出される。
黛玉ダイユー!!」
 その名を叫んだのは誰だったか。
 ただはっきりとしていたのは、鄂森アセンが隠し持っていたもうひとつの小刃ナイフが、黛玉ダイユーの胸に深々と突き刺さっているということだけだった。