鄂森アセンはもうすっかりおなじみになってしまった感触を掌に感じた。ししむらを切り裂く、柔らかでグロテスクなあの感触。
 った。そう思った直後、自分がとんでもない失態をしでかしてしまったことに気付く。
 目の前で今にも倒れそうな表情で立ちふさがっているのは、タンの愛人だった。純白の服に身を包んだその胸からは、赤黒い液体が染み出している。そこに突き刺さっているのは……自分が握っていた大折刃ジャックナイフだ。
「ちっ……」
 舌打ちをして女の胸から小刃ナイフを抜き放つ。そして再び翡翠フェイツェイに向き直ろうとした瞬間、鄂森アセンの躰は竜巻にも似た衝撃によって吹っ飛ばされていた。
「ぐあっ」
 かっと眼を剥き出しにする。その眼球を、突き出した木刀の切っ先が抉った。穿たれた眼窩が血飛沫を舞い上げる。紅く汚された鄂森アセンの視界が最期に捉えたのは、木刀を振りかざす青年の凶悪な眼差しだった。
 翡翠フェイツェイはその斬撃を、容赦なく敵の額に叩き込んだ。頭蓋骨をかち割った手応えが不穏に響く。どさりと倒れこんだ男の躰は、もはや立ち上がる気配すら見せようとしなかった。





黛玉ダイユー!」
 突然の悲劇を目の当たりにしたタンは、すぐに愛しい女のもとへ駆け出そうとしていた。
「待ちなさい」
 しかし、あどけなくも凛とした一声がそれを制止する。おもむろに振り返ったタンの瞳に、幼げな顔立ちをした少女の姿が飛び込んできた。
タン 宗昌ゾンチャンだな?」
 ゆっくりと、だが悪意に満ちた静かな声が、タンの焦燥を別のものへと変換させる。
「児童買春並びに売春斡旋、人身売買の容疑で逮捕します」
 あくまで事務的に言い放った少女が、タンのもとへ一歩踏み出す。俄かに顔色を変えた男は、瞬きをする間に身を翻していた。何かに駆り立てられるかのように逃げ出したタンの前に、小柄な少年が立ち塞がる。その少年を突き飛ばしかけた男の喉下を、冷ややかな刃が掠めていった。
「……往生際が悪いんじゃない?」
 突然小刀を突きつけられたタンが、思わずよろめく。底意地の悪い声音でそう呼びかけた少女は、至極冷静な表情で男の腕を鷲掴んだ。
「待て!!私ではない!君たちが捕えるべきは、私だけではないはずだ!!」
「ここまで来て命乞いってわけ?みっともないぜ、おっさん」
 青褪めた顔で抵抗する男に、麗紅リーホンが侮蔑も露わに吐き捨てる。だが男はそんな少女の声など耳に届かないとでも言うように、激しく頭を振り続けた。あたかも見えざる悪魔の手から逃れようとするかの如き懇願の眼差しに、麗紅リーホンが眉根を寄せた時。
「あがぁあぁぁぁあっ」
 この世のものとは思えぬほどの絶叫とともに、タンが喉元をかきむしって悶絶する。端整な紳士の顔は苦痛に歪み、理知的な双眸は恐怖と云う悪夢を焼きつけられたかのように大きくみひらかれた。あたかも岸に打ち上げられた魚のように、男の躰が激しくのたうち……口から血の混じった泡を吹き出したまま、ばったりとその場に倒れ伏す。
 その様子をすぐ隣で見ていた麗紅リーホンですら、何が起きたのかわからなかった。擦り切れた電影えいがのフィルムが唐突に断絶されるかの如く意識を失った男を、呆然と見遣る。急速に土気色に変わってゆくタンの形相に、生者の片鱗は窺えない。死へ向かう男の背中を凝視みつめながら、麗紅リーホンは何か強大な力が、自分たちの思惑を押しつぶしてゆくのを感じた。







「おいっ、しっかりしろ!!」
 左胸を刺され、うつぶせに倒れこんだ黛玉ダイユー翡翠フェイツェイが抱き上げる。温かく大きなぬくもりを感じて、黛玉ダイユーはゆっくりと瞳を押し上げた。
「フェ……イ…」
「莫迦、喋んじゃねぇ」
 つたなげに口を開きかけた女を、翡翠フェイツェイが制した。その直後、黛玉ダイユーの口から鮮血が塊となって溢れ出す。
「がっ…はぁ……」
黛玉ダイユー?!」
 タンが倒れた興奮から醒め、ひとまず男の身柄を彗星フォイシンに預けて傍に駆け寄ってきた麗紅リーホンが、黛玉ダイユーの顔を覗き込んだ。既に死への痙攣が始まっている。蒼白になった美貌には、もはや一片の精気さえ残ってはいなかった。
「しっかりしろ、もうすぐで救急隊が来る」
 頼む、持ちこたえてくれ……だが、少女の願いも虚しく、黛玉ダイユーの瞳は輝きを失いつつあった。
「おい、麗紅リーホン。何とかなんねぇのか。仮にも医者なんだろ?」
「そんなこと言われたって……」
「……っ、いい…わた…しは、へいき、だから……」
 翡翠フェイツェイの腕に抱えられた黛玉ダイユーは、ふるえる腕をつと持ち上げて、繊細な掌をそっと翡翠フェイツェイの頬に添え―――微笑わらった。
「―――――ありがとう」
 やっとのことで振り絞った声は、明瞭な響きをしていた。
 たった一言。その一言を伝えるのに、自分はどれだけ時間をかけたのだろう?
 あの夜、何も言わずに救ってくれた。手をさしのべてくれた。あの瞬間から、私のすべてが変わろうとしていた。
 出来ることなら、もう少し一緒に居たかった。決して叶わぬ思いであっても、傍にいて笑い合ってみたかった。貴方のことを、もっと知りたかった。
 そう言えば、まだ一度も貴方の笑顔も見ていなかったっけ。いつか、胸を張って自分の気持を伝えられるようになったら、貴方はちゃんと笑ってくれるかしら―――?
 言いたいことは、山のようにあった。でも、本当に伝えたかったのはひとつだけ。どんな麗句にだって、換えることなど出来やしない、最初で最期の言葉。
「ありがとう」
 たった一言。けれども其処に万感の想いを込めて。
 突然、黛玉ダイユーが激しく咳き込んだ。隙間風のような不快な音が喉を通り過ぎる。
黛玉ダイユー!!」
 耳元で、翡翠フェイツェイが名を呼ぶ。あの時自分を助けてくれたのが彼で、よかった。そんな他愛もないことが頭の奥で弾けて消える。
 自分が望んでいたもの。今になってやっと、見つけられたような気がする。不意に視界を切り裂くような光が、黛玉ダイユーの中に差し込んだ。
 蒼く弾ける世界の色は、自分が想像していたよりも眩しくて、泣きたくなるほど美しかった。総てを包むその蒼さに、震える手を伸ばす。この身を囚え続けた領域から、旅立ってゆくように。空の、あの焦がれるほどに憧れた、澄んだ色を目蓋の裏に焼き付けて、黛玉ダイユーは密やかに微笑み、そして――――瞳を閉じた。
黛玉ダイユー……」
 呆然と呟いた麗紅リーホンの背後で、何かが羽摶はばたく音がした。
 その羽音は何を乗せて飛び立ったのか。音がした方へ視線を動かす。
 一面の蒼空が、少女を優しく見下ろしていた。