上海の上空は、重たい雲に覆われていた。
 一昨日の晴れ間が嘘のような豪雨だった。激しい雨が、溜め込んでいた何かを吐き出すように、宝蘭堂ほうらんどうの屋根に降り注ぐ。
 まるで誰かの哀しみを謳うような雨は、暫らく止みそうになかった。




 紫霖ツーリンが居間に入っていくと、麗紅リーホン彗星フォイシンが居た。此方に背を向けている麗紅リーホンは、窓に寄り添いながらじっと庭園に見入っている。何かを探るように窓硝子を撫でていた少女の白い手が、ふと動きを止めた。
 硝子に映った紫霖ツーリン麗紅リーホンの視線がはた、と重なる。
「どうした、紫霖ツーリン
 もの問いたげな紫霖ツーリンの眼差しに気付いた麗紅リーホンは、気だるげに振り返って訊ねた。頭や頬に包帯を施した痛々しい姿でじっと見つめてくる。声をかけられた少年は、しばし逡巡した挙げ句、決心したように口を開いた。
「葬式とか、行かないわけ?」
 それが誰の葬式であるのか気付くのに、そう時間はかからなかった。
 例の騒動から、既に二日が経っていた。逮捕直後、原因不明の発作に襲われたタンは、ひとまず浦東プートンの総合医院に運び込まれたが、依然として意識を失ったままだった。タンの唯一の隠れ家アジトも爆破によって崩壊したために、彼が行っていた犯罪の証拠は闇へと葬られてしまった。花渓幇ファーシィパンに関する一連の捜査は混迷の淵を彷徨い、解決の糸口は遥か彼方へと飛び去ってゆく。そして事件の被害者として命を落とした黛玉ダイユーの亡骸は、ひとまず騎士団の鑑識科に預けられた。
「葬式?無いよ、そんなもん」
 麗紅リーホンは至極当然のようにさらりと言い放った。その言葉の意味が分からなかったかのように、訊ねた少年が怪訝そうに眉をひそめる。
「あのヒトは、天涯孤独らしいからな。火葬場に送っておしまい。今頃、荼毘だびに付されているんじゃないか?」
 教科書でも読み上げるかのような麗紅リーホンの口調に、紫霖ツーリンは返す言葉を失った。
 そう言われてみればその通りだ。彼女達が黛玉ダイユーの死を哀しみ、心安らかに送り出すなどという洒落たことに時間を割くような連中ではないことくらい、知っていたではないか。なのに、胸の奥がチリと焦げ付いた。
 一体自分はどんな答えを期待していたのだろう。いっそ不自然なほど冷静な少女を前に、紫霖ツーリンは不可解な怒りが込み上げて来るのを感じた。
「――――なんとも思わないのか?」
「何を思えばいいんだ?」
「何って……」
「お前が言いたいのは、彼女の死を悼んだりしろってことか?そんなことして何になる?」
「………」
「彼女はあくまで事件の当事者だ。ただの事件関係者に、必要以上の憐憫なんかかけちゃいられないね。そんなのにいちいちとりあっていたら、涙が幾つあっても足りないからな」
 麗紅リーホンはにべもなく言い切ると、再び窓越しに庭園と向かい合った。
 正論。彼女が言うことは確かに正しかった。まるで無駄なく整備された精密機械のようだ。だがそのそつの無さに、言ってることの正しさに、腹が立った。
 仮にも数日生活を共にした相手の、その悲惨な最期を知っているというのに、涙一つ見せようとしない少女の神経が理解できなかった。
 所詮は上辺だけの関係に過ぎなかったというのか?
 『貴女なら、きっと叶えられる』……そう優しく彼女を励ましたことも、すべて見せかけだったというのか、この娘は。
 この会話の間中、麗紅リーホンは一度も黛玉ダイユーの名を呼ぼうとしなかった。他人か、もしくはそれ以下のように黛玉ダイユーの死を冷たく突き放す少女を、紫霖ツーリンはまるで汚いものでも見るかのように睨み据えると、
「ああ、そうか。よく分かったよ」
 乱暴に踵を返して、吐き捨てるように言い放った。
「あんたがそんなに冷たい奴だなんて、思わなかった」
 肩越しに聞こえた声は、冷ややかな蔑みをはらんでいた。その呟きは果たして少女の耳に届いたのだろうか。麗紅リーホンは何も言い返そうとはしない。
 紫霖ツーリンは憮然とした様子で、そのまま居間を出て行った。それを確認した麗紅リーホンは、小さく息を吐くと、
「冷たくて、結構だよ……」
麗紅リーホン………」
 二人のやり取りを見守っていた彗星フォイシンが、痛ましげに麗紅リーホンを見遣る。それを払い落とすように、少女は首を振った。
「いいんだよ、これで」
 その呟きは、今しがた居間を出て行った少年に対して投げられたものとは瞭かに違う―――諦観するような、湿った悲哀に満ちていた。
「これで、いいんだ」
 騎士団――――警官という立場にいる自分は、必要以上の感情を事件当事者に抱いてはいけなかった。まして、麗紅リーホンは第九部を率いる局長だ。その威厳を保つためには、黛玉ダイユーの死に対する悲しみを安易に曝け出してはならない。たかが犯罪者の愛人が死んだだけのこと。その事実に取り乱しているようでは騎士団を名乗れやしない。
 わかっていた。理解しているつもりだった。だが……
「あいつは……こんな感情、知らなくていいんだ」
 食いしばるような声は、嗚咽にかすんでいた。
 そう、紫霖ツーリンは知らなくていい。警官としてその掟に耐えることが出来ない自分も、人間として満足に涙することが出来ない自分も、知る必要なんてないのだ。知ったところで、理解など出来やしない。自分でも、こんなに矛盾に満ちた感情を持て余しているくらいなのだ。だったらいっそ、冷たい人間と罵られたほうがずっといい。
 麗紅リーホンは、滲みかけた視界の中で空を見上げた。
 群青色にけぶる小さな空は、鳥籠から見上げる世界に酷似していた。黛玉ダイユーが憧れ、飛び立とうとした空は何処にも無い。相変わらず泣き続ける空にそっと手をかざして、その彼方に何かを探す。
「―――――ちゃんと、飛んで行けたかな……」
 窓硝子に映った少女の顔。その頬に流れ落ちたのは、窓を伝う水滴よりも熱く、そしてひどく哀しい雫だった。


 

 雨の日は嫌いだ。外には出られないし、やたらと湿気が多いしで、限りなく鬱陶しい。脳みそにかびでも生えそうな、陰鬱とした空気は生理的に受け付けたくないもののひとつだった。
 一昨日あんなことがあったのも、その理由を裏付けるのに一役買っている。こんな日に家に籠もってしまえば、いくら図太い翡翠フェイツェイであろうと、否応なしにあの事件について思考せざるをえない。
 宝蘭堂ほうらんどうのカウンターで紫煙をくゆらせていた翡翠フェイツェイは、不意に家の奥で乱暴に扉が閉まる音を聞いた。また紫霖ツーリン麗紅リーホンが衝突したのだろう。その理由も、大方予想がついた。
「……くっだらねェ」
 だが、そう独りごちる翡翠フェイツェイの心中も、穏やかではなかった。
 胸中に、絶えずざわめくさざなみが棲みついてしまったかのようだ。黛玉ダイユーの死に顔が、今際の声が、腕に感じた質量が、ふと気を緩めると洪水のように繰り返し再生される。
 少し、むかついた。どうしてあの女は、結婚したての花嫁のような微笑を残して、この腕から逝ってしまったのだろう。後味が悪いことこの上ない。
 ――――厭なことを、思い出してしまった。
 もう繰り返すことはないだろうと思っていた、己が過去の罪。それが、こんな形で彩りを添えることになろうとは夢にも思わなかった。
 積み上げてきた屍と咎罪きゅうざいの瓦礫に埋もれ、亡者どもの血に浸された道を歩む自分。こんな男に、何故黛玉ダイユーは惹かれたのだろう。その結果、夜の世界から抜け出し、光の中で生きる覚悟を決めた彼女は、つまらない男への恋情のために、身を滅ぼしてしまったのだ。
「俺なんかに惚れやがって……」
 頭を抱えてみたところで、現実はこれっぽっちも変えられやしない。こんな取りとめもない感傷に耽るのも、無意味だ。そう割り切ることにした翡翠フェイツェイは勢いよく立ち上がり、家に上がることにした。この豪雨だ。仕事を放棄して何が悪い。
 

――――ありがとう。


 ふと背中から、そんな声が聞こえた気がした。誰もいないのは分かっている。だとしたらこれは、自分の記憶が描き出した空耳だ。
 儚げに微笑わらう女の幻影を振り払おうとした翡翠フェイツェイは、無意識のうちに口唇をなぞっていた。一度だけ触れた、黛玉ダイユーのぬくもりの欠片が、まだわずかに残っているような気がした。




 外から侵食してくる雫の音は激しさを増し、軋む心に叩きつける。
 雨脚が、一段と強くなってきていた。






第三幕 完