此処へ来て、五日が過ぎた。
足の痛みも随分和らいだ黛玉は、まだ宝蘭堂の厄介になっていた。この家の住人たちは彼女の素性も何も詮索しないで、此処に住まわせてくれた。彼らはどうやら家族ではないらしい。何とも不思議な人たちだったが、その優しさに甘えるにはそんなことはどうだって良かった。
黛玉は居間の窓を開け放ち、空を仰いだ。隣接する建物の壁と家の屋根に切り取られた碧空は、冬の冷気によって一段と冴え渡り、洗練された色合いをもってこの空間を見下ろしている。視界の隅に、先ほど彗星と一緒に干した洗濯物がはためいているのが見えた。
隣室―――麗紅の部屋から、ラジオの古びた声が流れてくる。連邦放送らしい。いくらかノイズの混じった不明瞭な響きに、胡弓の音色が重なった。うららかな春の花香を思わせる嫋々とした調べが、煙のように、澄んだ碧い空へと立ち上ってゆく。
窓を開けて黛玉を迎えた世界は、お世辞にも広いとは言えない矩形の庭園だった。この家の周りを取り囲む廃屋の所為で、陽が殆ど当たらない薄暗い空間。まるで人目に付くのを恐れて、自らこんな僻地に逃げ込んでしまったかのような箱庭には、勿体ないほどの盆栽が陳列されていた。
今、目の前では、麗紅がその盆栽たちに水を遣っている。
まるで大切な恋人の面影を探すように、慈しむように、水を遣っている。
如雨露から零れ出す水音が葉と絡み合い、淡い旋律を奏で出す。ささやかなその音色は、黛玉の心にもしっとりと染み込んでゆく。
時間だけが穏やかに過ぎてゆく日々。その安寧こそ、彼女が求めてやまない、けれども絶対に手に入らないと思っていたものだった。
「―――何を、育てているの?」
「これ?」
黛玉はおもむろに頷いて、麗紅を見返した。16だと言う年齢よりも幼く見える顔立ちに、戸惑いの色が過ぎる。勝気な気性を示す大きな瞳を不思議そうに瞬きながら、少女は水を撒く手を一旦休めると、
「育てるって言っても……盆栽だしな。水なんかやらなくても勝手に育つし……けど、花もあるよ。鉢植えだけど……あそこに置いてあるのが、牡丹と菊。奥にある植え込みに、花街道と、躑躅、それから沈丁花。あたしが分かるのは、それだけだな」
次々と花の名前を口にする麗紅に、黛玉は分かったようなわからないような曖昧な微笑を返した。まだまだ寒い時期である。どの花も春に向けて眠りについていて、この薄ら寒い景色を華やかにしてくれる気配はない。
「この庭園の手入れをしているのも、貴女?」
黛玉は更に質問を重ねた。白くかたちのいい指先を、小奇麗に整った庭園へつと向ける。狭い空間にありながら、小池と石橋がささやかに配置され、花木と石とが複雑に組み合わさった景観は、伝統的な中国庭園のそれである。一介の民家にしては、随分と凝った装いをしていた。
「あたしじゃないよ。今、黛玉の後ろにいる奴にやってもらってる」
急に意味深な笑みをほころばせた麗紅に、黛玉は首を傾げた。そしてその瞳が自分を通り過ぎて、後ろへと向けられていることに気付く。ふと振り返ると、其処には翡翠が立っていた。
黛玉が慌てて身を引く。麗紅は彼女の後ろに立つ青年から視線を外すと、再び水を撒き始めた。
「何の用?」
「出かけてくる」
「あっそ。じゃあな」
あまりにも簡素なやり取りの後、翡翠はくるりと踵を返した。
「待って、」
反射的に、その一言が口をついて出た。呼び止められた翡翠は、訝しげにこちらを振り返る。
「―――何だ?」
問われても、なんと言えばいいのか分からなかった。その前に、何故呼び止めたのかも分からない。ただ、このまま去って行かれてしまうのはとても厭だった。何か言いたい。その欲求だけが、黛玉の感情を左右する。
「いえ……その…。いってらっしゃい」
結局、言葉に窮した黛玉が伝えられたのは、これだけだった。なんて不器用な一言だろう。きっと不審に思われたに違いない。
「……?ああ」
だが、翡翠はそっけなく答えただけだった。ちょっと不思議そうな顔をしながら、更に付け加える。
「―――いってきます」
再び踵を返した青年の背中を、軽い失望とともに見送った。
『……と…言うことです。――…続きましては、鳳家前当主……鳳g様の追悼式……です。二年前……事故でお亡くなりに……―――なお、クーデターに巻きこまれ……亡したご息女の追悼につきましては、』
つけっぱなしにしていたラジオの内容は、いつの間にかニュウスに変わっていた。鳳家前当主の追悼……垂れ流される情報の断片に、黛玉はぼんやりとした思いを馳せる。もうそんな時期か。旧正月で浮き足立っていた大陸中に齎された、元老宗主家当主の訃報。紅に染まった街が喪に服し、妓楼の主人が春節を祝した派手な催しが出来なくなったと、文句を垂れていた。鈍色の街並み、曇天の空。雪でも降りそうな春節の夜。あの男―――唐と出逢ってから、もう二年が経とうとしている。
「……何処に行くのか気になる?」
やっと水撒きを終えた麗紅は、如雨露を片付けながら黛玉に問い掛けた。埒もない追想に耽っていた黛玉ははっとして、少女に向き直る。そして軽く頭を振ると、
「いえ……別に。どうして?」
「なんか言いたそうだったから」
確かに。麗紅の言うことは当たっていた。だが、何を言おうとしていたのか、その理由の答えを黛玉は持っていなかった。
「―――なんて言えばいいか、分からなかったわ」
「は?」
「いえ、何でもないの。ただ、この庭の手入れをしてるのは本当なのかな、と思っただけ、」
風に攫われそうな密やかな呟きを誤魔化すように、黛玉ははりぼての答えを返した。ああ、と麗紅が納得したように頷くと、
「本当に、偶にしかやらないけどね。雑だし、見られたもんじゃないよ」
「そんなことない。凄く立派だわ」
「そうか?まぁ、そう言うことは本人に言ってくれ」
苦笑する麗紅の傍らで、あの青年が庭仕事をするのを想像してみた。
庭師の鋏を片手に、植木の一つ一つを丁寧に刈ってゆく。まるでお得意様の髪を切る床屋のように慎重に。じっくりと時間をかけて、庭と向き合い、そして何かを再生してゆく。その作業が終わった後、いい出来だと言わんばかりの満足げな表情で庭を見渡す―――――。
似合わなかった。
「黛玉?どうかした?」
いきなりくつくつと笑い始めた女を、麗紅は奇妙な花でも見つけたかのような表情で覗き込んだ。
「あ、わかった。似合わないって思ったんだろ?」
「そ……そんなこと、ないわ」
否定するも、果たして誤魔化しきれたかどうか。答えている間にも、忍び笑いは止まりそうにない。やがて、麗紅もつられて笑い始めた。
「まぁな。確かに似合わないな。つうか、気味が悪い。何か、無理やり更生させられた不良少年みたいで不気味だ」
あんまりな言い様だったが、その表現が的を射ていたのでますます可笑しくなった。でも、そんな彼も悪くないかもしれない。そう思いながら、改めて庭を見渡す。あの柄の悪い青年が手入れしてるという、この庭を。
ぽっ、と胸に火が灯ったような気がした。