「あの……それで、此処は何処なんですか?」
 まるで喋ることが罪みたいに黙り込んでしまった男女三人に向かって、黛玉ダイユーは目覚めてから今まで気にかかっていたことを思い切って訊ねた。
 三人の困惑が、はっきりと見て取れるほど伝わってくる。むしろ此方が困惑したくなるのを堪えながら、黛玉ダイユーは次の言葉を待った。


 眼が醒めると、見知らぬ天井が黛玉ダイユーを見下ろしていた。
 地味だが味わい深い唐草模様が描かれた天井。一目で金持ちの家とわかる内装だ。だが、自分が知っている光景ではない。
 どうして寝台ベッドで眠っているのだろう?その疑問とともに、昨夜あの男の元から逃げ出すように賓館ホテルの窓から飛び降りたことを思い出す。
 死ぬつもりだった。だが、すぐ下の階から張り出していた空間スペース―――賓館の食堂露台ダイニングテラスの上に落ちた所為で、難を逃れた。奇跡だと思った。
 そのあと露台から廊下へ出て、何とか街へ逃れることは出来たものの、すぐに組織の人間に捕まってしまった。其処へ現れた別の男の人に助けられて――――その後は?
 其処まで記憶を巻き戻した時、少年と少女、それから昨日自分を助けてくれた青年が部屋に入ってきた。
 そして、今に至るのだが……。
「あ、此処は骨董店宝蘭堂ほうらんどう。貴女が昨夜倒れたところを、其処にいる唐変木トーヘンボクが連れてきたんだ」
 そう言葉を返したのは、赤みがかった煉瓦色の髪を耳元で二つに束ねた娘である。麗紅リーホンと名乗った少女は、後ろに立つ青年―――翡翠フェイツェイを親指で指しながら微笑む。
 どこか不機嫌そうに此方を見ている彼の視線に気付き、黛玉ダイユーは居心地の悪さを感じた。
「あ……ご迷惑おかけしてすみませんっ。すぐに出て行きますから…」
 これ以上厄介になるわけにはいかない。不意に込み上げてきた焦燥にまかせて、寝台から降りようとする。だが、次の瞬間足首を襲った鈍い痛みによって、それを絶たれてしまった。黛玉ダイユーの表情が苦痛に歪む。
「全治一週間の打撲。歩こうと思えば歩けるけど、かなり痛むはずだ」
「だから、暫らく此処で休んでいてください。迷惑だとか、そんなことは考えなくて大丈夫ですから」
 純真無垢を具体化したような笑顔でそう言ったのは、彗星フォイシンと名乗るあどけない少年だ。その言葉に、胸が苦しくなったのはどうしてだろう。
「ありがとう……」
 感謝、焦燥、申し訳なさ。そしてほんの一滴の罪悪感が入り混じった重い溜息とともに、黛玉ダイユーは辛うじてその一言を返した。
 たまたま通りかかった人に、此処までしてもらう理由が黛玉ダイユーには分からなかった。随分昔から、モノ同然の扱いを受けてきた記憶しかない彼女にとって、それは哀しい喜びだった。手が届かないと思っていた何かが、一時だけ手の内に舞い込んだような。
 どうすればいいのか分からなくなって、黛玉ダイユーは思わず目を伏せた。そんな彼女に向かって、麗紅リーホンが言いにくそうに問う。
「それで……、一体何があったんだ?変な奴等に追いまわされてたって聞いたんだけど……」
「それは……」
 当たり前だが、もっとも恐れていたことを聞かれて、黛玉ダイユーは言葉を失くした。
 本当のことを洗いざらい喋れば、彼女たちはすぐさま警察へ通報するだろう。けれども警察、もしくは騎士団の応援を求めたところで自分の言い分を信じてくれるとは思わないし、下手をしたら再びタォの元に連れ戻されるかもしれない。最悪の場合、彼を裏切った自分とこの家の者たちも殺されてしまう恐れがある。
 此処まで優しくしてくれた彼らを、巻き込むわけにはいかない。 
 だが……。
 黛玉ダイユーは、入り口付近の壁に凭れる翡翠フェイツェイを仰ぎ見た。
 なによりもこの男に、真実を聞かれたくなかった。自分の正体が犯罪組織マフィアのボスの情婦だったなんて、知られたくなかった。
 自分でも不可解な感情が、何か言おうとする声を塞き止めている。
「言いたくないんなら、無理に言うことはねぇよ」
 ぼそっと呟かれた無骨な声が、彼女の葛藤を打ち砕いた。
「ちょっ……何言ってんだよ翡翠フェイツェイ?お前な……」
「二,三日此処でゆっくりしてろ。それから今後のことを考えたって遅くねぇだろ?」
「それは……そうだけど」 
 何か言い返そうとした麗紅リーホンだったが、結局その言葉を放つことはなかった。不愉快なものを飲み込んでしまった時のように、後味の悪そうな顔をして翡翠フェイツェイを睨み返す。だが彼はそれをものともせずに、
「なら、文句ねぇだろ。じゃ、俺はこの辺で失礼すっから」
翡翠フェイツェイ?!何処に行くの、」
いっそ無礼なほどの唐突さで部屋を出て行こうとする相棒を、彗星フォイシンが慌てて呼び止めた。
「居間。病人の前じゃあ煙草は吸えねぇからな」
 そんな気遣いがあんたにあったのか……。顔を見合わせた麗紅リーホン彗星フォイシンの胸には、たぶん同じことが過ぎったのだろう。どちらも狐につままれたような顔でお互いを見つめている。
 しかし、不思議そうに首を傾げている黛玉ダイユーの視線に気付くと、
「えー……そーゆーことで、今は気兼ねせず休んでてください。ちなみに、お名前は?」
 まるで台本の台詞を忘れた舞台役者のように視線を宙に泳がせながら、彗星フォイシンが尋ねた。
リン………黛玉ダイユーです」
「そう。じゃあ暫らくよろしく、黛玉ダイユーさん」
 やや戸惑ったように答えた黛玉ダイユーの心中に気付く様子もなく、麗紅リーホンが愛想のいい一礼を贈る。だが黛玉ダイユーは、今しがた部屋を出て行った青年の後ろ姿を追いかけるように、じっと入り口のほうを見つめているばかりだった。




「さて。さっきのあれはどーゆーことだ、翡翠フェイツェイ。ちゃんと説明してもらおうか?」
 居間に降りた麗紅リーホンは、椅子に凭れながらぼんやりと紫煙をくゆらせる青年に詰問した。問われた相手は眼球だけを少女に向けると、
「あーもー……過ぎたことにはこだわんな」
「冗談じゃない!!それで済むと思ってんのか、テメェ」
 麗紅リーホンが声を荒げるのも、無理からぬことだろう。
 何せこれから探そうとしていた手がかりが、此方の懐に飛び込んできたのだ。この千載一遇の機会チャンスを逃すわけにはいかない。速やかに黛玉ダイユーの口から事情を聞き、タォの居所を掴まなければ。
 その任務について、昨夜あれだけ説明したはずなのに、この男は此処に至ってからあんなことを口走ったのだ。お陰で、此方の正体を名乗るきっかけさえ無くしてしまった。
「じゃあ聞くけどよ、お前あの状況であいつから何か聞きだせると思ったのか?」
「それは……」
 勇ましく怒鳴っていた麗紅リーホンだったが、その質問に答えることは出来なかった。
 黛玉ダイユーの、あの壊れそうな表情が脳裏に甦る。確かに、何か話してくれそうな顔ではなかった。あれは、頑なに何かを拒む被害者の顔だ。
「あの女、そのタォって奴ンところから逃げ出してきたんだろ?その上警察に保護を求めようともしないときたもんだ。何か、よっぽど言いたくない事情でもあんだろ。それを無理に聞き出して変に警戒されて、逃げ出されちゃかなわねぇだろうが」
「でも、あたしたちは少なくとも彼女の味方になれる」
「それが余計なお世話なんじゃねぇの。逃げ出してきたあいつのことも考えてやれば」
 その一言に麗紅リーホンは、まるでたった今覚醒したかのように眼を見開いた。
 それと同時に反芻されたのは、昨夜遅く蓮英リェンインが帰ってから後に調べた一人の女性の情報である。
 九つの時、両親を事故で亡くし、伯父の家に引き取られた。だが、其処での生活は悲惨なものだったらしい。伯父からは性的な虐待を、その事実を知った伯母からは嫉妬による執拗な嫌がらせを受けた挙げ句、十六歳の時に借金の肩代わりとして女衒ぜげんに売られ、その身を堕とす羽目になった。
 その後、偶然出逢ったタォに見初められ、娼婦から一転、犯罪組織マフィアの元締めの愛人へと昇格する。
 それが、顕示器ディスプレイに綴られた『琳 黛玉リン ダイユー』と言う女の生涯だ。
 絵に描いたような、悲劇のヒロインだった。陳腐だと笑い飛ばしてしまうにはあまりにも残酷な、現実味を欠いたその生涯。それともあの美貌が、彼女を薄幸の美女へと仕立て上げているのだろうか?
 なるほど、確かに不幸を呼び寄せるような、不思議な魔力を持った女性だった。清楚な印象とは裏腹に、拭いきれないほどの蒼い悲しみで包まれたあの瞳が、立ち入ることさえ赦されない彼女の心中を物語っていた。
 麗紅リーホンは、軽く唇をかみしめた。悔しいが、翡翠フェイツェイの言い分のほうが正しい。
 まずは彼女がんでしまった毒を、抜かなくてはならないだろう。
「―――あんたに、そんな思いやりがあるなんて思わなかった」
「俺は女には優しいの」
「あたしの時はそんなこと言わなかったくせに」
「くそ生意気なガキは別だ」
「……あの人に惚れた、とか?」
「何とでも言え」
「だけど……生憎そんな同情をかけてる暇はない。これは仕事なんだ」
「そんなに仕事がしてぇなら、ご自由に。もう俺は止めないぜ、局長さん?」
 世間知らずの小娘を、宥めるような口調。その物言いに、麗紅リーホンは強い嫌悪感を示した。眉根を強く寄せながら、ぷいとそっぽを向くと、
「――――まぁいい。直接聞かなくても調べる手立てはあるしな。参考人の躰が此処にあるだけでも儲けもんだ。あたしはあたしのやり方でやらせてもらうさ」
 そう言った少女の声に混じっていた感情は、苛立ちや諦めとは異質なものだ。その理由に気付いた翡翠フェイツェイは、ふっと勝ち誇ったように眼を細めると、残りわずかになった煙草を吸殻へと押し付けた。




「会長。黛玉ダイユーさんの居所が掴めました」
 今一人、地上三百メートルの高みから魔都まとの夜景を見下ろしていたタォに声をかける男があった。
「そうか。ご苦労だったな」
 其方を見向きもせずにタォが形ばかりの返事をする。その瞳が何処を彷徨っているのか、男には知る由もない。ただ分かっているのは、この結果を聞いてもタォがまったく動じなかったということだけだ。
「すぐにでも連れ戻しますか?」
「いや……まだいい。どうせ逃げ出せやしないんだ。暫らく放っておこう」
「畏まりました」
 浦東プートンの金融街にそびえるビルの一角で、こんな会話が取り交わされているなど、黛玉ダイユーは夢にも思っていないだろう。彼女は今も、逃げ続けているに違いない。だがそれも無駄な足掻きなのだ。そう思ったタォの頬に、猫が鼠をいたぶるような残虐な笑みが広がる。
 所詮逃げ出したところで、飼いならされた小鳥が空へ羽搏はばたくことなど不可能だ。彼女が帰る場所、そして羽を休められる場所はタォの手元をおいて他にない。
 鳥籠の姫は、その血の一滴まで、彼のものなのだから。