「っとお……危ねぇ」
 不意に鳴らされたクラクションが聞こえて間もなく、黒塗りの外車が男の傍らを掠めて走り去っていった。
 浦東プートン区・張楊路ヂャンヤンルー
 黄浦江ホヮンプージャンを挟んで東側に位置するこの地区は、近年上海市当局が商業地域として開発した、連邦随一のオフィス街である。燈式とうしき(第二階級)から上の者、あるいは特別に入場登録している者しか足を踏み入れることを許されないこの地区は、上海市民―――いや、大陸に住む者たちにとって未知の未来都市であった。
 通りを挟んで立ち並ぶ高層ビルの群れが、淡い月光を受けて煌めき奈落の夜天そらに突き刺さる。夜が更けてもなおその威光を商都中に輝かす摩天楼たちは、機械仕掛けメカニックの宮殿めいた趣を醸し出していた。
 中でも張楊路ジャンヤンルーは、賑やかな繁華街として知られた地区エリアである。だがしかし今宵は、どこか雰囲気が違っているようだった。
 先ほどから、柄の悪そうな連中がやけに目に付く。それも一人二人ではない。飯店レストラン時装商店ブティックのいたる所に、人目でそれと分かる輩が幾人も張り込んでいる。
 秩序と合理主義のもとで流動する新市街・浦東プートンにあって、このような手合いがこれほどうろついているのは珍しい。というか、あってはならないことだ。
 何かのっぴきならない事件でもあったのだろうか。厄介ごとに巻き込まれないといいのだが……。しかしながら、そう考えつつ歩く男―――翡翠フェイツェイも、人のことは言えないなりをしていた。
 薄墨うすずみ色に脱色した髪に、黒い長大衣ロングコート。咥え煙草で鷹揚に歩を進める男の貌立ちは、そう悪くなかったが、黒眼鏡サングラスから覗く瞳は猛禽もうきん類を思わせる鋭さを放っていた。
 今すれ違った二、三人のチンピラとそう大差ない彼を、同業者と思いこそすれ、連邦警察―――騎士団の人間だと気付く者はまずいないだろう。
 やがて翡翠フェイツェイは、繁華街の薄暗い路地裏へ身を滑り込ませた。此処を通れば、黄浦江を横断する水上バスの最終船に間に合うだろう。果たして今夜は、麗紅リーホンの小言を受けずに済むだろうか?
「きゃっ……」
 足早に歩いていた翡翠フェイツェイの背中に、何か柔らかいものがぶつかった。急いでいた所為で気が立っていた彼は、気の弱い人間が見たら卒倒しそうな眼差しを後ろへ向ける。其処に居たのは、一人の若い女だった。
 暗がりでも分かるほど、美しい貌立ちをした女だ。奇妙なことに、薄い風呂女袍バスローブを羽織っただけの姿をしている。
「お願いします!助けてください!!」
 今日びの街娼は、こんな台詞で客を引くのか……そんな冗談が脳裏を過ぎったが、それは次の瞬間かけられた言葉によって打ち砕かれることとなる。
「おい、あんちゃん。その女こっちに寄越しな」
 見れば、女が駆けてきた方向に、五、六人の男たちが立っているではないか。安物の套装スーツを着込んだ、揃いも揃って人相の悪い集団。よほど急いできたのだろう。逃げ出した女を追いかけてきた様子がありありと窺える。
「そいつは、俺らが先に目ぇつけたんだよ」
「人の獲物に勝手に手ぇ出すんじゃねぇ」
 にじり寄ってくる男たちにとって、女なんてただの『商品』にすぎない。此処にいる彼女も、暴力と金でどうとでもできる。そんな傲慢さが口調に滲み出ていた。
 翡翠フェイツェイはちらりと女を一瞥した。自分の背中に隠れるようにして此方を見上げる瞳は、縋るような切迫感がある。
 こんなところでごたごたに巻き込まれるのはごめんだった。このまま大人しく彼女を引き渡すなり何なりすれば、話はそれで済む。こういう状況への対応ぐらい、弁えていた。だが……
「助けて……と言われちゃあ、しゃあねぇな」
 そう独りごちると、翡翠フェイツェイは女の手を引いて一目散にその場を駆け出した。
「なっ……待てっ!この野郎!」
 慌てて男たちがそれを追う。そのうちの数名が、懐からナイフを取り出した。
「げっ……まじかよ、」
 追いかけてくる彼らの中に白刃を見出した翡翠フェイツェイは、面倒臭そうにうめいた。そして、いかにも覚束ない足取りで走る女に目を遣る。自分ひとりならば奴等を振り切ることも出来ようが、この女を連れているのでは追いつかれるのも時間の問題だ。
 事実、敵はもうすぐ其処まで来てしまっている。
「あ〜。面倒くせぇなァ……」
 走るのを諦め、女を自分の後ろへ軽く突きとばした。そして彼女を庇うようにくるりと躰を向け、間合いに飛び込んできた男と向かい合う。
「其処を退けぇえっ」
 怒号とともに突っ込んできた男が、ナイフを高々と振りかざす。しかしそれよりも一拍早く一閃した翡翠フェイツェイの蹴りが男の顎を捉え、その手から離れた白い凶器は研ぎ澄まされた螺旋を描きながら闇へと消えた。
「てめぇ……」
 続いて飛び掛ってきた二人組の攻撃を、大きく後退してやりすごす。
 そして長衣コートの下に隠した木刀を目にも止まらぬ速さで抜き放ち、右側にいた男の鳩尾へと叩き込んだ。
「ぐえっ……」
 肋骨を折った手ごたえがした。マズったな……心の中で舌打ちをしている頃には、左側にいた男の手首を叩き、次いで固く握った拳を顔面に捻り込ませている。翡翠フェイツェイの気紛れで二つの攻撃を受けたその男は、鼻から盛大に血を噴き出して昏倒した。
「この野郎………ッ」
 逆上したチンピラの一人が、拳銃を向けてきた。だが安全装置をはずした次の瞬間には、銃身が軽やかな音を立てて砕け散っている。驚愕に眼を見開く間もない。いつの間にか懐に飛び込んできた翡翠フェイツェイの木刀の剣先が翻り、男の脳天を直撃した。
 目も眩むほどの衝撃に躰を折った男の腹に、容赦ない蹴りを一発叩き込む。後方に構えていた仲間の幾人かが、ガラクタのように足元まで吹っ飛ばされた男を見て後ずさった。
「さァて……次は誰だ?」
 少し長めの木刀を肩にかかげ、傷つき苦しげにうめく男どもを足蹴にしながら翡翠フェイツェイが尋ねた。黒眼鏡サングラスの隙間から、それだけで刺し殺された気分にさせる眼を覗かせる。
 今にも飛び掛ろうとしていた他の仲間たちは、その視線に射すくめられ、我先にと逃げ出していった。これ以上相手にしても、勝ち目はないと判断したのだろう。敵ながら、賢明な逃走である。
「んじゃ、行くか」
 何事もなかったかのように翡翠フェイツェイが後ろを振り返った。だが其処に立ちすくむ女は、引き攣った悲鳴を必死に堪えるような表情で、彼を凝視している。
「え…えーと……」
 か弱い女性にしてみれば、今の光景はあまりにも衝撃的だっただろう。うっかりしていた。失神でもされたりしたら、更に厄介なことになる。
「あの……」
 案の定、言葉に詰まった翡翠フェイツェイに向かって、女はふらりと躰を揺らめかせた。危うく地面に衝突しそうになった彼女の肢体を、慌てて抱きとめる。
「え?ちょっと待てよ。おい、起きろって……」
 強く揺さぶってみるが、女はわずかに身じろぎしただけで目を覚まそうとしない。
「参ったなこりゃ……」
 途方にくれた顔で、翡翠フェイツェイは情けないため息をついた。





「――――で。どっからそんな別嬪さんを拉致って来たんだ?」
 時計は既に午前一時半を回った、宝蘭堂ほうらんどう店内。
 静寂を破って戻った翡翠フェイツェイと、彼がしょってきた荷物を仰ぎ見ながら、麗紅リーホンは至極穏やかな声でそう訊ねた。
「何だその言い草は。道端で倒れたのを拾ってきただけだぜ?」
「そうか……あんたもついに誘拐犯になってしまったか……」
 翡翠フェイツェイの肩に頭を預けている女を見つつ、しみじみと呟く麗紅リーホン
「曲がりなりにも警官のくせにな。公務員の不祥事は最低だ……」
 翡翠フェイツェイの帰還により叩き起こされた紫霖ツーリンは、静かな声の中に冷ややかな侮蔑を込めてそう返す。
「……翡翠フェイツェイは……そんなことしないって信じてたのに…」
 寝ないで相方の帰りを待っていた彗星フォイシンは、今にも泣き出しそうな眼差しで首を振っている。
「マサカ女ヲ酔ワセテ家ニ連レ込ムナンテ……」
 耳障りなほど高い声で言い放ったのは、九官鳥のシュウだ。
「そ………そんな…」
「気ニスルナ、彗星フォイシン。所詮ハソンナ奴ダッタッテコトサ」
 そう言って、シュウは慰めるように少年の肩に止まった。
「え?拉致決定?―――って、さっきから黙って聞いてりゃ、テメェら好き勝手言ってんじゃねぇよ!!」
 いつもならばついでに側にあった椅子でも蹴りつけているところだが、背中に女を背負っているので、今日は喚くだけにとどめておく。
「それで?此処まで連れて帰ってきたからには、何か理由があるんだろうね?まさか本当に拉致った訳じゃないんだろ、」
 翡翠フェイツェイが帰ってくるまで電脳と会話していた麗紅リーホンは、紫霖ツーリンのように叩き起されたわけではないので、そう不機嫌ではなかった。彼をからかうのはこの辺にしておいて、事情を伺う態勢を作る。
「街で拾った……にしてはそのヒト、随分あられもない格好してるね」
「それが、変な連中に追われてたみたいなんだよ」
「そしてあんたもその一人、か?」
麗紅リーホン
「はいはい。冗談だって……。怪我とかはない?」
 椅子から立ち上がって、翡翠フェイツェイの後ろへ回り込む。すぐさま医者の顔つきになった麗紅リーホンは、女の足首を診て小さな声を漏らした。
「打撲してる……急いで手当てしないと。翡翠フェイツェイ、下ろして」
 命じられた青年は、女を近くにあった椅子に下ろした。
「しかし、よく歩けたな……。彗星フォイシン、いつもの準備頼む」
 指示を下したあと、麗紅リーホンは女の顔をじっくりと覗き込み―――息を呑んだ。
「嘘だろ……このヒト、」
 店内の照明に照らされた女の、清楚な美貌。それは紛れもなく、蓮英リェンインが渡していった軟盤ディスクに記録されていた女―――琳 黛玉リン ダイユーのものだった。