カウンターに凭れていた少年は、非常に困惑していた。
 深夜零時。濃い闇がそこかしこに沈んだ骨董店には、蒸気を上げて湯を沸かす音のみが不躾に響いている。陶器の茶碗がふれあう澄んだ音すら神経に障る静寂の中、彼の瞳は目の前で向かい合う二人の女の間を忙しなく行き交っていた。
 その夜、宝蘭堂ほうらんどうに一人の客人が訪れていた。
 いや、来客と呼ぶには些か語弊があるかも知れない。何せその人物が店の戸を叩いてから今まで、店主である黄 麗紅ホヮン リーホンはただむっつりとおし黙ったまま、腕を組んでその人を睨みつけていたからである。一方客人の方は、そんな店主にお構いなく取りとめもないことをつらつらと喋り続けていた。その場に居合わせた鳶色の髪の少年はというと、店主である麗紅リーホンの静けさに居心地の悪さを感じながら、喫茶用のカウンターでお茶の準備を黙々と続けている。
 如何に鈍い輩であろうと、その客が歓迎されていないことがありありと窺えただろう。
麗紅リーホン。お茶……淹れたんだけど、」
 急須に湯を注ぎ、固く閉じた茶葉がふんわりと香り始めた頃、少年―――彗星フォイシンは遠慮がちに主張した。真夜中に乗り込んできた非常識な相手とは言え、客は客。それなりのおもてなしをしなければならない。その所為でお茶を用意するのが随分と遅れたわけだが。
 いい値段で仕入れた碧螺春プーアール茶しようか、ふくよかな薫りに満ちた茉莉花ジャスミン茶にしようか、それとも昨日買ったばかりの龍井ロンジン茶がいいだろうか――――
「―――彗星フォイシン。もういいよ、下がって」
 結局オーソドックスな鉄観音てっかんのん茶に落ち着いて、いざそれを碗に注ごうとした時、それまで黙り込んでいた麗紅リーホンに止められてしまった。
「ぅえ?でも……」
「いいから。下がってろ」
 有無を言わさぬ低い声には、大量の毒が仕込まれていた。虫の居所が非常に悪いらしい。無言の圧力を感じた彗星フォイシンは、何も言わずそれに従うことにした。このまま放っておけば茶葉が開ききってしまう恐れがあるが、麗紅リーホンの不機嫌を助長してしまうほうがよほど怖い。そうなってしまうと手が付けられないことは、これまでの経験で厭と言うほどわかっていた。百獣の王に睨まれた小動物のような勢いで、素早く回れ右をする。
「かっわいそォ。何もあ〜んな言い方しなくったっていいじゃ〜ん」
 逃げるように店から姿を消した少年に向かって、客人はぼそりと呟いた。
 やけに間延びしたその声を受けて、麗紅リーホンはきつい眼差しをもってぴしりと言い返す。
蓮英リェンインには関係ないだろ」
「あ〜、そうだっけぇ?つーかやっと口聞いてくれたね、麗紅リーホン
「出来ることならずっと黙っていたかったけどな」
 麗紅リーホンは厭味っぽく肩をすくめた。だが向かい合わせに坐る蓮英リェンインと呼ばれた女は、それに何の興味も反応も示さずに茶髪の毛先を弄んでいる。緩くウエーヴをかけた上脱色した長い髪は、酷く痛んでしまってるらしく艶がない。
「で、話が済んだならとっとと帰ってくれないか?夜も遅いし、」
「え〜〜〜?折角彗星フォイシンちゃんがお茶出してくれたんだしぃ、飲んでから帰る」
「ならさっさと飲め」
 乱暴な手つきで茶を注ぎ、碗を蓮英リェンインに押し付ける。
「大体、何でこんな時間に来るんだよ?もう十二時回ってるんだぞ?用があるなら明日にすれば……」
「あ〜〜。超おいしぃ〜」
 溜息と苛立ちに彩られた麗紅リーホンの抗議は、蓮英リェンインの能天気な台詞によって遮られてしまった。所詮何を言っても無駄だとは承知していたが、やはりこう返されると腹が立つ。麗紅リーホンはそれ以上言うのを諦めて、投げやりな気分で椅子に凭れ掛かった。
 嗚呼、なんだか眉間の皺が増えそうだ。
「りぃほ〜ん。あんまり苛ついてると、ほら、此処の皺が増えちゃうよ?総帥そうすいみたいに、」
 見かねた客人が、茶を啜りながら指摘する。
 誰の所為だよ……そう言いたいのをぐっとこらえると、麗紅リーホンは目の前の茶を勢いよく飲み干した。
 一日の疲れを癒す安息の時間に、ずかずかと訪ねて来た相手の非礼はこの際置いておくことにしよう。そう割り切った麗紅リーホンは、話題を転換することにした。
「しかし、妙な話もあったもんだ。この間の娼館がらみの事件は万事解決、あそこが抑えていた人身売買のルートやなんかは、大体摘発したんだろ?関 秀来コヮン シウライの処分に関しても、大衆報道メディアに嗅ぎつけられることなく終わったって聞いたけど?」
 椅子から立ち上がり、カウンターの隅に放置してあった新聞を女の目の前へ放り投げる。客人―――上海騎士団第八部・公安局職員、楊 蓮英ヤン リェンインは、そこに躍る見出しに眼を走らせると、
「まぁね。お陰でコヮン局長の面目は丸つぶれ、総帥はリュウさんの勢力を牽制する要素を手に入れた、と」
「……まったく。今回ばかりはあの莫迦息子に感謝するよ。これでよほどのことがない限り、あたしたちの身分は守られるんだから」
 騎士団の頂点に立つ若き総帥と、騎士団の軍と呼ばれる機動局を率いる古株・劉 志雄リュウ チーション。騎士団の権力を二分する彼らが、内部での覇を競っているのはつとに有名な話である。そして先日麗紅リーホンたちが検挙した男はリュウ側の重鎮の息子であり、彼自身もまたリュウのシンパでもあった。
 何かと敵の多い総帥である。その懐刀として彼の勅命を受ける麗紅リーホンたち第九部は、機動局統括の反感を買う存在でもあった。秘密部署である第九部は最悪の場合、彼の差し金によって潰されてしまう可能性を含んだ不安定なものであるのだ。故に麗紅リーホンは、自らを守る切り札を作るために、関 秀来コヮン シウライの悪行を暴き出したのである。
「それにあちらも、マル秘を庇うつもりはないだろう。いくらコヮン局長がのしつけてリュウに頼み込んだって、今回だけはどうしようもないと思うけど、」
「もっちろん。コヮンパパもぉ、息子は切り捨てるってゆってたらしいしねぇ〜」
「だが総帥はそれだけで終わらせるつもりはない……違うか?」
 再び椅子に腰掛けた麗紅リーホンは、意味ありげな微笑を蓮英リェンインへと向けた。
 リュウたちが沈黙を守りぬいたまま御曹司を切り捨てることは容易い。それを知るのは麗紅リーホンたちと、一部の重役のみだ。だがそれだけで済ませてしまっては、いざと言う時の切り札にはなりえないばかりか、あれだけ派手な突入を仕掛けた第九部の面子も立たなくなってしまう。 
「さっきコヮン局長にも都合の悪い証拠が出てきたって言ってたよな、蓮英リェンイン?それはつまり、【遊仙窟ゆうせんくつ】をはじめとする人身売買のルートを取り仕切る犯罪組織……花渓幇ファーシィパン、だったか。その組織のボスとコヮン局長の息子との間に繋がりがあったってことか?」
「たぶんそうかも。けど、証拠がないから何にも言えないんだって」
 茶を啜りつつ、蓮英リェンインが気のない表情でさらりと言ってのけた。生憎、彼女のように優雅にお茶を楽しめないでいた麗紅リーホンは、指先で卓子テェブルの上を苛立たしげに叩きながら、
「なるほど?つまりあたしたちは、リュウたちがその証拠を隠滅する前に、奴らと御曹司との繋がりを掴めばいいってわけ、」
 それはリュウ側への牽制になると同時に、彼の側にいた人間を此方へ取り込むことも意味していた。騎士団内部でのコヮン局長の立場を肩身の狭い場所へと追いやった今、彼の弱みを握り総帥側へと傾かせることは容易い。彼としてもこれ以上、厄介な事実が露見されることは避けたいはずである。
「ん〜、蓮英リェンインは一応さっきゆったことを伝えろって上司に頼まれただけだしぃ。そんなこと聞かれても分かんないってゆーかぁ、」
「ほほう。いい度胸じゃないか。では何だ、あんたはこんな非常識な時間に、くだらない話を聞かせるために手ぶらで人の家に押しかけてきたってわけか?」
 返答によっては問答無用で追い出して、二度と店の敷居を跨がせないようにしてやる……そんな感情をにこやかな笑みの裏に隠しながら麗紅リーホンが問うた。しばらく首をかしげていた蓮英リェンインだったが、
「ああ、そうだ!!忘れてたっ」
 素っ頓狂な声とともに任務を思い返し、麗紅リーホンは思わず頭を抱えた。そんな少女の懊悩など気にもせずに、蓮英リェンインが傍らのバッグから薄型の軟盤ディスクを取り出す。
「とりあえずー、これ。麗紅リーホンのそれでも見れると思うよ」
 蓮英リェンインの差し出した軟盤ディスクを渋々受け取った麗紅リーホンは、そこに書き込まれた数据データを身につけていた腕帯輪リストバンド―――着用型電脳ウェアラブルコンピュータに読み込ませた。光沢のある紅繻子べにじゅすの生地に、金糸で龍の刺繍が施された腕帯輪リストバンドから、意味を成さない数字と漢字の羅列が流れるように闇へと投射される。やがてそれらの暗号コードが像を結び、幾つかの情報を宙へ映し出し始めた。
花渓幇ファーシィパンの内部情報。捜査局が分かってる限りの基本的なもの、だけど」
「―――唐 宗昌タォ ゾンチャン……か。この男が、組織の元締め?」
「うーん……そんな名前だったかも。けど、偽名じゃない?容貌は不明、法務省の市民名簿にもそんな男は登録されていないっぽいし」
「………このヒトは、」
 資料をめくるように画面を切り替えていた麗紅リーホンは、とある画像の前でふと手を止めた。
 其処に写っていたのは、硬質な美貌を持つ一人の女性だった。よわい二十ほどだろうか。風のささめきを孕んだ長い黒髪に縁取られた、上品に整った顔立ち。繊細な鼻梁には陽炎の如き憂いが漂い、濡れ羽色に煌めく双眸は拭いようもない哀しみを湛えている。
「知らなぁい。花渓幇ファーシィパンのボスの愛人かなんかでしょ?よく見せて……わぁ!すっごい美人」
琳 黛玉リン ダイユー……ね。彼女の経歴は……分かるわけない、か」
 それはタォの身辺情報の一つとして挿し込まれた画像の一部であった。売春組織の元締めの情婦。そんなレッテルに似つかわしくない風情の女性だ。だが近づくものを拒み、けれどそれを受け入れざるを得ない哀愁を一心に押し隠すかのように固く結ばれた口唇が、彼女が辿った生涯を露わにしていた。
 暫らく憮然とした表情で画像を見つめていた麗紅リーホンだったが、諦めたようにひとつ息を吐くと、
「総帥の言い分は一応了解した。とりあえず、これ借りといていいか」
 蓮英リェンインが此処を訪れた時点で、此方の運命は決まっている。どんなに嫌がったところで、麗紅リーホンたちに拒否権はないのだ。面倒だがやるしかない。
「うん。それ蓮英リェンインには必要ないしぃ、勝手に使っちゃって。けど麗紅リーホンも可哀想だよねぇ。もうすぐで旧正月なのに、めんどい仕事が入っちゃって」
「そんなあたしを哀れと思うなら、今の台詞を総帥に言ってくれないか?」
「やだぁ。そんなこと言って総帥に睨まれたら恐いしぃ。それに、暇を持て余してる人は働かないと、」
「―――そんなに暇そうに見えるか?あたしが」
「ん〜、このお店はしょぼいって言うかぁ〜、今にも潰れそうにみえるよ?」
「――――そりゃどうも、」
 麗紅リーホンは皮肉げに笑って見せた。此処がこんな風なのは、今に始まったことではない。
「じゃあ、そゆことで。麗紅リーホン、お仕事頑張ってねぇ」
 ひらひらと気だるそうに手を振って、蓮英リェンインは席を立った。任務は果たしたと言わんばかりの背中を、麗紅リーホンは呆れとも疲れともつかないような眼差しで見送る。

「……帰ったみたいだね、蓮英リェンインさん」
「―――彗星フォイシン。もう寝たんじゃないのか?」
「これ、片付けないといけないからね。あ、ちゃんと飲んだんだ」
 急須の蓋を開けて中を覗き込みながら、適当に相槌を打つ。
「―――何だったんだ、あの女」
 彗星フォイシンに続いて顔を出したのは、息を呑むほど麗しい顔立ちをした少年―――紫霖ツーリンだ。此処に来てまだ日が浅い居候の身である彼は、蓮英リェンインの存在について何も知らないのである。
「うちの部署専属の聊天者メッセンジャーだよ。騎士団公安局の人間」
「……送ってったりしなくていいのか?」
 女が去っていったばかりの戸口に目をやりながら、紫霖ツーリンが尋ねる。この辺の治安は悪くないが、如何せん暗くて気味が悪い。大通りからほんの少し離れた路地に店を構えるこの界隈は、廃墟とも呼ぶべき寂寥せきりょうとした雰囲気を放出している。とにかく、こんな真夜中に女が一人出歩くには相応しくない場処なのだ。
「そんなに心配なら、あんたが送ってけば?」
「はぁ?」
「大丈夫だよ紫霖ツーリン。あのヒトはああ見えて、かなり強いから心配要らないよ」
 こともなげに言われても、俄かには信じがたかった。まだ少し疑いを残した瞳を、もう一度戸口へ向ける。硝子の向こうには、暗澹あんたんたる夜闇が広がっているばかりだった。
「で、今回のお仕事は何だって?」
 盆に碗と急須を載せ終えた彗星フォイシンが、麗紅リーホンに向き直って首を傾げた。
 少女は先刻まで蓮英リェンインがいた席を軽く睨みつけると、
「宴の後始末」
「「はぁ?」」 
 紫霖ツーリン彗星フォイシンの間の抜けた声が、骨董品が雑然と並ぶ店内に反響した。
「そんな声出されても、あたしにだって答えようがないね」
「ていうか、話が全然見えないんだけど……」
 頭に疑問符を浮かべながら、彗星フォイシンが困ったように眉を寄せる。仕方がないので、目の前にいる少年二人に、事件の説明を施してやった。
「ふぅん……なるほどね。でもどうするの?手がかりって、その軟盤ディスクしかないんでしょ?いくらなんでも、情報が少なすぎるんじゃない」
「ああ、問題はそこだ。けど仕方ないだろ、」
 蓮英リェンインが残していった軟盤ディスクを指先で弄びながら、麗紅リーホンはげんなりした表情で天井を仰いだ。もとはと言えば、麗紅リーホンが御曹司の不祥事を嗅ぎつけたが故に暴露された事件である。仮令たとえ手がかりが少なくとも、自分が言い出した宴の始末は自分でつけなければならない。そしてはじめて、この事件が彼女にとって有効なカードへと変貌するのだ。
「まァいいや。さし当たってはもう寝よう、夜も遅いし」
「けど……翡翠フェイツェイがまだ帰ってきてないよ?」
 話を打ち切るように立ち上がった麗紅リーホンに、彗星フォイシンが慌てて言い添えた。
 この家の住人の一人、そして彗星フォイシンの相棒とも言うべき翡翠フェイツェイが、巡回と称して家を出てからもう結構な時間が経っている。
「……ったくどいつもこいつも。いいよ、あいつは放っとこう。どーせ朝帰りだろ?心配するだけ無駄さ」
「あ……朝帰りしたことなんかっ…」
 突き放すような麗紅リーホンの言い草に、彗星フォイシンがむきになって反論する。
「夜明けの三時四時に帰ってくるんじゃ、似たようなもんだろ?ま、心配したいならしとけば?」
「………」
 気遣いの欠片もない一言に、彗星フォイシンはがっくりとうなだれた。
「じゃあ、おやすみ。二人とも、夜更かしは大概にしとけよ、」
「おやすみ、」
「――――おやすみなさい」
 機械的に頭を下げた彗星フォイシンと、眠そうにしている紫霖ツーリンに背を向けて、麗紅リーホンは自室へと引っ込んでしまった。