―――神様に祈るよりも先に 私を 愛して……。
昔、激しく恋を語った女がいた。その女の言葉は、時折こうやって私の意識の底に忍び込んでくる。もう随分と昔のことで、女の顔さえまともに思い出せないと言うのに、記憶とは不思議なものだ。
女は貴賓房間 一面に張り巡らされた、冷たい硝子窓に寄りかかった。
くぐもった水音が、バスルームから聞こえてくる。躰には、まだあの男の余韻が残っていた。そのことに嫌悪しなくなったのは何時だったか。答えを探るように女は虚ろな視線を外へ移した。
硝子越しに臨む、魔都 の夜景。黄浦江 を隔てた川沿いに連なる旧租界時代の石造建築群は、闇を切り裂く魔法の光の中で、あたかもおもちゃの街めいた幻想的な雰囲気を醸し出している。笑いさんざめくネオンの群れは、流れるように極彩色の色合いを変えて、網膜の上を横切ってゆく。
それは、其処に生きる人たちの胎動なのだ。どれだけ言葉を尽くしても足りぬほど素晴らしい、その全景 を前に、だが女は、不気味なほど無表情だった。
私は鳥なのだ。あの男に飼われ続ける籠の鳥。其処に、自由や希望なんて言葉は存在しなかった。あるのはどうしようもないくらい大きくなった虚無だけ。
女は首筋にかかった首飾り をきつく握り締めた。
男は、女が望まなくたって何でも買い与えてくれた。此処では手に入らないものなど何もないはずだった。けれども、日に日に増幅してゆくこの虚しさだけはどうしても埋めることが出来なかった。
何時の間に、自分はこんなところまで来てしまったんだろう。何時だって、窮屈なこの鳥籠に違和感を覚えていた。私が欲しかったのは、こんな世界じゃなかった。
逃げ出したい。出来るだろうか。閉じ込められたこの檻の中から。
不意に湧きあがって来た衝動は、押さえ込みがたいほどの圧力を持っていた。一気に速さを増した鼓動の音に急き立てられながら、女が露台 の窓を開け放す。突風が、洗い立ての黒い髪を躍らせた。冷たすぎる冬の夜気が、肌を突き刺してゆく。
何時も、籠の外から見える空に憧れていた。其処には私を縛り付けるものなど何もない。ただ、逃げ出す勇気がなかっただけなのだ。永く囚われすぎていた所為で、羽搏 くことを忘れていただけ。あの男が与えた愛情という名の枷は、自由を求めることさえ赦さなかった。
女は両手を広げて、全身で風を受け止めた。大きく息を吸い込んで、窓から身を乗り出す。次の瞬間、その華奢な体は星空へと投げ出された。
自由を求めて逃げ出した小鳥の躰が、虚空を舞う。
残された空っぽの部屋に、
緞子 だけが静かにはためいていた。