「な……何だ、これは?!」
 突如として淡い光に包まれた室内を、麗紅リーホンは呆然と見渡した。
 いや、よくよく見てみれば部屋中の床や壁に埋め込まれた電纜ケーブルが光を放ち始めているのだ。暗かったので気付かなかったのだろうか。古城に絡まる蔓草を思わせるそれは、のたうち、絡み合うように部屋全体を覆っている。突如として雪明りめいた光で部屋を照らし出した電纜ケーブルの群れは、さながら発光する毛細血管だった。やがて解読不明の言葉を囁く、男とも女ともつかぬ声がどこからともなく聞こえ始める。
「しまった。まさか封印が―――――!?」
 麗紅リーホンは最悪の事態を予測したが、それは杞憂に終わった。



「何事ですか!?」
 出し抜けに扉が開かれてハオが姿を見せた。部屋の有様を目の当たりにした彼は、扉を開いたまま絶句する。
「これは……」
 状況を理解できずにいたハオに、いきなりシュウが襲い掛かった。顔面めがけて、勢いよく羽根をばたつかせる。
「なッ……」
 虚を突かれたハオは、一歩、後ろへ退いた。その瞬間を狙って、麗紅リーホンが飛び出す。
 体ごとぶつかるようにして、強烈な肘鉄をハオの腹部にお見舞いした。
 ぐえっと、くぐもった声が耳元にちらつく。体を折り曲げた彼の、無防備な首筋に向かって、渾身の想いを込めた手刀を振りかざした。
 ハオ と違って、手加減などしない。半ば倒れこむようにして跪いた彼の顔面に、間髪入れずに留めの膝蹴りを叩き込む。容赦なく繰り出された少女の猛攻に、先前まで不吉な笑みを浮かべていたハオ は、無残にも扉の前で昏倒してしまった。



 その躰を飛び越えると、麗紅リーホンは開け放したままになっている奥の部屋―――主電脳室メインコンピュータールームへと駆け込んだ。懐中時計の時刻は、〇五四〇マルゴーヨンマルを指したまま沈黙している。
 程序プログラムを奪われた訳ではなかった――――そう安堵すると同時に、先程まで忘れていた緊張感がみなぎってくる。あの力を使う時に訪れる、喩えようも無い興奮。
 麗紅リーホンは素早く時計の電脳配線を組み替えると、設定画面の程序プログラム直接入力編碼コードを専用記憶装置への数据データ転送方式モードへと転換させた。急かすように打ち込んだ口令パスワードに、電脳が反応する。やがて監視器モニターの映像が緑色の文字の羅列を、奔走する濁流のように流し始めた。
 麗紅リーホンは震えかけた左手を、接続した時計よりも上方の位置に重ねた。裁きの神の前に立たされた罪人とがびとのような心地がする。電脳による遺伝子認証。X線が螺旋状の護照パスポートを隈なく走査スキャンする。系統安全告Fシステムオールグリーン。電脳が下した判決に続いて、麗紅リーホンの周りを取り囲んでいた計器が一斉にぶれ始め、掌に灼熱のエネルギィが溢れ出すのを感じた。
 電脳に封印された情報が、怒涛の勢いで押し寄せてきた。麗紅リーホンの手、正しくはそこから流れ出す電磁波の粒子が、【夢】の中から溶け出した膨大な数据データの熱と混ざり合い、せめぎあい、相克しあっている。麗紅リーホンは自分の手が、腕が、蝋のように溶け出していく錯覚を見た。その幻惑に押しつぶされないように、大きく息を吸い込んで、瞼を下ろす。
 電磁濫戯でんじらんぎは無心の技だ。此処ではない何処か、誰でもない自分のうちに広がる虚無を通して初めてまみえる無我の領域。不肖の自分は未だ辿り着けぬ境地であるが、【夢】は彼女の身の丈以上の能力を要求しなかった。麗紅リーホンは張り詰めていた意識を熱の籠った腕から解き放つ。体中をめぐる神経の糸が、螺旋状に渦巻く電子の波が、闇という名の虚空へと開放されていく。眼を閉じていても、虚空に広がる世界がどのようにかたどられているかを感じることが出来る気がした。神経の糸は闇の彼方まで広がり、静寂と混沌が生み出す泡沫の夢へと交信アクセスする。
 だが、その代償は大きかった。自分の中に内包され、蓄積された『気』が霧散し、【夢】の中で展開された数据データの変換と共に、【夢】の発動程序プログラムは時計の中へと収斂されていく。麗紅リーホンの体にめぐるエネルギィを、『気』を、貪欲に喰らいながら。薄れかけた意識までもが【夢】の餌となり、この体すら機械の中に取り込まれてしまったかのようだ。今立っている場所と、【夢】の中でめまぐるしく行き交う電脳空間との境界が、曖昧になる。
 やがて、その奇妙な時間にも終幕が訪れようとしていた。時計塔全体に及んでいた兵器の情報が、たった一つの懐中時計に集約される。その作業が終わりを迎えようとした時。




 麗紅リーホンの視界に、鮮やかな光景が飛び込んできた。
 忘れかけていた、幼き頃の夢。父も母も生きていた時代の、セピア色の記憶。
 さらに巻き返される、夏風を思わせる蒼灰色ブルーグレーの柔らかな眼差し。満開の紅い花。





 映画キネマのフィルムが映し出されるように脳裏を駆け巡った思い出の切れ端は、そうと気付く前に『鍵』の中へと閉じ込められた。一瞬過ぎった淡い追憶に困惑しながらも、麗紅リーホンは懐中時計を塔の網絡ネットワークから開放する。
 任務終了。
 再び大きく息を吸い込むと、軽い眩暈がした。真っ直ぐ立とうとしても、うまく体に力が入らない。浅い呼吸が間断なく続き、膝から下が喪失したような気がした。なすすべもないまま厭な浮遊感と共に床へと崩れかける。激しく疾走する鼓動の音が耳障りだ。少し『気』を消耗しすぎたのかもしれない。
 発散してしまった『気』のかわりに、少し重くなったような気がする頭を抱えていると、扉の方で人影の気配がした。
麗紅リーホン―――」
 何時になく不安げに名前を呼んだのは、閉じ込められた部屋に残してきた紫霖ツーリンだ。
 一瞬身構えた麗紅リーホンは、肩を落として軽く息をつく。
紫霖ツーリン……。ごめん、忘れてた」
 わざわざ正直に言わなくてもいいことを、この少女は平気で言ってのける。
 紫霖ツーリンはそのふてぶてしさに一瞬むかっときたが、すぐに忘れることにした。
 これでこそ、麗紅リーホンである。いちいち気にしていたら、始まらない。
「……。終わった?」
 まず、気になっていたことを口にした。麗紅リーホンが、軽く顎を引いて肯定の意味を示す。不快な浮遊感が、徐々に引き潮のように薄れていった。これなら大丈夫そうだ。
「そうか。それにしても、さっきのあれ、なんだったんだ?」
「―――それは此方がお聞きしたいですね」
 出し抜けに、麗紅リーホンとは違う声が割り込んできた。二人ははっと身を固くして、声のした方へと躰を向ける。
ハオ……喬石チャオスー、」
「今回は、妙な横槍が入ってしまいましたね」
 苦しそうに躰を折り曲げて、壁に身を預けている黒髪の男が其処に居た。不敵に笑いながらも、黒光りする双眸は忌々しそうな輝きを誇示している。その視線は、紫霖ツーリンへと据えられていた。
「彼は……何者なんですか?」
「―――――それは、此方がお聞きしたいですね」
 先刻のハオの台詞を、厭味をたっぷりまぶして言い返す麗紅リーホンの一言に、重たげな金属音が重なった。彼女の指先は、いつの間にか握られていた拳銃の引き金にかかっている。
「今あたしが貴様を生かしておいていることを幸運に思え。もうじき騎士団の応援が来る。逃げ場はもう何処にもないぞ。観念するんだな」
「それはありがたいことです。この半年で随分淑やかになられたことだ」
「―――黙れ」
「それとも、私がこうして生きていることは彼に・・感謝すべきですか?」
 二度目の警告は、言葉にならなかった。世界の終焉を告げるかのように轟いた銃声が、ハオの台詞の半分を吹き飛ばしたのだ。まるでその先を聞くのを拒むかのような銃声は、一瞬身を竦ませた紫霖ツーリンの耳に哀しく響いた。
「―――やれやれ。人の話を聞かないところは少しも変わっていないと見える」
 だが予想に反して、麗紅リーホンの弾丸がハオの饒舌を食い止めることはなかった。何者も寄せ付けぬ鋼鉄の意志を宿した厳しい横顔とは裏腹に、麗紅リーホンの手許は傍目にも分かるほど弱々しく震えていた。
「だから、貴女は甘いと言うんです」
 傍らの壁を穿った銃痕を一瞥すると、ハオは宥めるように囁きかけた。血が滲みそうなほど唇をかみ締めた麗紅リーホンに微笑を返すと、男は冷然と身を翻した。
「今日はこの辺で失礼します。さようなら、麗紅リーホン様。またいつかお会いしましょう、」
「おい……お前、」
「それではお二方、善い聖誕祭クリスマスを――――」
 紫霖ツーリンが追いかけようと手を伸ばした時には、既に男の影はこの空間から消えていた。まるで煙のように跡形もなく。呆気に取られた紫霖ツーリンの後ろで、
「――――――またはねェよ、クソ野郎」
 舌打ちをする麗紅リーホンの呟きが聞こえてきた。




「ところで……。あんた何者なわけ?」
 何の前触れもなく斬りつけるように、麗紅リーホンが尋ねた。先程の、あの現象のことを言っているのだろうか?だとしたら、自分は何も答えられない。むしろ、こっちが聞きたいくらいだ。
 戸惑いを隠せぬまま振り向くと、詰問するような険しい眼差しとぶつかった。返答いかんによっては紫霖ツーリンに掴みかかりかねないほどの威圧感を孕んだ麗紅リーホンの眼差し。それは先刻階段で、あの力を行使した時の雰囲気と酷似していた。
 その瞳の強さに答えられるだけの理由を、今の紫霖ツーリンは持ち合わせていない。だが眼を逸らせば彼女の意思のもとに服従してしまうような気がして、ただ黙ってその視線を受け止めていた。そんな脅しには応じないとでも言うように。できることなら此処に来る前に嘗めさせられた、屈辱という名の辛酸を再び味わうようなことはしたくない。
「まぁ、いっか」
「は……?」
 麗紅リーホンのあっけらかんとした言い草が、息苦しくなるほどの緊張感を一瞬にして崩壊させた。まるで意図の読めない彼女の振る舞いに、己の誇りを守らんとした少年が間の抜けた声をあげたのも無理からぬことかもしれない。
「ほら、いつまでぼやっとしてんだよ。早く戻るぞ。妹君が待ってるかもしれないだろ?」
 麗紅リーホンはくるりと踵を返して、紫霖ツーリンの傍らを横切っていった。
 時計の鎖を持った彼女は乱暴に―――と言うか罰当たりに、本体をぶんぶんと回しながら螺旋階段へと向かってゆく。手摺りや壁にぶつけたらどうするんだと心の中で毒づいた少年の声など知らぬまま、麗紅リーホンは悠々と階段を降り始めた。仕方なしに紫霖ツーリンも、そのあとを追う。
 ふと頬を撫でるように落ちかかってきたのは、頭上を飛び回るシュウの黒い羽根のひとひらか。聖夜を祝福する天からの白い粉雪か。前髪にひっかかった黒き使者の小さな羽根を指でつまむと、下から吹き抜けた風がそれを舞い上げて消えていった。