道は、既に閉ざされていた。
 熱を持っていた拳が、少し冷えてきている。扉を叩くのをやめてから、結構な時間が経っていた。そんなことをしても無駄だ、と言うことは、此処に放り込まれた瞬間から承知している。承知ついでに、懐に隠した予備の銃で把手を破壊しようと試みたが、それさえも無駄だった。木片で身を覆った特殊合金の扉は、銃弾と少女の願いを嘲笑うかのように弾き返しただけだった。
 けれどもどうしようもないこの衝動を、何かにぶつけなければ気が済まなかったのだ。
 この部屋は、階段のすぐ脇に位置していたらしい。隠し部屋だ、という結論に達したのは、つい先程のことだ。もっとも、気付いたところで何の役にも立たないのだが。
 麗紅リーホンは、きつく身を寄せた。貧乏な絵描きが棲みついていそうな屋根裏部屋の趣をした室内は、酷く寒かった。夜会用の旗袍チャイナドレスに身を包んだ麗紅リーホンにしてみれば、拷問に近い。だが、今の彼女にはそんなことはどうでもよかった。
 扉を閉めたときの、ハオの微笑が瞼に焼きついて離れない。
 あの笑みに………またあの男に出し抜かれてしまった。その事実が、麗紅リーホンを容赦なく叩きのめしていた。
 麗紅リーホンにとって、この任務は矜持と呼ぶに相応しいものだった。他の第9部の面々と違って、これといった戦力を持たない彼女が唯一遂行できる任務。むしろ、今回の任務は電磁濫戯でんじらんぎを所有する彼女にしか出来ないものなのだ。だからこそ、最後までやり遂げて見せたかった。この誇りにかけて。それなのに―――――。
 何時もそうだ……。最後に顔を合わせたときも、あいつは笑いながら、あたしから全てを奪っていった。
 どうしてあいつなんだろう。どうしてあたしはあいつから大切なものを奪われなくちゃならないんだろう。二年前も、半年前も、そして今夜も。
 麗紅リーホンはぎゅっと唇をかみしめた。口腔に、血の匂いがうっすらと広がる。こうしなければ、叫んでしまう。堪えきれない怒りと後悔を抱えながら、麗紅リーホンは顔を覆った。激しい感情が、体中に渦巻いている。
 駄目だ。我慢しなければ。今は冷静にならないといけない。その意思に反して、麗紅リーホンの爪は頬を引っかいていた。血の粒が小さく噴き出す。躰は感情に忠実だった。どうしようもない激情が、毒のように躰に染みこんでいる。
 叫びたい。今すぐ声の限りを尽くして奴を罵倒したい。頭をかきむしり、不甲斐ないこの身を切り裂きたい。いっそ狂ってしまえたらどれほど楽か。
 だが、彼女のプライドはそれを許さなかった。紙一重で保っている理性を励ましながら、肩の震えを宥めようとする―――
「――――どうして、こんなことになったんだろう」
 不意に聞こえてきた生気のない声は、麗紅リーホンの我慢を突き破るに十分な要素を備えていた。ぎりぎりのところで感情を塞き止めていた理性の防波堤が、音を立てて崩れてゆく。
「もとはと言えば、あんたの所為でしょうが!」
 それまで隅のほうで身を縮めていた紫霖ツーリンに向かって、麗紅リーホンは怒鳴った。
「勝手に付いて来るって言ったのは、あんたでしょう?今更そんな身勝手なこと言わないでよっ!」
 虫唾が走った。何も知らないで、ただのうのうと自分たちに付いて来ただけの少年に、そんなことを言われたくなかった。まるで自分が一番不幸みたいな、そんな声が張りつめた癇を逆撫でする。
「……あんたに怒鳴られる筋合い、ないんだけど」
「は?何ふざけたこと言ってんのよ?あなたみたいな足手まといが居なければ、こんなことにはならなかったわ」
「オレに当たるなよ」
 いきなりいきり始めた少女をさも面倒くさそうに見遣りながら、紫霖ツーリンが場違いなほど冷静に言い放つ。
「……あんたが油断してたのが悪いんじゃない?」
「よく言うわ。あたしたちに付いて来なければ、妹一人満足に助けられないような軟弱者が!」
 ヒステリックに麗紅リーホンが声を荒げる。その一言に、闇の奥で息を潜めていた少年の瞳が静かな怒りを纏って揺らいだように思えた。
「あんたらだって人のことは言えないだろう。松花ソンファを助けるって言っときながら、何もしないで自分の任務のことばかり気にして。それでも警察かよ!」
「ただ守られてるだけのくせに、偉そうに言わないで!」
「偉そうなのはどっちだよ。捕まって、時計まで奪われたくせに。つうか、あの男は一体何者なわけ?」
「あなたには言いたくないわ」
「すぐそれだ。言えよ。あれはオレの時計だ。オレには、知る権利がある」
「何寝言いってるの?あなたに権利なんかっ・・・・・・」
 せせら笑いとともにそう言いかけた麗紅リーホンは、はっと口を噤んだ。
 どうしてだろう。これ以上言うのは憚られた。
 紫霖ツーリンに真実を告げなかったのは、深入りしすぎて彼に危険が及ばないようにするためだ。先程力を使ったのだって、階級差から生じる権力の差を見せ付けるためではなかった。そんな事をしたら、自分が最も忌み嫌うこのシステムを、認めてしまうことになる。
 だが、実際はどうだ。たった今、彼に権利は無い≠ニ言いかけたではないか。
 紫霖ツーリンを守るため、なんて奇麗事は建前だったのかもしれない。不意に現れた弱者に、自分の優位を押し付けたかっただけなのかもしれない。
 ……危うく自分も、権力を振りかざす人種になりかけてしまったようだ。
「―――――ごめん。言い過ぎた」
 麗紅リーホンはきまり悪そうに顔を背け、素直に詫びた。
 久し振りに、大声で怒鳴り合ってしまった。素の自分を知られたことに、少しばかり羞恥しながらも、頭では次のことを考えている。



―――――紫霖ツーリンに、真実を告げるべきなのかもしれない。
 此処まで来ると言い張った上、勝手にこんな場処にまで足を踏み入れたのは紫霖ツーリンだが、そもそもこんな事件に巻き込まれる羽目になったのは彼の所為ではない。
 本来ならば、保護した時点でその業を断ち切るべきだったのだ。だが、自分はそうしなかった。彼をとことん巻き込んでしまったのだ。
 だから自分は、その決断に対する責任を取らなければならない。仮令たとえその所為で彼の安寧が奪われたとしても、こうなってしまった以上、隠しておくわけにはいかない。これ以上意地を張るのは、手品の種がばれてしまったのに、なおも仕掛けは無いと言い募る間抜けと同じだ。
「―――知りたいか、真相を。奴等の狙いを」
「……ああ。生憎、黙って状況を受け入れられるほど器用じゃないんで、」
「みたいだな」
 麗紅リーホンが自嘲気味に笑った。そして、軽く視線を泳がせる。何から話すべきか、迷っているようだった。
「―――【紅楼こうろうの夢】。言ってみれば、かなり昔に開発された、科学兵器のことだ」
「科学……兵器?」
 何故そんなものが―――。突拍子も無い話の流れに、紫霖ツーリンが首を傾げた。
「そう。それが、この塔の中に隠されているんだ。あたし達は、それを狙う奴等を阻止し、二度と発動しないように程序プログラムを書き換えなければいけなかった。
 懐中時計は、【紅楼こうろうの夢】を始動させる為の鍵でもあったんだ。そしてその数据データを読み込み、自在に操れるようにするための内存磁盤メモリーディスクの役割も兼ね備えていた。あれがあれば、今此処で兵器を使用することも出来るし、封印することも可能だ……。あたしがやろうとしていたのは、後者だけど」
 時計の謎は、一先ずほどくことが出来た。だが、まだ分からないことがある。
「―――あの男は、ソンの手先……なのか?」
「違うよ、」
 短く答えて、麗紅リーホンは両の手を強く握り締めた。再び昂ぶりそうになる感情を、何とか押さえ込む。
皓喬石ハオチャオスー。犯罪組織・烏龍幇ウーロンパン香主こうしゅさ」
烏龍幇ウーロンパン……だって?」
 紫霖ツーリンが息を飲んだ。魔都上海……いや、この国で生きる者ならば、誰もが耳にした事のある忌まわしきその名。帝國の犯罪連盟ユニオン【ゼロ=クライシス】と極東の黒社会勢力を二分する、大陸の悪魔。下層階級である少年でさえ、彼らの脅威は知りすぎるほど知っていた。
 まさか、彼らが関わっているなどとは思ってもみなかったのだろう。押し黙ったまま、次の言葉を探し出せないで居る様子が伝わってきた。それには気付かぬように、麗紅リーホンが続ける。
「ああ。奴等はどうしてかこの存在に気付いてしまった。
紅楼こうろうの夢】はそれ一つで、首都一帯が壊滅するほどの威力を持つ科学兵器だ。そんな物騒なもんが、奴等の手に渡ってみろ。取り返しがつかなくなる」
「―――まさか、あいつは今此処でそれを?」
「いや。あいつは破滅主義者だけど、其処まで愚かじゃないよ。たぶん、磁盤ディスク数据データを読み込ませようとしているんだ。数据データさえあれば、【紅楼こうろうの夢】の遠隔操作が可能になる―――。核爆弾のスイッチみたいなものと言えば、分かりやすいかな?
だが奴等は、それを切り札に政府を脅迫したり、騎士団が奴らの仕事に手を出せないように圧力をかけてくるかもしれない。そうなると、色々と厄介なことになる」
 出来の悪い生徒に言い聞かせるように、麗紅リーホンが説明を加えた。
 紫霖ツーリンは黙したままだった。当然だろう。こんな誇大妄想狂の譫言たわごとじみた話を聞かされて信じろというほうが無茶である。一介の孤児が抱えるには荷が重過ぎる秘密だ。
 だが、やっと彼の霧が晴れた。もやもやと燻っていた形の無い謎が、一気に氷解してゆく。
「さて、これで気が済んだかな?」
「ああ。――――――やっとすっきりしたよ」
 ……聞いて少しも後悔しなかったといえば、嘘になるが。
 麗紅リーホンは、軽く肩をすくめて微笑んだ。
「あんた、やたら聞いてくるから鬱陶しかったんだよな。でも、此処まで来てあんただけ何も知らないって言うのは、フェアじゃない気がして」
 麗紅リーホンはくるりと紫霖ツーリンに向き直った。本物の宝石よりも強い光を放つ琥珀の瞳が、闇を切り裂いて輝く。決意と気高さによって研磨された眼差しが、少年を静かに射抜いた。
「―――さて。真実を知ったからには、もう後戻りできないぞ。でも、この道を選んだのはあんた自身だ……それでもまだ、奴らとり合うつもり?」
 彼女の声は、今までにないほど固く、そして真剣だった。生半可な覚悟で向かっていったら、怪我をしそうなほどに。
「ああ、当然だ」
 だが、紫霖ツーリンの意思もまた堅固だった。少女の声となんら遜色のない強い響きが、部屋の空気を震わせる。
「―――あんたって、すっごい変わってるよな」
「何だよ、いきなり」
「こんな話聞かされても、全然動じない。根性坐ってるというか……」
 褒められているような気がしない。むしろ莫迦にされているような気分だ。
「あ、妹のためだっけ、」
 思い出したように付け加える麗紅リーホンに、些かむかっと来たが、顔には出さなかった。図星だから何も言えない。
「分かんないなぁ……。どうして身を呈してまで、他人のために戦えるんだ?あんたも―――彗星フォイシンや、海嶺ハイレイたちも、」
 最後のほうは、独り言のように闇に飲み込まれてしまった。
「じゃあ、何であんたは此処に居るんだ?」
 突然わけのわからないことを口走った彼女に向かって、首を傾げる。麗紅リーホンは、ほんの少し遠くを見るような仕種をした。その眼に、この闇も、ましてや自分など映っていない。月影に浮かんだ彼女の幽かな横顔は、ぎくりとするほど侘しげだった。
「――――くだらない感傷さ。ただ、こうしなければ救われないんだよ。わたしも、あいつも、」
「………?」
 想いもよらなかったその答え―――いや、それは殆ど独語めいたか細い囁きだった。答えと呼ぶにはあまりにも儚げに震えるその声に、紫霖ツーリンは一瞬耳を疑った。
 さらに謎めいてしまった彼女の意思を図ろうと口を開きかける。だが、部屋唯一の小さな窓を叩く乾いた音によってそれが中断された。
 二人の視線が、はっと窓に注がれる。
「オイ!開ケロヨ、麗紅リーホン
 申し訳程度の大きさの硝子窓に、黒い影がばさりと拡がる。特徴のある、この高い声音は……
「其処ニ居ルノハ知ッテンダヨ。ドーセ長髪野郎に閉ジコメラレタンダロ?」
「っさいなぁ、カラスの分際で……。何の用だよ、シュウ」
 密かにぼやきつつも、驚きは隠せない。半ば困惑したまま、麗紅リーホンは窓を開け、この黒き使者を導いた。
「ソーユー口ヲ利くカ、オマエハ。折角助ケニキテヤッタノニ」
 シュウはぞんざいに言って、首を忙しく上下に振った。その言い草に、麗紅リーホンは顔を引き攣らせながら、
「ほほう……?助けに来たとは頼もしいことだ。で、どーすんだよ?そのしょぼい嘴で此処の鍵を抉じ開けようっての?ったく、最近のカラスは小賢しいねぇ」
「フン。アンナ優男ニ時計ヲ奪ワレタダメ店長ニワレタクナイネ」
「お前はカラスじゃんか。誰が餌やってると思ってんだよ、カラス」
「カラスッテ言ウナ!チャント名前デ呼ベヨ!」
「ああ、それは悪うございました、カラス君」
「―――それより、何か話すことがあったんじゃないのか、シュウ?」
 麗紅リーホンとシュウの子供じみた言い争いに終わりをもたらしたのは、紫霖ツーリンの呆れ声だった。
「ソウダッタ」
 名前をちゃんと呼ばれたシュウは、麗紅リーホンを羽根でうるさそうに追いやると、機嫌のいい―――とは言ってもあまり変わらない―――声で、此処に来た目的を告げた。
瑞杏ルイシンタチ、チャントソンヲ取リオサエタゾ。ソレカラ、ココニ幇会パンかいノ連中ガ来テイルラシイカラ、気ヲツケロ」
「遅いっての!」
「何を今更」
 麗紅リーホン紫霖ツーリンの突っ込みが、狭い部屋に木霊した。二倍に拡張された糾弾を受けたシュウは、ばつが悪そうに首を明後日の方向へと向ける。
「アー……ソレモソウダナ。―――デモ、瑞杏ルイシンタチモコッチニ向カッテイルカラ、モウジキ此処カラ出ラレルト思ウゼ、」
「それは結構。けどその前に、ハオが【紅楼こうろうの夢】を奪い終えているだろうな、」
 皮肉っぽく麗紅リーホンが呟いた。
 嘲笑ともつかないその響きには、自分への怒りが込められているような気がした。大切なものを守れなかった自分への。麗紅リーホンの瞳が、再び悲痛な色を帯び始める。
「もう、足掻いてもどうにもならないね。完全にあたしの負けだ」
 殆ど敗北を感じさせない声だった。彼女の内にある後悔や自責の念が、感情を遮断しているようである。だが、強く握り締めた拳が震え始めたとき、その言葉にどれだけの想いが込められていたのか痛いほど伝わってきた。
 沈鬱とした静寂が、重々しく垂れ込めた。シュウでさえ、何も言おうとはしない。
 なんと返していいものか分からなくなった紫霖ツーリンは、悔しげに唇をかみしめる彼女から眼を逸らした。あれほど強気だった麗紅リーホンが打ちひしがれているのは、悪い夢でも見ているみたいで居心地が悪かった。
 暫らく視線を泳がせていた時、不意にまたあの耳鳴りが鼓膜を貫いた。
 いや、耳鳴りと呼ぶにはあまりに刺激が強すぎたかもしれない。そのまま頭蓋骨を突き破ってしまいそうな鋭い痛みを伴ったそれが、きいんと張り詰めた音を弾き出す。
「うっ……」
 思わず両耳を塞ぐ。凭れ掛かるようにして紫霖ツーリンの躰が壁に触れたその瞬間。






 暗闇が、一斉に発光し始めた。