協奏曲のように重なり合った銃声が、倉庫に響き渡った。気前よくばら撒かれた無数の弾丸が、無防備な翡翠フェイツェイ彗星フォイシンの元へと駆けてゆく。
 だが、それらの死の雨が向かった先に、二人の姿はなかった。
「彗星!!形勢二十三だ!」
「了解っ!」
 咄嗟に銃撃を回避した翡翠フェイツェイが命令を下す。双児の死角へと逃げ込んだ彗星フォイシンが、簡潔な答えを渡した。
 チュワン機関銃マシンガンがある以上、二人一緒に行動するのは自殺行為だ。戦力を分散させてしまえば、あの豪胆な気質のチュワンだって無闇に攻撃を仕掛けたりしないに違いない。
 翡翠フェイツェイは身を隠している箱の山から、顔と拳銃だけを覗かせた。躰を低く構えたまま、二度三度と引き金を引く。だが、弾丸は獲物に当たることなく床の上で弾き飛んだ。
「あっ、くそ」
 翡翠フェイツェイの戦闘能力は決して低いものではないが、射撃の能力はあまり褒められたものではなかった。海嶺ハイレイが挑むならいざ知らず、自分があの双児に銃で応戦しようというのはあまりに分が悪い。
 一方、標的の居場所を確認したチュワン機関銃マシンガンが再び火を噴いた。翡翠フェイツェイの攻撃に何十倍もの利子をつけた弾丸が、容赦なく降り注いでくる。翡翠フェイツェイは慌てて顔を引っ込め、勢いをつけて鉄柱の影に転がり込んだ。肩を銃弾が掠めたと認識した時には、先刻までいた木箱の盾は原形を留めぬほどに破砕されている。
「くそッ・・・・・・。滅茶苦茶撃ってきやがる」
チュワンのおよそ法則性がない攻撃に閉口しつつも、まったく手が出せないでいた。そうしている間にも、チュワン機関銃マシンガンは荒々しい咆哮をあげて此方に迫りつつある。苛立たしげに唇を噛みしめていた時、唐突に悪しき銃声がやんだ。
 弾切れか?慎重に物陰から顔を突き出す。敵に向かって視線を滑らせていた時。
 人影が、一つ足りないことに気付いた。
 ほんの数秒目を離した隙に、二つ並んでいたはずの光景が変化している―――
「何処を見ているんです?」
 カチャリ、という不気味な音を携えた冷ややかな声が、鼓膜を震わせた。
 振り向き様に銃を構えたが、時既に遅し。双児の片割れ・チェンの、何の憐憫もなくトリガーを引く音が、この世で聞く最後の音になろうとしていた。
「―――――翡翠フェイツェイ!」
 冷徹な銃声が、翡翠フェイツェイの生涯に終わりを告げたと思った矢先。馴染みのあるあどけない少年の声が、彼の名前を呼んだ。
彗星フォイシン!」
 翡翠フェイツェイの眼に映ったのは、手錠じみた腕輪に繋げた鎖を梁に巻きつけてぶら下がる、彗星フォイシンの姿だった。その鎖でチェンの銃口を弾いた少年は、天使よろしく彼女の前に舞い降りると、
「この人は僕に任せて!」
「あいよっ」
 答えるより先に、翡翠フェイツェイはその場を後にした。
 それを待っていたとばかりに、チュワンの攻撃が翡翠フェイツェイめがけて飛んでくる。殆ど転がり込むようにして、翡翠フェイツェイチェンたちから離れた箱の陰に身を滑り込ませた。弾丸が一つも当たらずに済んだのは、奇跡としか言いようがない。
「ちっ……。このままじゃ埒があかねぇ」
 ぼやきながら、素早く別の薬莢を押し込んだ。
「頼むぜ………!」
 半ば祈るように、翡翠フェイツェイチュワンの頭上めがけて発砲した。
「おいおい、何の真似だよ?」
 弾丸は頭上の虚空を撃ちぬき、闇へと吸い込まれていく。まるで出鱈目なその軌跡にチュワンがせせら笑った時。突如響いた耳を聾するほどの爆音が、彼の顔から笑みが奪い取った。
 どんッ・・・・・・
 腹の底に響く、砲弾めいた音が倉庫中に木霊する。
「莫迦な!!」
 チェンが目を見開いた。辛気臭い薄闇を纏った倉庫の中で、鮮やかな紅蓮の火花が狂い咲く。予想だにしなかった火の粉の襲撃に見舞われたチュワンは、一時だけ標的から目を離した。十分過ぎる隙だ。
「ちょっと翡翠フェイツェイ!やりすぎだよ!」
 悲鳴交じりの彗星フォイシンの声を背中に受けながら、翡翠フェイツェイは無造作に積み上げられた箱の上を駆けてゆく。銃を持った相手に丸腰で突っ込んでゆくなど愚の骨頂だが、このときばかりは違った。
 奇術めいた鮮やかさでチュワンの間合いに飛び込むと同時に、いつの間にか手にしていた翡翠フェイツェイの木刀が拳銃屋の顎を捉えた。がきっ、と鳴った鈍い音がチュワンの脳天を貫く。
 仰け反った瞬間、機関銃を握った絹の手に強烈な痛みが走った。反射的に、引き金に手をかける。こうなったら木っ端微塵にこいつを吹き飛ばしてやる―――――。
 だが、チュワンの指は虚しく宙を掻いただけだった。手にしていた黒い凶器は、翡翠フェイツェイの一撃でばらばらに破壊された後だったのだ。
「ってめぇ……」
 痛む手を抑えて、忌々しげに翡翠フェイツェイを睨む。それが最後の抵抗だった。
「ぐぇえっ」
 突きつけられていた木刀が一閃した。手首のスナップを利かせて振り下ろされたそれが、絹の肋骨を叩き割る。口許から赤い飛沫を撒き散らして、双児の片割れは力尽きた。
「じゃあな、拳銃使い」
 ひらりと左手を振って、火薬を詰め込んだ箱の上へ飛び移る。そのままチュワンから離れようと身を翻した刹那――― 
「………ッ?!」
 不安定に積み上げられていた箱を踏み違えた。バランスを失くした翡翠フェイツェイの躰が、ほんの僅かだけ宙に浮く。
 慌てて体勢を立て直そうとするも、均衡を崩しかけた箱の上では立っていることすらままならない。咄嗟に躰を捻って飛び降りようとした時、小柄な白い人影が彼の前に降り立った。


「ここまでです」

 ひんやりとした質量を感じさせたのは、赤い瞳をした少女の声だったのか。それともこの身を穿つ鉛の塊だったのか―――。

 取りとめもない思考にかられた翡翠フェイツェイの躰が、後ろ向きに傾いだ。その直前に聞こえたのは、まごうことなき銃の轟き。
 撃たれた。そう確信するより先に、翡翠フェイツェイの躰は崩壊してしまった箱の上に投げ出されていた。脇腹と肩、それから左胸に、ずしんとした重量が加わる。
翡翠フェイツェイ!」
 自分の名を呼ぶ少年の声がやけに遠くに聞こえた。

「ちょっと!しっかりしなよ!」
 大声で怒鳴ってみるも、横たわる相棒は弱々しく息を吐くだけで何も言ってはくれない。
「なんでッ……嘘だ…そんな…翡翠フェイツェイっ!眼ぇ開けてよ!」
 少年は、同志の肩を強く揺さぶった。信じられない。こんな……こんな唐突に終わりが来るなんて。
 苦しげに眉を寄せた目蓋は、軽く閉じられていた。もう二度と、この黒い瞳が自分を映すことはないのだろうか――――
「………っあ…」
 掌を汚した赤黒い染みが、全てを証明していた。


 何カガ壊レテイク。
 コノ心ヲ繫ギトメテイタ、足枷ガ。


「さて、次は貴方ですよ。【黒閃牙こくせんが】」
 背後で、チェンが銃を構える気配がした。もはや勝利を確信しているらしい、余裕たっぷりに昔の仇名を呼ぶ声が、耳障りに響く。
「まさか、こんな日が来るなんて思っていませんでした。貴方ほどの人を手にかけられるなんて―――――」
 嬉しくてしょうがない様子がありありと伺える。今日はじめて動いた彼女の表情は、歓喜に満ちていた。
「さようなら」
 簡素な別れの言葉と、獰猛な銃声が重なる。
 だが、チェンの感覚がとらえたのは、頭を吹き飛ばされた彗星フォイシンの姿ではなく、右手に走った焼け付くような痛みだった。
「なッ……」
 何時の間にか、握っていたはずの拳銃があらぬ方向へと飛んでゆくのが見えた。今しがた目の前に立っていた少年の姿は何処にもない。
 不可解な状況に舌打ちして、チェンは腰に下げた別の拳銃を抜き放ちながら軽やかにその場から飛び退いた。注意深く、獲物の姿を捉えようと身構えた時……。
「―――――誰が、誰をしとめるだって?」
 暗黒と残虐さをそのまま写し取ったかのような少年の声が、チェンの耳朶を叩いた。
 その邪悪な響きに背筋を凍らせながらも、チェンは至極冷静に少年の気配を追う。研ぎ澄ました神経がその気配の糸に触れた刹那、彼女は弾かれたように地面を蹴り上げた。闇に映える白髪が虚空に翻った瞬間、澄んだ金属音が倉庫に響きわたる。ほんの数秒前までいた場処には、峨嵋刺がびしと呼ばれる暗器の鋭利な切っ先が、深々と突き刺さっていた。
 その鈍い輝きを一瞥するや、傍らの木箱を足場に再び跳躍。宙に身を躍らせたチェンが体勢を立て直した時には、その紅い瞳が少年の姿を捉えている。続けざまに放った弾丸が彗星フォイシンを的確に狙い撃つのと、鎌風じみた白刃が牙を剥いて肉薄してくるのがほぼ同時だった。
 少年の繰り出した白刃の残像が虚空を切り裂き、チェンの頬に、腕に、鮮烈な傷跡を残して過ぎ去っていく。間髪入れずに、狙い澄ました弾丸が少年の肩の上で弾け、鮮血の花びらが舞い散った。
 だが連続で撃ち込んだ銃弾の咆哮に確かな手ごたえを感じた直後、チェンは鋭い白刃が目の前で鞭のように閃いたのを感知した。咄嗟に身を翻したものの、その鉤爪は彼女の二の腕を容赦なく捉え、鮮やかな爪痕を刻み付けていく。
 僅かに飛び散った血の雫が、彼女の恐ろしく白い肌を汚した。そして再び地面に転がり込んだ時には、彗星フォイシンの姿は幻のように消え失せてしまっている。
「やっとお目覚めになりましたか、【黒閃牙こくせんが】?」
「………」
 双児の片割れは凄惨とも無垢ともつかぬ笑みを口元にのせると、ゆっくり立ち上がった。肉体の痛みなど、感じないとでもいうような微笑だった。
「まぁ。それくらいじゃないとやりがいはありませんね」
 言うが早いか、チェンは姿が見えない敵に向かって、床に落ちていたチュワン機関銃マシンガンを握り締め連射を開始した。すさまじい音を立てて、天井の漆喰がばらばらと落ちる。その一隅を駆けてゆく、小柄な影を彼女は見逃さなかった。
――――あれだっ。
 赤い瞳が、光線のように人影を見据えた。機械のような正確さで、弾丸が彼に向かって放たれる。
「どこみてるの?」
 耳元で、夢見るような少年の声が聞こえた。
「……っ」
 何時の間にこんなところまで来ていたのだろうか。ほんの数秒前までは、あの梁の上を走っていたではないか―――――
 体中が警告音を鳴らしている。こいつに近付くな、と。
 その本能に従うべく、チェンは何とか間合いを離そうと銃を構えた。しかし、少年の手元で一閃した鎖が、彼女の全身を縛るほうが速かった。
「ぐあっ……」
 両の手首から伸びる鎖が、唸りを上げてチェンを壁に叩きつけた。躰中を、息が詰まるほどの圧迫感が襲う。だが、それだけではすまなかった。
一旦拘束が解かれたと思った時、新たなる閃光が虚空に翻った。咄嗟に避けようと身を捻った瞬間、右の肩にするどい痛みが食い込んできた。
「ぎゃあっ……」
 化け物じみた悲鳴が、チェンの喉からほとばしった。少しばかり錆付いた、いかりを思わせる鎌が肩に喰らいついている。 そのあぎとから逃れようと身を捩ったが、ぎちぎちと軋むような痛みを増幅させただけだった。
「どうしたの?僕を仕留めるんじゃなかったの?」
 無邪気と言っても過言ではないほどの声音で、彗星フォイシンが嘯く。更に鎖を引っ張って、鎌で肩を抉った。殆ど声にならない掠れた叫びが、チェンの咽喉からしたたり落ちる。
「錆びた刃物はさぞかし痛いでしょう?」
 湿っぽく呟くも、その顔には楽しげなものさえ浮かんでいた。いや、恍惚と言ったほうが正しいかもしれない。人が痛みにのたうち、血を流す様を至上の楽しみとして愛する、狂気に満ちた微笑み。そこに、あの未成熟な少年の面影は何処にもない。
「でも、これくらいじゃあ赦さないよ。貴女には、もっと苦しんでもらわなくちゃ」
 新しい玩具でも見つけた子供のような口調で、世にも恐ろしい宣告を下す。
 そう。彼が味わった苦痛はこんなものではなかったはずだ。人としての温情を欠いた少年の脳裏に、翡翠フェイツェイの笑い顔が過ぎった。
 なんとしてでも守りたかった。僕が僕を見失わないための、唯一の拠り所を。
 彗星フォイシンの口許が僅かに綻んだ。彼を失ってしまったからには、もう守るものなんて何もない。見喪った心は取り戻せない。だから。
 この女に、有り余るほどの苦しみを与えなければ。
「やめ……て。おね…が……」
 だが、その懇願を聞き終えないうちに、彗星フォイシンチェンの頭を踏みつけて黙らせた。痛みとは別の屈辱が、彼女を苛む。
「まだそんなこと言ってるの?言ったはずだよ、赦さないって、」
 そう言って、彗星フォイシンは鎌をチェンの肩からゆっくりと引き抜いた。
「うがぁあっ……」
 肉ごと引きちぎられるような痛みが、全身に走った。錆びた鎌の所為だ。この悪夢を、一体どれだけ耐えろというのか。
「―――――もっと楽しませてよ、」
 再び振りかぶられた鎖に身を固くした。息も絶え絶えのまま、双子の片割れが強く目蓋を閉じた瞬間……。

 少年の背中を、大きな人影か包んだ。


「もう止めろ、彗星フォイシン
 父親が息子に言い聞かせるように、彼は言った。
 聞き慣れた、あの声で。
「――――翡翠フェイツェイ?」
 こわごわと、後ろへ首を回す。肩に緩く巻きついていた腕が解かれた。ありふれた、けれども誰よりも暖かい黒い瞳に、少年が映る。
「何で……どうして…生きて……」
「おいおい、勝手に殺すなっての、」
 そう言って、彗星フォイシンの頭をぴしりとはたく。この状況でおよそ不釣合いなこの反応は、紛れもなく彼のものだった。
「だって…さっき、あんなに撃たれてたのにっ……」
「お前の暴走を止めるために、生き返ったんだよ」
 そう言って、気絶しかけているチェンを顎でしゃくった。あのまま放っておけば、彼女が死ぬまでいたぶり続けていたに違いない。
「嘘だ」
「あっ、ひでぇ。まぁ、種を明かすとだな、防弾チョッキ。此処の警備員の制服についてたんだよ。何故かこーゆーことには抜かりがないみてぇだな。肩とか足とかはやられちまったけど、後で治療すれば何とかなんだろ。まぁ、弱いやつほど小細工するって昔から……」
 ろくでもない薀蓄を披露していた翡翠フェイツェイは、ふと口を噤んだ。口唇をわななかせ、涙をためた少年がじっと此方を見上げている。
「っておい。泣いてんじゃねぇよ!!」
「なッ……泣いてないよ。見間違いじゃない?」
 ついっと視線をそらして、あまり効果のない強がりを口にする。やがて頭上から、呆れたような溜息が降ってきた。
「……わりぃな。死んだ振りしてて」
 ぽんぽん、と頭を優しく撫でられる。包み込むように。堪えきれなくなった彗星フォイシンは、思いっきり相棒の腕にしがみついた。
 伝わる。確かな体温。それは、彼が生きていることを示していた。偽りでも、ましてや夢でもなく。この鼓動を頼れる限り、自分は自分を見失わずに、生きてゆける。
「心配させないでよ……莫迦。無事で……良かった」
 重みに耐え切れなくなった涙のひとしずくが、少年の頬を伝い落ちた。