双子の拳銃使いガンスリンガーツインズから逃れた麗紅リーホン紫霖ツーリンは、長い螺旋階段を上っていた。
 地下倉庫の天井を突き破るようにして、上に伸びてゆく階段。見上げると、結構な高さがあった。五分の二ほどまで上った頃になると、下からの銃声が殆ど聞こえなくなる。
 どうやらこれは、ソンの屋敷にあった時計塔の内部らしい。螺旋階段をぐるりと取り囲むようにして、大小さまざまな歯車がくるくると回転し、鉄の鎖が軋みをあげてそれを支えている。滑車と歯車が擦れあう独特の音に包まれていると、時計の内部に迷い込んでしまったかのような錯覚を覚えた。
 いやそれだけならば何の不思議もない。問題なのはこの時計がどうやら機械仕掛けではなく、電脳制御された数字模式デジタルモードで作動しているらしいと言うことだった。その証拠に、歯車の隙間から覗く壁には監視器モニターが張り巡らされ、刻一刻と目まぐるしく変わる数字の羅列を浮かべており、見たこともない計器やら制御卓コンソールがその隙間を埋めるように幾つも配置されている。
 屋敷の外から仰ぎ見た時計塔は、古き良き租界時代の面影を偲ばせるに十分な趣と格式を醸し出していたし、建物自体も相当古いものであることが窺えた。故にその心臓がこのように緻密な、最先端の電子技術を取り入れた構造になっているのに違和感を感じるのだ。これでは老いさらばえた仙人が、生命いのちだけを若人わこうどから奪い取ったようなものだ。あるいは老朽化を食い止めるためにこんな措置をしたのだろうか。では、何のために?
 とりとめもない疑惑に紫霖ツーリンが頭を抱えた。なんだかこの中に入り込んでから、耳鳴りが酷くなったような気がする。鼓膜をじりじりと焼き付けるような、不快なざわめき。
 一方、麗紅リーホンの方はまったく口を開かずに階段を上っていた。その横顔は心なしか、厳しく硬直している。
「なぁ、」
 時計の機械音に埋め尽くされていた沈黙を、紫霖ツーリンが破った。
「……【紅楼こうろうの夢】って、何?」
 先程から気になっていたことを、何気なく訊ねてみた。前を歩く麗紅リーホンが、僅かに息を飲む気配が伝わってくる。
「―――何だよ、いきなり」
「別に。先刻あの女が言ってたからさ。【紅楼の夢】は渡さないって……」
「何、ずっと気にしてたわけ?随分余裕だね、」
 棘を含んだ声。あきらかに苛立っている。紫霖ツーリンは胡乱げに顔を顰めると、
「気にもなるさ。大体、武器やら火薬やらはもうあの倉庫で見つかったじゃないか。どうして塔を上ってるんだよ、オレたち」
「だったらもう一度、あそこに戻るか?今なら楽しい銃弾パーティに参加できるけど、」
「そうじゃなくて。どうせ逃げるんなら、こっちに逃げ込む必要はないだろう。入ってきた方に、逃げ込んでもよかったわけだし、」
「……」
「不可解なんだよ、あんたたちの行動。それに先刻の殺し屋だって、何も武器を守るためにあんなとこに居なくたっていいじゃないか。番犬じゃあるまいし。それに、あの時計が今回の事件にどう関わってるのかも分からな……」
「黙れ」
 突然、麗紅リーホンが振り返って紫霖ツーリンの手首を掴んだ。危うく均衡を崩しかけた紫霖ツーリン、何とか踏みとどまると、そのまま階段の手摺に押さえつけられた。
「ごちゃごちゃうるさいんだよ。余計なことまで考えるな。あんたは、妹を助けることだけ考えてりゃいい。わかったか、」
 怒りに任せた麗紅の手が、少年の手首を捻じ切るように拘束する。一点にしか力が掛けられていないにもかかわらず、躰が動かない。抗えないのではない。全身がじんと痺れて、一切の感覚が遠ざかっていくような感じだ。
 ああ、これが支配されているということなのか。紫霖ツーリンは頭の隅でぼんやりと思った。
 麗紅リーホンはその特殊な磁力をもって、少年の神経を征服しているのだ。言い知れぬ磁気の波が、躰全体を駆け巡っているのを感じる。彼の躰が記憶している情報は、それを拒むことなど出来はしない。むしろ甘美とさえ感じる、麗紅リーホンの心音。
「――――ああ、わかったよ。あんたらは、何でもひた隠しにするんだな。他人に知られちゃ、まずいって訳か」
 観念したように麗紅リーホンを見上げ、溜息とともにそう答えた。その視線まなざしに、瞭かな侮蔑と嫌悪を滲ませながら
「そう。自分の関係のないことに興味を示すな。下手に手を出して、命を落としたりしたら元も子もないだろう?」
 勝ち誇ったように言い捨て、麗紅リーホンは手を離した。紫霖ツーリンの全身を縛っていた彼女の圧力が、嘘のように晴れる。無性に悔しかった。階級というしがらみによって、自分の意思をねじ伏せられたことに、少年の自尊心が深く傷ついた。
 先程よりもさらに重い沈黙が、二人の間にわだかまる。紫霖ツーリンは、もう何も言う気になれなかった。こんな少女に言いくるめられるのは、耐えられない。いっそのこと階段を駆け下りてしまいたかった。だが此処から逃げ出したとしても、階下ではあの双児が牙を剥いて襲い掛かってくるだろう。己の身勝手さが招いた結果とは言え、結局自分は、この少女に付いていくしか道はないのだ。どうしようもない苛立ちを抑えながら、黙々と階段を上り続ける。やがて、最上段が見えてきた。
 最後の一段を上り終えると、踊り場くらいのスペースが二人を迎え入れた。向かい側に扉がある。何の変哲もない扉の中央には、丸くくりぬいた隙間があった。
  麗紅リーホンがおもむろに、夜会服の袖に隠していた懐中時計を取り出す。そしてつがいの鳳凰が舞う時計の蓋を開けると、無言でその隙間に時計を差し入れた。かちり、と微かな音がすると共に、時計の秒針が痙攣でも起こしたかのような動きを見せたかと思うと―――突如時刻を示す長針が逆向きに回り始め、やがて五時四十分を指して、止まった。
 ぎぃっ………と、耳障りな軋音がして、扉の錠が外される。麗紅リーホンは自分の部屋に入るときのような何気なさで、扉の把手に手をかけた。
「鍵……だったのか、」
 開かれた扉の向こうでは、さして広くもない小部屋が彼等を待っていた。先日忍び込んだ麗紅リーホンの自室より一回り狭いほどの広さしかない。だが其の部屋は時計塔の内部同様、無数の計器や液晶監視器モニターに覆い尽くされていた。壁と言う壁、天井から床に至るまで、一片の隙間も残さずに。空間站宇宙ステーション管制塔コントロールタワーを髣髴させるその光景に、少年はしばし言葉を失った。
「そう言うこと。あんたは其処で待ってて。すぐに済むから。」
 有無を言わせぬ教師の口調で命じると、麗紅リーホンは部屋の中に入っていく。置いてきぼりを食らわされた紫霖ツーリンは、所在なさげに入り口に立ち尽くしていた。横柄な彼女の対応は、紫霖ツーリンのもっとも嫌う類のものだ。
 不貞腐れたまま、腕を組んで壁に寄りかかる。耳鳴りの他にも、軽い頭痛が断続的に押し寄せて来ていた。思うようにいかない苛立ちを一掃しようと深く息を吐くが、気休めにもならない。
 自分は何しにここまで来たのだろう。我が儘にも等しい理由で強引に麗紅リーホンたちに付いて来たのはいいが、結局何の収穫も得られなかった。松花ソンファのことも、時計のことも、うやむやなまま終わろうとしている。裏切られた気分だ。やはり正義を謳う騎士団とはいえ、所詮は自分たちの利害にしか力を注がないのか……。
 飽くなき思考の迷路に迷い込んだ時、紫霖ツーリンの傍らで闇が動いた。
 



「うわあっ!」
 聞きなれた少年の声がして、麗紅リーホンは弾かれたように振り向いた。たった今専用の有線に接続したばかりの時計に眼を遣り、そして何処か躊躇ためらうように扉を見つめたが―――彼女はそれ以上迷わなかった。ただならぬ異変を感じ取った麗紅リーホンは、勢いよく部屋を飛び出す。
紫霖ツーリンッ!」
 部屋の入り口に少年の姿はなかった。目を見開いて辺りを見渡した麗紅リーホンの視界を、突如表れた黒い影が遮る。一瞬反応が遅れた少女の鳩尾に、強い衝撃が捻じ込まれた。
「……か…はっ…」
 躰をくの字に折り、くずおれかける。軽い嘔吐感に見舞われた少女の躰を、強い力が引きずった。まさかと言う疑念が脳裏を掠めた時には、先程とは違う部屋へ、遊び飽きた玩具を投げるように放り込まれていた。
麗紅リーホン!」 
 先に押し込まれた紫霖ツーリンが少女の傍に駆け寄った。眼を落とした暗い床に、入り口からの光が差し込んでいる。その眩い光を背景にくっきりと浮かび上がったのは、一つの人影だ。
「お久し振りです、麗紅リーホン様」
 死神を思わせる、禍々しいほどの黒い影。倒れ臥したままの麗紅リーホンは、首だけを影に向けた。
「やはり貴様か……ハオ喬石チャオスー……」
 汚いものでも吐き出すような麗紅の口調に、人影が揺らぐ。逆光の所為で顔立ちはよく分からなかったが、幽かに笑った気配がした。
「大丈夫、手加減はしましたよ。あなたには、まだ生きていてもらわないと、」
 では、のちほど…。そう言い残して、人影は扉を閉めようとした。その刹那、顔がちらりと光に照らしだされる。肩よりも長い黒髪を後ろで一つに束ねたその男は、冷徹な微笑を浮かべていた。
「おい、待てよっ……」
 呼び止めた紫霖ツーリンの鼻先で、扉が閉まる。続いて、外鍵が閉まる無情の音が部屋に響いた。頭が混乱する。一体何が起きたのかわからない。
「おいっ!開けろよ、てめぇ!」
 狂ったように扉を叩きまくる。あの人影は……影としか形容しようのない男は、一体何者なんだ?何故自分達を閉じ込める?そうだ、時計はどうなった?疑問符が次々と浮かんでは消えてゆく。その答えを与えてくれる者は、居ない。目まぐるしい出来事に、気がおかしくなりそうだ。
「……ちっくしょう、」
 真っ白になりかけた脳内を現実に引き戻したのは、何時の間にか隣に来ていた麗紅リーホンの憎々しげな呟きだった。強い怒りを纏った少女は、それが仇でもあるかのように、あらん限りの力を込めて扉を蹴り飛ばす。
「……んで…何でまたあんたなんだよ。ふざけんじゃねぇぞ、くそッ」
 がん、がんと続けざまに扉を蹴りつける。やがてそれが勢いを失った時、麗紅リーホンの喉から嗚咽にも似た呟きが零れ落ちた。