短く甲高い悲鳴にも似た鍔競りの音が、朽ちた廃廟に谺する。直後、天から注ぐ青き陽射しを受けた頼豪ライハォの刀が、束の間光と化し、麗紅リーホンの持つ剣へと襲い掛かっていった。
 間断なく繰り返される刺突の嵐と、剣戟の刃。薄闇に瞬く白刃の軌跡が宙を裂き、目の前の少女のもとへ飛び込んでゆく。受ける少女は羽根の如く鉄剣を翻し、軽やかな足捌きでこれらを弾き返した。
 危うげないその構えに、しかし頼豪ライハォは物足りなさを味わう。先刻のような腑抜けた戦い方ではないにせよ、改めて勝負を受けて立つほどのものでもない。とるにたらぬ稚戯ちぎだ。事実、頼豪ライハォも五分の力で剣を交えていた。
 本気の片鱗すら見せぬ頼豪ライハォの攻撃を迎える麗紅リーホンもまた、一度として攻めの姿勢を見せていない。たたひたすらに受け流すばかりで、自ら鉄剣を振りかざすことがないのだ。おそらく守りに徹するだけで精一杯なのだろう。
 大陸の妙戯とは名ばかり、所詮は他愛もない流派に過ぎなかったということか。あるいは小娘には荷が勝ちすぎて使いこなせぬだけかも知れぬ。いずれにせよ、いつまでもこんな戦いを続けているわけにはいかない。
 此の娘の実力、既に見切った。お遊びの時間は終わりだ。
 そう悟った頼豪ライハォが、力強く床を蹴った。躰ごとぶつかるようにして放った剣士の一撃が、闇を断つ。その手ごたえのなさに訝しんだ刹那、身を低く落とした麗紅リーホンの剣の柄が、彼の手首を殴打した。
「………ちっ」
 迂闊だった。大した力量もない娘だと侮っていた。じんと痺れる軽い痛みに、頼豪ライハォが前へとつんのめる。辛うじて踏みとどまり、爪先に力を込めて振り向きざま倭刀を薙ぎ払った。甲高い擦過音さっかおんと共に、切っ先が虚空を流れ去る。
 振り返った反動で体勢を持ち直した頼豪ライハォが、間髪入れずに刀を振った。下から掬い上げるような斬撃に続いて、軸足に重心を傾けた会心の突き。だが麗紅リーホンの鉄剣が鮮やかに宙を舞ったと思うや、疾風の如き兇刃の襲来は悉く跳ね返されている。
 何故だ。思うままにならぬ剣の行方に、頼豪ライハォが歯噛みする。先刻までの自分の読みは過ちだったというのか。すべては己の慢心が招いた油断。しかしそのために、これ以上こんな小娘にいいようにされているのは我慢ならない!
 焦燥と憤懣に駆られた頼豪ライハォの倭刀が、雄叫びを上げて麗紅リーホンの懐を斬りつける。その切っ先を受け流すも、剣を支える腕が震えるほどの圧力に、麗紅リーホンがよろめいた。その隙に、間合いを詰めた頼豪ライハォが、少女の後ろに回りこむようにして倭刀をかざす。
 白銀の輝きが麗紅リーホンの背中に落ちかかった。瞬間、舞い踊るように身を躱した麗紅リーホンの剣が、男の刀を弾く。旋回した拍子に、少女のスカートが黒い仇花のようにふわりと広がっていった。
 剣と刀とが交わるたびに、烈しき火花が澄んだ音を立てて散ってゆく。もはや一切の戯れもない斬撃を繰り返す頼豪ライハォの背に、冷や汗が伝った。斬りつける切っ先は突風の如き速さを纏い、突き刺す刃は鋼の威力を閃かす。その太刀筋が一片の曇りもなく冴え渡り、音速に近づけば近づくほど、それを受ける麗紅リーホンもまた軽やかに身を躍らせて迎え撃つ。
 あたかも神に捧ぐ舞いを魅せるかの如く、艶やかに。少女の動きが、次第に激しさを帯びてゆく。右へ、左へ。時に躰の昂ぶりを示すように旋回し、刃を受け流し、跳躍する。目まぐるしく乱れ廻るさまは斬り合いと呼ぶより剣舞に近く、少女の躰全体が何か神聖なものを象っているようだった。
 しなやかに踊る足が軽妙な拍子を刻む。弦を爪弾く嫋々じょうじょうとした神楽囃子すら聴こえてきそうな足捌きに合わせて、険しい鍔競りの音が繚乱と咲き誇る。
 麗紅リーホンの腕が、ふいに空へ舞い上がった。天を飛翔する鳥を思わせるその一瞬を迎える頃には、頼豪ライハォの放った一撃があらぬ方向へと退けられている。
 最後の一手が決まらない。ひとつ剣を交えるたびに募る焦りと不安に、頼豪ライハォの神経がじわじわと蝕まれていく。つむじ風のように過ぎ去った斬撃が、麗紅リーホンの錆びた鉄剣によっていなされる。どんな攻撃も無意味だった。頼豪ライハォの繰り出す技そのものが、少女の舞に絡め取られ、一体化してゆくかのようだった。
 刀が弾かれた拍子に、向かい合う麗紅リーホンと眼が合った。純度の高い露酒リキュールを思わせる琥珀の双眸が、恐ろしいほどに静まり返っている。これほど激しい競り合いに身を投じながら、冷たく冴えた炎を燃やして沈黙する瞳。その瞳に出逢ったとき、それまで極限の緊張を保っていた頼豪ライハォの神経が、ぷっつりと途切れた。
 声にならない咆哮が、男の喉から迸る。それを合図に、渾身の力を込めた一撃が麗紅リーホンを襲った。鮮やかにそれを跳ね除けようとした少女の躰が、反対に弾かれる。たまらず後ろへ退いた麗紅リーホンが、きゅっと足を踏み鳴らして体勢を立て直した。
「これでお仕舞いか、小娘」
 荒く息を吐きながら、頼豪ライハォが問うた。間合いの外に去った麗紅リーホンの躰はわずかに傾き、今にも倒れそうなほど危うい。
「……… あんたさ、」
 剣を構え、両足に力を込めたまま俯いていた少女が静かに顔を上げた。ともすれば乱しそうになる呼気の流れを宥めながら、おもむろに言葉を紡ぐ。
「自分が罠にかかったの、気付いてない?」
 挑発的な物言いに、頼豪ライハォの眉が釣りあがった。此の状況で減らず口を叩く少女に向けて、流れるように倭刀を持ち変える。もはや躊躇ってはいられない。次の一撃で、決着をつけてやる。
「後ろ、見てみろよ」
 だがそれにつられて、咄嗟に後ろを振り返ってしまった。それを待っていたかのように、麗紅リーホンの足が床を蹴り上げる。一拍置いて頼豪ライハォが視線を戻したが時既に遅し。初めて剣を振るって襲い掛かってきた少女が、意識を逸らした彼の間合いへ肉薄してきた。
「小癪なっ!」
 抜き放たれた倭刀が白く鋭い軌線を描く。刀と自らの呼吸が噛み合ったのを感じた頼豪ライハォの一閃が、麗紅リーホンの剣を両断した。鍔から先を無くした鉄剣が床に転がり落ちる。だが………
「なにっ?!」
 得物を斬られてもなお、麗紅リーホン速度スピードを緩めなかった。むしろその剣に気を取られた頼豪ライハォの懐に、飛び込むようにして身を沈める。
「誰から聞いたのかは知らないけど、一ついいことを教えてやるよ。あんたが言ってた大陸の妙戯ってのは、『気』を使った特殊な電磁波のことだ。剣術じゃない」
 驚愕に眼を剥いた頼豪ライハォに、麗紅リーホンが笑みかけた。ゆるく束ねた右の指先に、躰を巡る生命の流れを注ぎ込みながら密やかに囁く。
王手詰めチェックメイトだ、」
 その宣告が頼豪ライハォの鼓膜を震わせた瞬間、矢のように放たれた麗紅リーホンの指先が男の鳩尾を直撃した。目に見えぬ何かが、二人の間で弾け炸裂する。
「あ……れっ?」
 少女の指先が、触れたことにすら気付かなかった。何が起きたのか把握しきれぬまま、頼豪ライハォの神経がけつくような熱さに燃え上がる。あたかも躰の中心で何かが爆ぜたように。その炎が頼豪ライハォの視界を、感覚を、黒く焦げつかせてゆく。ゆっくりと倒れこんだ彼が、意識を手放す直前に見たものは、地獄の業火に焼かれて踊る自分の悪夢だった。
 重たげな音を立てて、男の躰が床に伏した。それと同時に、麗紅リーホンの躰も均衡を失ったように地に落ちる。そのまま眠ってしまいそうになる意識を奮い立たせると、麗紅リーホンは最後の力を振り絞って頼豪ライハォの背後にあったものー――人造兵を操っていた機動装置へ、そっと耳を寄せた。
 機動装置は、鼓動を止めていた。そう形容したくなるほど、唐櫃からひつの中は静かだった。自分の目論みが上手くいったことを確かめた麗紅リーホンは、それまで躰の内に留めておいた息を、安堵とともに吐き出した。
 麗紅リーホンの目論み。それは頼豪ライハォを通してこの機動装置を止めることにあった。フル稼働した【電磁濫戯でんじらんぎ】の力をそのまま人体に流し込めば、その人間は確実に死に至る。だがその力を拡散することで、特殊な電磁波の持つ威力を軽減することが出来た。此の機動装置に編みこまれた配線はやや複雑だったが、それ故に頼豪ライハォに直接的な損傷を生むことなく、彼の神経を一時的に麻痺させるだけに留められたのだ。
 ねぇ。麗紅リーホンが胸の内で優しげに問いかける。あたし、負けなかったよ。今度はちゃんと、逃げ出さずに此の力と向き合った。……ちゃんと、見ててくれたかな。浅い呼吸を繰り返す少女が、眩しげに空を仰ぎ見た。
 青い空を渡って吹いた風が、少女の頬を撫でてゆく。
 唐櫃に寄りかかっていた麗紅リーホンが、不意に激しく咳き込んだ。躰の芯から沸き返るような痛みに、視界が滲む。頼豪ライハォと斬り結ぶ間中、絶えず練り続けていた『気』が、躰の外側へ流れ落ちてゆくのがはっきりと分かった。
 咳をするたびに、内蔵が針で刺されるような痛みに見舞われる。それでもなお、麗紅リーホンは立ち上がろうと足掻いた。こんな処で諦めてはならない。地下で、あいつが待っている。まだ闘いは、終わっちゃいないんだ。
 感覚のない足に、力を込めた。思うように持ち上がらない。やがて力尽きたように、瓦礫の床へと倒れ伏した。もはや光さえ映らなくなった瞳が、涙で潤む。何かを掴もうと伸ばされた指先がか細く痙攣し、そしてついに少女の躰は動かなくなった。





「げっ、」
 爆炎とともに灰と化した東屋あずまやの下を抜けた時、翡翠フェイツェイが呻き声を上げた。その視線の先には、先刻争ったのとは違う兵士たちの像が幾体、道を阻むようにして二人が通るのを待ち構えていた。
「しつけーんだよ、てめぇら!!」
 木刀を構え、満身創痍の歩兵たちを睨み据える。数としては多くはないが、これ以上相手取っている暇はなかった。此処で手間取っていては、【宝胤ほういん】が作動する時間に間に合わなくなる。
「おい、様子がおかしい」
 一触即発の最中、同じく銃を構えた海嶺ハイレイが、今にも敵に飛びかかろうとしていた翡翠フェイツェイを制した。歩兵たちが何度か躰を震わせたかと思うと、硬直したまま次々と草叢に倒れこんでしまったのである。
「………よくわかんねぇけど、ラッキーってやつ?」
 最後の一体が砂埃を上げて地に倒れ伏す。それを見た海嶺ハイレイが、僅かに顎を引いて肯定の意を示した。
「構うな、行くぞ」
 ただの動かぬ人形と化した歩兵たちの間をすり抜け、麗紅リーホンたちが待つ場処へと走ってゆく。参道を越え、銃弾の痕が残る碑亭を横切った後、大殿へ辿り着いた。顔を見合わせ、それぞれ入り口にほど近い柱に身を潜ませながら中の様子を窺う。そこに広がっていたのは、埃の舞う瓦礫の山だった。
「これは一体……」
 荒涼たる廃墟の霊廟に、早春の陽射しが柔らかに光線を描く。どこか神々しさすら感じる光景に、息づく者は誰もない。不自然なほどの静けさに、翡翠フェイツェイが訝しんだとき、向こう側の柱に身を隠した海嶺ハイレイが声を上げた。
麗紅リーホン?」
 廟の隅のほうに、人影が倒れていた。周りに敵の気配がないことを確認した翡翠フェイツェイたちが、少女の傍に駆け寄っていく。海嶺ハイレイが慎重な手つきで、呼吸すらしない麗紅リーホンを抱き上げた。一見したところ、外傷はないようだ。
 昏々と眠り続ける麗紅の顔を覗き込んだ翡翠が、その手首を摘む。血の通わない冷たい手触りに、翡翠の顔が強張った。
「こいつ……またやったのか、あれ」
 廟の中に潜んでいた刺客とやりあったのか、それとも別の理由があったのか。いかなる事情があったのかを推測する余地すらないが、死んだように昏々と眠りにつく少女が、例の秘術を行使したことは疑いようもなかった。
「どうやらそのようだ………まったく、とんだ無茶をする」
 呆れたような溜息をついて、海嶺ハイレイ麗紅リーホンの躰を床に横たえた。そして素早く視線を廟内へと走らせる。敵の気配は感じられない。先に前へ駒を進めたもう一人の味方も、だ。
「あの少年も居ないとなると……彼は【宝胤】の元へ向かったということか」
「そうみてぇだぜ。ほれ、此処見てみろよ」
 いち早く像の裏に隠された地下への通路を見つけ出した翡翠フェイツェイが、同僚を手招きする。
「悪くすりゃ、敵さんに拉致られたってこともあるんじゃねぇの?」
 不吉な発言すら飲み込むように、暗く、深く。底なしの闇に堕ちてゆく階段を覗き込んだ海嶺ハイレイが、先にその穴へ身を滑らせる。翡翠フェイツェイがその後を追うように、闇の中に沈んでいった。