何度目かの斬撃の応酬を制したのは、生あるものが握った木刀だった。殆ど力技で捩じ伏せた翡翠 の一撃が、敵の剣を後方へ弾き飛ばし、果てしなく続くかと思われた戦いに終わりを告げる。
「くそったれ!」
だがそいつの剣が地に突き刺さるのを見届ける頃には、背後に構えた歩兵が翡翠 の脇腹めがけて槍を突き刺そうとしている。悪態の言葉を叫びつつ、その切っ先を弾き返した。自棄気味に放った一閃が、歩兵の槍を真っ二つに破砕する。
直後、傍らで振りあがった棍棒が鈍い音とともに地面を抉った時には、ひらりと身をかわした翡翠 がその空隙をついて駆け出していた。
たった一人で、こいつら全員相手取るのは自殺行為だ。いくら翡翠 が超人的な戦闘力を有していたとしても、それは不可能と言うものだろう。頃合を見計らって、逃げ出すのもまた戦略のうち………
「翡翠 っ!」
不意に背後から響いた鋭い声に続いて、数発の銃声が戦場に轟いた。振り返った先には、二挺の拳銃を携えた海嶺 が佇んでいる。どうやら紫霖 を無事大殿に送り込んだ後らしい。だがその後ろで陣を作っている灰色の軍団は………
「おい、忠犬っ!余計なもんまで連れてくんじゃねぇよ!!」
奴らが大殿の前を守護していた火力を操る兵士達であるのに気付くのと、彼らの得物が火を噴くのが同時だった。だが彼らの攻撃に晒された海嶺 は顔色一つ変えぬまま、至極事務的に火炎を撃ち落してゆく。
「仕方あるまい。麗紅 に兵を此方に引き付けろと言われたからな」
「その前にてめぇで何とかしやがれっ、このデカブツ!」
「それは無理だ」
翡翠 の誹謗をあっさりと退けると、海嶺 は眼前に迫った兵士の巨体の腕を、頭を、足を、目にも留まらぬ速さで撃ち抜いていった。
「わめいている暇があるなら、目の前の敵を殲滅しろ。死にたくなければな」
「――― 偉そうに指図すんじゃねぇ、忠犬野郎が」
そう吐き捨てると、翡翠 は再び駆け出していった。石造りの高台に佇む東屋 を目指して、前方に構える歩兵の下へ突っ込んでゆく―――
「その言葉、そっくりそのまま返してやろう、狂犬風情」
低く呟いた海嶺 の銃が火を噴き、翡翠 が力強く大地を蹴って跳躍した。ハイレイ の放った弾丸が後方に構えた兵士たちの体を焼く。轟音にも似た唸りを上げた翡翠 の一閃が、棍棒を振り回していた兵をふっ飛ばし、返す刃で翻った切っ先が、前方を塞いでいた歩兵の顔面を打ち砕いた。奴らを倒すつもりなら、まずは眼を狙え。
あいつらの視覚神経は、たぶん精密機械だ。ぶっ壊したところで再起不能になるとは思えないけど、少なくとも攪乱の役には立つ。先刻無線から聞こえてきた少女の声を反芻する。その言葉の意味を忠実になぞるに、
海嶺 が行く先を遮った歩兵の頭部へ弾丸を撃ち込んだ。だが勝負をかけるのは、あんたたちの仕事じゃない。出来るだけ衝突は避けろ。
奴らは多分、組織的に動いている。ざっと見たとこだと、歩兵の後ろを援護するように火気班が構えているな。兵士たちの陣形が、僅かに乱れた。
翡翠 が力任せに開いた突破口に、敵の意識が逸れる。それを見計らったように、海嶺 は翡翠 とは逆の方向へ駆けていった。
敵へ背を向ける刹那、一発だけ響いた銃声が、東屋へ続く参道に立っていた兵の頭を噛み砕く。その不穏な轟音に気付いた歩兵の半分が、参道を駆け上り始めた海嶺 の両脇に迫った。
だったら、その動きを此方から封じてやればいい。
前方には歩兵を、後方には火気装備兵を配置するように動けば、奴らの攻撃は自ずと制限されてくる。相次いで繰り出される刺突をかわし、
剣戟 の海を潜り抜けながら、一糸乱れぬ早撃ちをもって兵士たちの戦力を削いでゆく。やがて煤けた紅瓦を戴く東屋が見えてきた時、左腕に鈍い痛みが走った。斬られたと悟るよりも早く、海嶺 の容赦ない銃撃が、痛みを与えた兵の眼窩を撃ち抜いている。
「はっ、ざまぁねぇなァ!」
下品な嘲笑が耳に届くと同時に、海嶺 が後方へ大きくたたらを踏んだ。入れ替わりに飛び込んできた翡翠 の木刀がはためいて、参道をから侵入してきた兵士の脇腹を抉る。海嶺 が後退した拍子に構えた二つの銃口が、前方から飛来した火炎玉を宙に散らした。
「さて………どうやら後がないようだな」
翡翠 の一撃を喰らった兵士が参道を転げ落ちていくのを見届けながら、海嶺 が落ち着いた口調で呟く。彼らが飛び込んだ東屋の周囲は、既に機械兵たちに固められてしまっていた。唯一残された道は、背後に広がる断崖だけだ。それも、ちょっとした高さで聳えている。
「絶体絶命ってやつか……けどよ、俺はテメェと心中なんぞしたかねぇぜ」
「奇遇だな。俺も同じ意見だ」
歩兵たちは距離を保ちつつも、眼前に迫っていた。背中合わせに武器を構えた二人が、ちらりと視線を逸す。二つの眼差しが向かった先にあるのは、青々と繁る木々の群れと、悠然と広がる爽涼たる青空。あとはあんたたちに任せる。そして潮時が着たら………
ほぼ同時に地を蹴った二人の脳裏には、おそらく同じ声が響いていたのだろう。
甲高い唸り声を上げた歩兵の大太刀が、虚しく宙を切り裂く。追い詰めた獲物は既に、崖の向こうへと消えていた。
「今だぜ、虎 のオッサン!!」
翡翠 の叫びが、空に向かって放たれる。瞬間、東屋を載せた石造りの高台は、爆音とともに炎に包まれた。いつの間にやって来たのだろう。空に躍り出た黒い機体が、炎上し始めた東屋から逃れるように旋回している。ちらりと見えた操縦席から、眼も眩むような白光がちかちかと数度瞬いた。
「……ってぇ!」
宙に投げ出された翡翠 と海嶺 の躰が、爆風に煽られながら地上へ落下する。強かに身を地面に打ちつけた翡翠 が悲鳴を上げたのに対し、完璧な着地の姿勢をとった海嶺 は、頭上で赤々と燃え上がる炎を見上げた。
「上手くいったようだな」
烈しく燃え荒ぶ炎に混じって、黒い煙が濛々と空に立ち上ってゆく。この爆発では、あの機械仕掛けの亡者たちもひとたまりもないだろう。あとは彼らが、潔く眠りにつくことを祈るのみである。
「急ぐぞ、」
だがまだ任務は遂行されていなかった。空高く舞い上がった黒い機体に向けて、海嶺 が敬礼を贈る。そして大儀そうに立ち上がった翡翠 と一瞬だけ目を合わせると、足早に麗紅 たちが待つ大殿へと疾走していった。
石畳の階段を下る足音が、一定のリズムを刻みながら闇の彼方に消えてゆく。
孫 の屋敷を襲撃した時と違い、辺りは恐ろしいまでの闇に包まれていた。手探りで階段を下りてゆくのがやっとである。紫霖 は託された磁盤 を取り落とさぬよう、慎重に歩みを進めていった。
一つ地下へと近づくたびに、瘴気じみた寒さが濃くなってゆく。まるで先の見えない地下への道行きは、黄泉へと続いているとしか思えない。真っ黒に塗りつぶされた世界の中、紫霖 は意識だけが暗闇へと堕ちてゆくのを感じていた。
やがて階段が終末を迎えた。だが一向に目的地に着いた気配がない。どうやら先にも道があるようだと推測した紫霖 は、壁の感触を頼りにまっすぐ歩いていった。盲人の如く、頼りない足取りで狭い回廊を突き進むうち、不意に暗闇の先で真っ白い輝きを見つけた。漸く辿り着いた出口に、自然と足が速くなる。
唐突に開けた視界に、紫霖 は思わず手を翳した。その眩しさに慣れてきた頃、眼前を遮っていた手をゆっくりと下ろす。少年の瞳に、荘厳な白い輝きを纏った巨大なオブジェが飛び込んできた。
いや、違う。目の前に聳え立つ光景を凝視した紫霖 は、信じられない面持ちで眼を瞠いた。競い合うように天を衝く数多の導管が、眩い白銀に包まれたまま壁を覆っている。あたかもそれ自体が絢爛たる城か、高貴な寺院を思わせる導管の群れの麓には、鍵盤のようなものが見えた。敬虔なる神の下僕を腕に抱く、管子風琴 に似た建造物。
真珠色に発光する空間の中を、明滅した数据 が幾つも浮遊している。風琴 が奏でだす調べの如く、なよやかに。紫霖 はその揺らめきに誘われるように、部屋の中央に伸びた金の階段を登っていった。
最後の一段に足をかけたとき、この奇怪な装置の全貌が露わになった。向かって右側に、計器や操作卓 を備えた制御装置が広がっている。その部分は降誕祭の時に眼にした時計塔の内部とほぼ同じであったが、左半分は鍵盤と音栓を設えた楽器が鎮座しており、風琴 と言う印象はあながち嘘ではなかったことを示していた。
紫霖 は早速制御卓の方に歩み寄った。そのまま磁盤 を挿入しようとして、ふと躊躇いを覚える。勝手が分からない。
電脳機器に関する知識には多少の覚えがある紫霖 であったが、こんな装置は見たこともなかった。そもそも起動しているのかすら不明である。どうしたものかと首を傾げながら、何気なく張り出した硝子の屏幕 に手を置いてみる。
途端に、その画面に様々な暗号が浮かび上がっていった。それに呼応するように、計器が鮮やかに数値を刻み始め、周囲を漂っていた数据 の群れが紫霖 と制御卓の周りを取り巻いてゆく。少年の発する心音によって息を吹き返した制御装置は、あたかも生あるものの如く明滅し、様々な情報を彼に与えていった。
紫霖は手許のスクリーンに映し出された命令を、戸惑いながらもこなしていった。躊躇いがちに動いていた指先が、次第に俊敏なリズムを刻みだす。不思議な感覚だった。まるで提示される総ての情報が、透かし見えるかのようにはっきりと脳裏を駆け巡り、自分がどうすればいいのかを無意識のうちに予知してゆく。
向かい合う機械が、直接自分に語りかけてくるみたいだ。指先に伝わる情報と言う名の暗号が、温かな脈動となって躰の中を流れてゆく。その感覚に身を委ねながら、紫霖 は託された鍵を差込み、屏幕 に映った『実行』に触れた。それに伴い、画面の表示が【宝胤 】の再起動を中止させるための程序 を発動したという報告に切り替わる。
紫霖 は知らぬ間に、ほっと息をついた。
制御卓から手を離し、程序 が作動していることを見届ける。それと共に、ほんの僅かの時間自分と感覚を共有していた機械の脈動から、この身が切り離されるのを感じた。奇妙な体験だった。まるで自分がこの装置に取り込まれてしまったかのような、それでいて、えもいわれぬ懐かしさに抱かれて安堵するような、名状し難い感覚―――。
紫霖 が気だるい微睡みに漂うような、ぼんやりとした気分に意識を浸していた最中、突如として重々しい旋律が空間に響き渡った。どことなく不吉な、死神が葬送の調べを奏でるような重厚な音色に、紫霖 がはっと背後を振り返る。
いつの間にやって来たのだろう。風琴 の前に、人影が坐っている。だがその姿を認めた瞬間、紫霖 は自分の眼を疑わずにはいられなかった。
「――― …… そんな、」
辛うじて搾り出した声は、醜く掠れていた。
象牙の人形じみて白く、なめらかな肌に、艶やかな黒髪が落ちかかる。強く抱きしめれば折れてしまいそうなほど危うい、華奢な腕と肩。その指先が奏でだす、本来ならばこの上なく穏やかで、物哀しい曲調は、憂愁の淵に沈む『夜想曲 』……
「………嘘だ、なんで、」
僅かに引き攣った少年の声に、人影が演奏を止めてゆっくりと振り返る。桜の蕾を思わせる柔らかな口唇が惚けたように開き、長い睫毛に縁取られた漆黒の瞳が、まっすぐに紫霖 を射抜いた。
「なんで……どうしてお前が此処に居るんだ、松花 !!」