外から響く銃声と、剣を交える音が、何処か遠く聞こえる。紫霖ツーリンを拘束していた男も、外の混乱を背に佇む少女へ視線を向けた。麗紅リーホンが場違いなほどにゆっくりと、二人の下へ歩み寄る。
「見ない顔だな……あんたも幇会ほうかいの雇われ凶手ってわけ?」
「いかにも。してそなたは、副寨主さいしゅの申しておった例の……」
「くだらないお喋りなんて、してる暇ないんじゃない?」
 頼豪ライハォの言葉を遮るように、麗紅リーホンが機関銃の先を彼へ向けた。
「さて、いい加減その手を離してもらおうか」
「断る……と、申したら?」
 地に伏していた少年を立ち上がらせると、頼豪ライハォはどこからともなく一振りの倭刀わとうを取り出して構えた。鞘に収まったまま沈黙する細身の刀。その刀身で紫霖ツーリンの躰を押さえつけながら、銃を向ける少女と対峙する。
「へぇ、そいつを盾にするってわけ。いいの? そいつを傷ものにして。雇い主に叱られるんじゃない?」
「それはそなたも同じこと……違うか?」
「あたしは構わないさ……そいつがどうなろうと、知ったことか!」
 咆哮にも似た一声とともに、麗紅リーホンが懐に隠し持っていた小型拳銃を抜き放った。機関銃に気をとられていた頼豪ライハォの反応が一拍遅れる。瞬間、彼の耳元を弾丸が掠め去った。
紫霖ツーリンッ!!」
 頼豪ライハォの拘束が緩んだ隙に、少年が彼の腕を振り解く。その瞬間をいち早く察知した麗紅リーホンは、素早く紫霖ツーリンの手をとって自分の側に引き寄せた。
「悪かったな。射撃は得意じゃないんだ」
 拳銃を男に据えたまま、麗紅リーホンが嘯く。
「形勢逆転だ。何か言い残すことは?」
「逆転なものか……笑わせるな!」
 ようやく体勢を整えた頼豪ライハォが、恐るべき速さで間合いへ飛び込んできた。鞘付きの倭刀がしなやかに弧を描く。身を躱す余裕すら与えられぬまま、麗紅リーホンの躰は廟の柱へと叩きつけられた。
「がっ………?!」
 少女の躰が脆く崩れ落ちる。機関銃を腕に抱えながら倒れこんだ麗紅リーホンの上に、半分崩れた屋根から差す光が燦々と降り注いだ。傍らの少年は呆然とそれを見遣り……自らにも逃れえぬ危険が迫っていることを察した。
「これでよし……。さあ少年、今こそ我々と共に、新しい時代を築こうではないか!」
「――― 寝言は寝てから言え、この時代錯誤の似非侍が」
 低く淀んだ罵倒は、せめてもの反抗として頼豪ライハォを睨み返した紫霖ツーリンのものではなかった。低く震えた声に、二人がはっと顔を上げる。その直後、空を目指して掲げられた機関銃の先から、持ち主の怒りに答えるような銃弾の嵐が迸った。
「莫迦め、何を……」
 頼豪ライハォのせせら笑いが、驚愕に引き攣った。爆音じみた銃声と、それによって瓦解した廟の屋根が、陽射しの代わりに降り注ぐ。
「こっちだ!」
咄嗟に顔を背けた紫霖ツーリンの腕を、横から伸びた手が掴んだ。弾の切れた機関銃を投げ捨てた少女に導かれるまま、這うようにしてその場を逃れる。
「【宝胤ほういん】の在り処は、見つかったか?」
 背後の屋根が、砂埃を舞い上げながら崩れ落ちてゆく。それを横目に見ながら、麗紅リーホンが問いかけた。
「一応、」
「なら、これを頼む。あんたが先に行って、水の神を鎮めてくれ」
「……オレが?」
 不意に掴まれた手から渡された硝子の鍵に、紫霖ツーリンが戸惑いの声を漏らす。
「あたしは此処に残って、あの男を何とかする」
「けど、」
「けどは聞かない。もうあんたしかいないんだ、行ってくれ」
 半ば強引に、麗紅リーホンは少年の背を押し出した。振り返った紫霖ツーリンの視線と、何かに縋るような麗紅リーホンの眼差しが一瞬だけ交錯する。不意に目の当たりにした少女の瞳は、大切な何かを失うことを恐れる子供のように揺らいでいた。
「あたしもすぐに行く。だから無事でいろよ」
 自らを奮い立たせるように、麗紅リーホンが言った。紫霖ツーリンはその言葉に送り出されながら、王像の背後に伸びる洞窟へと姿を消してゆく。
「まったく……とんだ、じゃじゃ馬……娘だ、」
 頼豪ライハォの攻撃を受けたはずみで取り落とした小型拳銃を拾い上げた麗紅の耳に、息も絶え絶えの悪態が飛び込んできた。振り返った先にいたのは、崩落した屋根からやっと這い出した幇会の刺客である。ふとした拍子に麗紅リーホンと眼が合った男は、蜘蛛の巣を額に貼り付けた格好のまま、はっと我に返った。
「いかん!!」
 何がいかんのか。急に妙な言葉を発した頼豪ライハォに、麗紅リーホンが身構える。それを無視して、男は廟の端に安置してあった唐櫃からびつへと駆け寄った。
「ああ、よかった無事だ……」
 完全に部外者扱いされた麗紅リーホンは、あからさまに安堵した頼豪ライハォを一瞥すると、
「何……そんなに大事なものなわけ?」
「左様。これは外で暴れまわっておる兵士像を動かしている主電脳マスターコンピュータとか言うやつだ。ほれ、此処に機動開關あわびがあるだろう?この遺跡で発掘されてな。何でも副塞主殿が動かせるよう作り変えたと聞く。これを壊せば一大事!外の兵士は直ちに機動を止め、俺も即刻クビにされてしまうという……」
「ふぅん?」
 急に饒舌になった男の言葉に、麗紅リーホンがうすく笑った。
「つまりそいつをぶっ壊せば、あのしつこい銅像を黙らせられるってわけ?」
 密かに銃を構えた少女の一言に、唐櫃をさも大事そうに撫でさすっていた頼豪ライハォがきっと眼を剥いた。
「なぬっ。そなた、なぜそれを知っている?!」
「さっき自分で言ったじゃん!!」
 随分ズレた頼豪ライハォの発言に、今度は麗紅リーホンが眼を剥く番だった。しかしその指摘は頼豪ライハォには届かなかったらしい。男は大きく鼻を膨らまし、いやに芝居がかった調子で首を振ると、
「うむ……それを知られては、もはやそなたを生かしておくわけには行かぬ。女子供を斬るのは本意ではないが、やむおえまい。不肖、烏龍幇凶手ユェン 頼……って、うおっっ?!」
 くどくどしい頼豪ライハォの名乗り文句は、麗紅リーホンが放った銃声に掻き消された。
「生憎だけど、そんな口上聞いてる暇はないんだ」
 微かに立ち上る硝煙の向こうで、麗紅リーホンが低く呟く。
「退けよ。そうすれば、命だけは助けてやる」
「……それは出来ぬ。唐櫃これを守ることこそ我が使命!!」
「ならばそいつもろとも斃れるがいいっ!」
 激しい怒号が、銃声に切り替わった。威嚇のつもりで放った弾丸が、男の足元を穿つ。銃声。続けざまに響き渡った狂気の叫びが装置の角を傷つけたのと、男が地面を蹴ったのが同時だった。
 少女の指が、立て続けに轟音を奏でだす。だが頼豪ライハォは鮮やかに弾道を潜り抜け、麗紅リーホンの間合いに飛び込んできた。
「……ッ!」
 虫の知らせか本能か。目前に迫った頼豪ライハォの刀が空気を断つよりも先に、麗紅リーホンは身を捩ってこれを躱した。僅かに均衡を失ったその脇腹を、返す刃で閃いた頼豪ライハォの突きが掠め去る。たまらず転びかけた少女の頭上を、鞘付の倭刀が疾風の如く通り過ぎていった。
「どうした、逃げていては話にならんぞ、」
 全身の神経を研ぎ澄まして攻撃を回避する麗紅リーホンを、何も出来ぬ子供を弄ぶかのように頼豪ライハォが嘲った。その口元には、笑みすら浮かんでいる。
麗紅リーホンは舌打ちを一つ洩らすと、自ら男の懐へと飛び込んでいった。差し迫った頼豪ライハォの肩に、銃口を押し当てる。そのまま引き金に手をかけた少女の鳩尾を、頼豪ライハォの逆手打ちが襲った。
「ぐっ……」
 最後の弾丸が、派手な銃声と共にあらぬ方へと吸い込まれていく。男の奇襲をまともに喰らいながらも、受身の姿勢をとって床に着地した少女の気概は感嘆に値したかもしれない。ともすれば飛びそうになる意識を奮い立たせると、麗紅リーホンはそのまま頼豪ライハォに背を向けて手近な柱へと身を潜めた。
 凶手との圧倒的な戦力の差を噛み締めながら、弾倉を入れ替える。間髪いれずに敵の元へ銃を構えた。撃鉄を上げる音が虚しく響く。男はどこにもいなかった。
「時にそなた……」
 突如足元に躍った不吉な影に、麗紅リーホンがはっと頭上を振り仰ぐ。刹那、銀色に冴えた輝きを閃かせた人影が、視界を黒く染め上げた。
「大陸の妙戯の使い手だと聞いた。それは真か? ホヮン 麗紅リーホン
 ことさら厭味っぽい響きを込めたその名を聞く頃には、頼豪ライハォの振りかざした倭刀が床を鋭く抉っている。きわどいところでその斬撃を避けた麗紅リーホンは、転がり込むようにして柱の影から抜け出した。
「もしそうなら、一度手合わせ願いたく候……それとも、」
 頼豪ライハォの質問に答える暇などない。自分一人では太刀打ちできぬ相手と悟った麗紅リーホンは、再び男に背を向けて駆け出した。外にいる二人ならば、あるいはどうにかできるかも知れぬ……ならば今、自分に出来ることは一つだけだ。一筋の望みをかけて、視線の先にある、機動装置へと手を伸ばし―――
「俺では役不足と申すか?『電磁濫戯でんじらんぎ』を使うには、取るに足りぬ相手とでも?」
 作動開關スイッチ關断オフにしようと唐櫃へ肉薄した麗紅リーホンの背中を、滾るような殺気が貫いた。この世ならざるものの瘴気にも似たその感覚に、麗紅リーホンが振り向きざま銃を構える。次の瞬間、目も眩むほどの白い輝きが空気を切り裂き―――少女が据えた拳銃は、銃把から先を喪失していた。斬り落とされた銃身が、乾いた音を立てて床に転げ落ちる。あたかも少女の首の、身代わりのように。
「俺との戦いを放棄して逃げ出すとは、卑怯な娘だ。だが無駄な努力だったな。これは開關スイッチを切っただけでは止まらぬのだ」
 呆然と膝をついた麗紅リーホンの喉下に、白く冷ややかな感触が押し当てられた。
「もう逃げるのはお仕舞いか、小娘。何とも味気ないものよ」
 麗紅リーホンの喉に倭刀の先を押し付けながら、頼豪ライハォがしゃがみこんだ。憎々しげに口唇をかみ締める少女の顔を、さも面白そうに覗き込む。
「して、どうする?これでもまだあの力は使わぬと申すか」
「………知るかそんなの。見たいなら、他をあたれよ」
 殺気めいた白い刃の冷たさが、麗紅リーホンの皮膚を裂いた。僅かに滲んだ鮮血が、青褪めた肌を伝ってゆく。
「ならば、致し方あるまい。ではそなたは大人しく此処で、【宝胤ほういん】が作動するのを見届けるがいい」
「………ッ」
 興味を失ったような頼豪ライハォの挑発に、麗紅リーホンの肩が微かにわなないた。急にこみ上げてきた震えを押さえるように、ぎゅっと拳を握り締める。
 少女の頭の中で、様々な仮説が目まぐるしく飛び交った。溺れるものが足掻くように、知恵を尽くして組み立てた仮説が浮上しては次から次へと崩落してゆく。そのどれ一つとしてこの窮地を救う力がないことを悟り、麗紅リーホンは濃い敗北をかみ締めるようにして項垂れた。
 いや、一つだけ道がある。男の言う『力』を行使すること。それだけが、窮地から抜け出す唯一の手段だった。
 けれど………。かつてこの手が生み出した威力に、麗紅リーホンが浅く喘いだ。あの時この身を襲った恐怖が、絶望が、躰中の神経を舐め尽くし、胸を塞ぐ。麗紅リーホンは固く目蓋を閉じた。駄目だ。こんなつまらぬ闘いのために、使っていい力ではない。
 だが他に何が出来る?否定する心の裏側から、嗤笑交じりの声が聞こえた。お前は結局、その身に宿した血に頼らなければ何も守れないんだ。その力に悔しがっているなら、恐れているなら、目を塞いで世界を閉ざしてしまえばいい。麗紅リーホンはその声を押し潰すように、拳を固く握った。
 ――― ……、助けてよ。縋るように呟いた懐かしい名前と共に、生々しい記憶の断片が麗紅リーホンの脳裏を駆け巡る。死んだ魚の目をした亡骸。この名を呼ぶ呪いと恨みの声。涙と恐れを解かした掌のぬくもり。……飛び散った鮮血。急速に光を失ってゆく宵藍ブルーグレイの瞳。優しくこの身を抱きとめた、血に染まった手。……最後の言葉。
 麗紅リーホンは固く握り締めた拳を開き、その手を見つめた。この力を使うなと、貴方は言った。私を傷つける力なら、必要ないと。その言葉を受け入れたが故に迎えた結末を、過ちを、私はまた繰り返すつもりか。
自嘲気味に零れた溜息と共に、胸の内で自問する。どれほどこの躰を流れる血を厭い、抗ったところで、逃れることは叶わない。どんなにこの力を軽蔑しようと、崇高な望みを掲げようと、それを捨てた後に残るのはなんの力も持たないちっぽけな小娘だけだ。結局私はこの忌まわしい力に頼らなければ、自らの信念すら満足に守り抜くことが出来ぬほど、小さく愚かな人間だと言うことか。
失意の淵に沈みかけた少女に、頼豪ライハォが背を向けた。倭刀を鞘に納めなおし、禹像の背後に伸びる階段へと歩を進める。
「興が殺がれた。あの少年を追ったほうが、まだ面白みがある」
 男の一言に、麗紅リーホンは弾かれたように顔を上げた。それと同時に、先刻別れを告げた少年の姿が過ぎる。戸惑いながらも、しっかりと頷いた強い眼差しを。大切な肉親を救うために臆することなくこの手をとった、揺るぎない意志を。
 最後に触れた、彼の感触が指先に甦る。冷たい手だった。そこに、自分の信念の欠片を託した。最後の望みを賭けるように。不意に甦った少年の手の冷たさが、ぬくもりに変わる。それは繋いだ指先に残った、生命の確かな脈動だった。
 麗紅リーホンは覚悟を決めたように、此方に背を向ける男を睨み据えた。そして唐櫃をそっと、右の手で撫でる。あたかもその奥にある見えない糸を、手繰り寄せるかのように。
「待てよ、」
 複雑な唐草文様を描く櫃を支えにして、麗紅リーホンが立ち上がった。呼び止められた頼豪ライハォが、胡乱げに振り返る。麗紅は怪訝そうに眉を顰めた頼豪の元へ、おもむろに歩み寄りながら、
「まだ勝負は終わってないだろ?」
 祭壇に奉られていた剣の柄を掴み、すっと男の方へ突きつけた。
「ほほう……だがそんながらくたで、何が出来る?」
 長いこと放置されていた所為で、剣の刀身はすっかり錆付いていた。これでは斬ることはおろか、攻撃を受けることすら危ういだろう。先刻の拳銃にも劣る代物だ。だがそれを掲げる少女は、不敵な笑みを崩さぬまま高らかに言い放つ。
「何だって出来るさ。あたしの流派は少しばかり特殊でね、」
麗紅リーホンは柄を支点にくるりと剣を回し、慣れた手つきで構えて見せた。その一言に、頼豪ライハォがさも愉快だと言わんばかりに眼を細める。
「なるほど……面白いではないか、」
 そして彼女の申し出に報いるが如く、鞘から細身の刀を抜き放った。その瞬間を見計らったように、麗紅リーホンが右足を後ろへ滑らせる。まるで舞踏の誘いを申し込む紳士の如く、軽やかに。
「お望みどおり、見せてやるよ。大陸の妙戯ってやつを。ただし、高くつくかもしれないぜ?」
 迷いは捨てた。崇高な望みやちっぽけな矜持など、くそくらえだ。今はこの手に残った体温を、下で戦っているはずの微かな心音を、なんとしてでも守らなければならない。それが厭い続けてきた自らの運命を打ち砕くために守り続けてきたものへの、代償になると思った。
「いざ!」
 狂気に震えた頼豪ライハォの倭刀が、鋭い輝きを瞬かせながら目前に迫った。その一閃が、澄んだ音を立てながら彼方の空へ消えてゆく。彼の攻撃を迎え討ったのは錆びた鉄剣ではない、猛き阿修羅の眼差しだった。