半分崩れかけた碑の上を、銃弾が掠めていった。乾いた音を立てて砕け散り、ぱらぱらと頭上に落ちかかってくる。激しい攻防は未だ続いていた。魂を持たぬ機械仕掛けの兵士たちが、此処へ近づいてくるのも時間の問題かもしれない。
碑の陰に身を潜めていた紫霖が外の成り行きを窺おうと、僅かに顔をのぞかせた刹那、耳をつんざぐような破裂音がすぐ傍を疾走していった。それが機関銃を乱射させた麗紅のものであると気付いた時には、視界の端を固めていた兵士たちが数体倒れこんでいる。
煉瓦色の髪を靡かせ、兵たちの攻撃をかいくぐって行った少女が、大木の陰に飛び込んでいった。再び臨戦態勢に入った目の前の兵士たちが、彼女が消えた方向へと歩みを進めていく。その足音が遠ざかったと思った時、不意に腕を掴まれた。
「来い、」
いつの間にか碑亭に戻った海嶺が紫霖を立たせると、腕が千切れるほどの力で物陰から引きずり出した。再び兵士たちへ銃弾を撃ち込む少女の姿が視界の端に止まり、そのまま裏へ続く街道の方へ駆けてゆく。
安息の地を逃れ、大殿へと駒を進めていった二人の間を、火炎の塊が引き裂いた。続けざまに放たれたそれを、海嶺の弾丸が攻撃の主の腕もろとも撃ち抜く。そして紫霖を大殿の方へと突き飛ばすと、
「先に行け」
彼を庇うように腕で制しながら、鋭く言い捨てる。少年は戸惑いがちに眼を上げたが、それも一瞬のことだ。海嶺の忠告を聞いたときには、紫霖はしなやかに身を翻して廟の中へと駆けていった。
廟の中へ飛び込んだ紫霖は、反射的に両脇に立つ柱の陰へ身を隠した。朽ちかけた天井の隙間から差し込む陽光が、少年の頬を淡く照らし出す。戦場にいながら、紫霖の心は不思議なくらい静まっていた。
だがひとたび大きく息をつけば、膝から下が喪失したように床へとくずおれてしまう。躰中の震えが止まらない。心臓が、自分のものとは思えぬほど激しく脈打っている。神経を伝う、ひやりとした恐怖を宥めるように、少年はわななく肩を掻き抱いた。
これが、彼女たちの戦いなのか。
脳裏に沸いた恐怖を問うように、紫霖は己の手を見つめた。運命を導く少女に委ねてしまった手。あの時は耐えられると思ったのだ。松花を救うという思いだけで、乗り越えられると思った。彼女の言う戦いが、どんなものかも知らないで。
込み上げてきた吐き気を荒い息と共に飲み下すと、少年はその手を硬く握り締めた。ともすれば崩れ落ちそうになる神経を奮い立たせながら、しっかりと顔を上げる。
こんなところで、飲み込まれるわけにはいかなかった。この手になんの力もないならば、せめて毅然としていなければならない。それは無力な自分が妹を取り戻すための唯一の手段であり、自分をかんじがらめにする運命への挑戦でもあった。
躰中を縛りつけていた慄きが漸く緩み始めた頃、少年の視界にふと何かがちらついた。思わず身を硬くしながら、そちらを素早く一瞥する。廟の中央に鎮座した、禹王の銅像。かつては彩り豊かだったのであろうその像も、今では塗料が剥げ落ち、片目が崩れ、在りし日の威厳は見る影もない。像の傍らに安置された剣や槍も、時間と風雨によって錆付いていた。像を支える台や宝物棚も、盗賊に陵辱されたと思しき傷に歪み、それを飾っていた宝石や金は無残に削り取られている。だがその背後に開いた空洞は一体何なのであろうか。
禹王像の向こうに見える空洞を確かめようと、紫霖は身を乗り出した。その際視界を過ぎった人影は、多分気のせいだろう。もし敵が潜んでいたのなら、既に自分はこの世にいないはずだ。それにしても妙な幻影である。箪笥ほどもある大きさの韓櫃に寄りかかったまま居眠りする男が見えた気がするのだが、―――
此処まで来た疲れが、そんな幻を見せたのかもしれない。
紫霖は不躾にも像の裏へまわり、空洞を覗き込んだ。燭台の灯り一つない暗闇の向こうには確かに、階段が続いていた。黄泉への地下道を髣髴させるその佇まいは見覚えがある。ではこれが、【宝胤】の隠し場所へ続く道なのだろうか。
麗紅たちの到着を待たずに、先に乗り込むべきか。だがもし刺客がいたら、悔しいことに自分ひとりでは如何することも出来ない。
「ぶえっくし!!」
どうしたものかと紫霖が思案していた時、廟内に盛大なくしゃみが響き渡った。だしぬけに木霊した間抜けな声に、思わず足を滑らせかけ、咄嗟に掴んだ木の枠が凄まじい音を立てて崩れ落ちる。
「おのれ、何奴?!」
やはり刺客が隠れていたか。怒声じみた誰何の声に答えるより早く、紫霖は落ちかけた階段から這い出し、そのまま廟を突っ切ろうと試みた。
「逃すものか!」
だが相手のほうが一枚上手だったようだ。少年がその場から逃れようと全力で走り出した頃には、項を強かに打たれ、冷たい床へともんどりうっている。
「俺が寝ている間に忍び込むとは不届き千万!名を名乗れぃ、無礼者め」
「……それはこっちの台詞だよ、」
後ろから手首を捻られ、背中をがっちりと押さえつけられた紫霖は冷ややかに言い放った。せめてもの反撃として、肩越しに襲撃者を睨みつける。まだ若い男だ。にもかかわらず、いまどき時代劇でもお目にかかれないような古風な言い回しをしているのは如何なるわけだ?
「うむ、それも一理あるか。俺の名前は頼豪。先日秘密結社烏龍幇の臨時凶手として雇われた者だ」
律儀に答えた男の表情が、ふと強張った。そのまま少年の顔を上向かせ、訝しげに眉を顰める。
「貴様……どこかで逢ったような?」
「………オレはそんな憶えないけど、」
「おお、思い出した!」
紫霖の皮肉など耳にしなかったかのように、男が大きく頷く。
「では貴様が、あの娘の兄者であるか!」
「あの娘……? まさかあんた、松花のことを知ってるのか?!」
「いやぁ、良く似ておる。兄妹揃って別嬪とは。親の顔が見てみたいものだ」
「オレの質問に答えろよ、」
勝手に話を進める男に辟易しながらも、一応突っ込みだけ入れてみる。こんな莫迦げた手合いを相手になどしたくなかったが、今はそんなことに構っていられない。この男は、松花の消息を知るか細い手がかりかも知れぬのだ。
「そうとなれば話は早い。どうだ、俺たちと一緒に来て見る気はないか?」
だが男―――頼豪はそんな少年の心情をまるきり無視して言葉を繋げた。まるで手ごたえのない会話の応酬に、紫霖が憎しみと侮蔑を込めて男を睨み据える。
「そんなことは聞いてない、」
「なんと。燕梅殿から話を聞いたのではないのか?」
頓狂な声を上げながら、頼豪が眼を瞬いた。
「燕梅殿だけではない。皓副寨主殿もそなたを迎え入れることを望んでいる。仲間にならんか。そなたがやってくればきっと、あの娘も喜ぶことであろう」
「………え?」
押し付けがましく勧誘してくる頼豪の言葉の意味を、たった今知ったかのように紫霖が問い返した。迎え入れる?この男たちの………烏龍幇の仲間に?
一体なんの冗談だ。
「お取り込み中失礼」
突如廟内に響いた少女の声が、危うく思考を停止しかけた少年の耳朶を打った。
いつの間にやってきたのだろう。廟の真ん中に、肩から機関銃を提げた人影が佇んでいる。逆光に照らされた暗き影の中、不遜とも言えるほど挑発的なきらめきを湛えた琥珀の瞳が、此方を見つめていた。
「悪いね旦那。そいつはうちの大事な姫様だ。口説くのは遠慮願えるかな」