断崖の絶壁が、吹き付ける風の如く冷ややかに聳え立ち、凪いだ東湖とうこの水面に峻然たる影を漂わせていた。緑繁き山河は果てなく広がり、灰色の崖に彩りを添える。谷間に広がる運河はゆるやかに流れ、湖畔にすべる烏蓬舟うほうせんの幾隻かが、穏やかに行き交っていった。眼下に広がる山水画の風景を横目に流しながら、白い虎の紋章を染め抜いた黒い機体が、徐々に高度を下げてゆく。
 やがてその前に姿を現したのは、緑豊かな丘陵のまにまに戴く紅蓮の瑠璃瓦るりがわらだ。天突く屋根は躍動的でありながら無残に煤け、段々と連なる紅い壁はところどころ崩れている。訪う者を失くしてから久しい年月を経た、山間の遺跡。
「お嬢。着きやしたぜ」
 機体を手ごろな草叢へと降ろした海螺ハイルゥは、操縦席から麗紅リーホンへと呼びかけた。続いて開かれた昇降口ハッチが、閉塞した空間に荒涼とした遺跡の風景を映し出す。不意に機内を染めた鮮やかな色彩に、紫霖ツーリンは思わず目を細めた。
「あっしは此処から先には行けねぇ。お嬢、どうかご無事で」
 荒れるに任せた野草が、機体の強風に煽られて激しく靡く。風によって拓かれた野草の上へ降り立った仲間を見届けた後、機関銃を肩にかけた麗紅リーホン海螺ハイルゥの言葉に軽く手を上げると、
「ああ。せいぜいくたばらないように気をつけるさ、」
 不敵な笑みを残して、勢いよく飛び降りた。肩にかかる銃の重さを感じながら、先に待つ同僚たちのもとへと駆けてゆく。
 東側の門に身を潜めながら、麗紅リーホンたちは辺りの様子を窺った。離れたところで海螺ハイルゥの愛機が疾風を起こす音以外、何も聞こえない。
「……… 伏兵はいないようだな」
 注意深く門の向こう側へと視線を走らせていた海嶺ハイレイが、抑揚のない声で確認した。その脇に膝をついた麗紅リーホンが、腕に嵌めた着用式電脳ウェアラブルハードを起動させ、先刻仕込んだばかりの画像を空中へ投射する。心持ち雑な像を結んだ空中画像には、禹廟うびょうの全体図と、衛星から送信された廟内の様子が映し出されていた。特に異常は見受けられない。風化した瓦礫と、雑草の生い茂る参道、色褪せ朽ちた石碑があるばかりである。それを確認した麗紅は、着用式電脳ウェアラブルハードの電源を落とすと、紫霖ツーリンと向かい合った。
「――― 念のため言っておくけど、余計なことは考えるなよ。この前みたいにな。足手まといを連れて歩くほど、あたし達は甘くないぞ」
「―――― ……」
 振り返って念を押す少女に些か反感を覚えつつも、紫霖ツーリンは素直に頷いた。それを認めた麗紅リーホンが口元に笑みを灯す。
「いい子だ………行くぞ、」
 突撃の合図を高らかに放った少女が、勇ましく地面を蹴って門を後にした。残る者たちもそれに続く。正面に構える碑亭ひていを横切り、正門である午門へと一気に駆け抜けていった。屋根の半分が瓦解した正門に辿り着いた彼らは、一旦進行を止めて物陰に潜み、その先へ続く参道へと注視を走らせる。ひび割れた石畳の隙間には雑草が顔を出し、腕や首の欠けた石像が何体か、その周りを守護していた。
「静かだな。鳥の鳴き声一つ、聞こえやしない」
 海螺ハイルゥのヘリの叫びすら、もはや夢の如く遠ざかってしまっている。彼らの走る靴音のみが空の彼方へ吸い込まれ、辺りは依然として廃墟の静けさを保っていた。
 あたかも侵入者の不安を嘲笑うように、時間が停止してしまっている。よもや此処は【宝胤ほういん】の在り処などではなく、ただの遺跡なのだろうか。不自然なほどの静寂に、麗紅リーホン翡翠フェイツェイは互いの思惑を探るような視線を向けあった。
「ああ……気味が悪ぃくらいにな。だけど、匂うぜ、」
「血と殺戮の匂い……か?流石は狂犬、鼻が利くってわけだ」
「勝手に言ってろ」
 捨て鉢に吐き捨てるや、翡翠フェイツェイは無鉄砲とも思えるほどの勢いで潜んでいた門から飛び出していった。外套コートの裾を翻した影が、半ば滑稽とも思える速さで参道を突っ切り、そのまま大殿へと続く階段を駆け上がっていく……
「っ?!」
 刹那、空気を切り裂く鋭利な嘶きが翡翠フェイツェイを襲った。すんでのところで身を躱した彼の耳に、金属のかち合う甲高い音が飛び込んでくる。進行を妨害したその響きの正体が、時代がかった羽根つきの矢であると悟った時、翡翠フェイツェイの背後で不穏な影がうごめいた。
翡翠フェイツェイッ?!」
 麗紅リーホンの鋭い叫びと、石畳を砕く鈍い音が重なった。その奇襲を回避しつつ、抜き放った木刀で敵の喉もとを叩き潰す。手ごたえがある………はずだった。
「っておい!!なんの冗談だよこれは!!」
 翡翠フェイツェイの口から、悲鳴に近い悪態が飛び出す。余裕の一打が空を切ったからではない。背後を取った襲撃者には、首が無かったのだ。さらに付け加えるのなら、鈍色の鎧に溶け込むような、同色の肌をしていた。長いこと放置され、雨風に晒された鉱物のみが持ちえる、無機質の躰。
「……っ、くそ」
 背後を襲った者が、視界の端に立っていた風景の一部――― 参道を守護していた石像と把握した頃には、別の像が握る斧が翡翠フェイツェイの頭めがけて振り下ろされている。頭を掠めた重い唸りに舌打ちしつつ、翡翠フェイツェイが渾身の力を込めて木刀を叩き込んだ。斧の像に得物がめり込む。直後槍を薙ぎ払った隻腕の兵士像から逃れるように身を沈みこませ、そのまま彼の足元を払った。バランスを失った隻腕の兵士が、ぎこちない動作で膝をつく。瞬間、その顎を青年の踵が蹴り飛ばした。
翡翠フェイツェイ、伏せてろっ!!」
 漸く石像の罠から抜け出した翡翠フェイツェイに向かって麗紅リーホンが叫ぶのと、肩に構えた機関銃の引き金を引くのが同時だった。門を飛び出した麗紅リーホンは薬莢を撒き散らしながら、敵陣へと突進してゆく。静寂に閉ざされた遺跡に、無数の火花が散る音が炸裂した。
 硝煙の香が満ちる。少女が引き金にかけた指の力を抜くのを確認した翡翠フェイツェイは、瓦礫の影から這い出した。それに続いて、海嶺ハイレイ紫霖ツーリンが門から駆け寄ってくる。
「やった……のか?」
 己の所業に呆然としつつ、麗紅リーホンは荒い息を吐きながら呟いた。数多の弾丸を喰らった石像たちの躰から溢れるのは、生臭い血と臓物ではない。
絡まりあう電気配線のコードと螺子とがばら撒かれた、メタルの残骸。石像に見えたのは、金属の躰に施された塗料によるものだろう。血の代わりにどくどくと流れ出した燃料材に靴底を浸しながら、麗紅リーホンはこれが幇会ほうかいの仕業であるかを考えた。
「いや……まだ遊び足りねぇみたいだぜ、」
 翡翠フェイツェイのうんざりした一言で、その思考は中断された。はっと顔を上げた先―――雑草と瓦礫に囲まれた参道の向こう側を見れば、今しがた鉄屑に変えた兵士と同じ姿をした影が揺らめいているではないか。
 麗紅リーホンは傍に立っていた紫霖ツーリン海嶺ハイレイへ向けて押し退けると、再び引き金へ力を込めた。耳が痺れるほどの銃声の中、少女が声を張り上げる。
海嶺ハイレイたちは先へ!!」
 その命令を、最後まで聞くことはなかった。有無を言わさず少年の腕を引いた海嶺ハイレイが、先に階段を上り始めた翡翠フェイツェイの後を追い始めたからだ。容赦なく繰り出される弾丸の嵐を背に、大殿を目前に控えた階段を駆け上る。これは極楽へ続くきざはしか、あるいは……。
「伏せろ!」
 頭上に佇む寂れた祭庁さいちょうがその全貌を現した瞬間、さらなる敵襲が彼らを出迎えた。階段を上りきったと思うや、紫霖ツーリンの視界が反転し、その片隅を灼熱の塊が掠め去る。海嶺ハイレイが強引に突き飛ばしていなければ、今頃彼は火炎の餌食になっていたに相違ない。
「今度は火力装備かよ」
 忌々しげに舌打ちした翡翠フェイツェイの横で、海嶺ハイレイが銃を構えた。据えられた銃口の先には、少なくとも十数体以上の兵士像が壁を作っている。
「道を拓く。行けるか、翡翠フェイツェイ
「はっ、随分見くびられたもんだ。ブリキの人形なんざ恐かねぇっての。石なら話は別だけどよ」
「―――承知、」
 短く告げた戦いの合図と共に、弾丸が放たれた。眼を瞬く間に数体の兵士像がのけぞった時には、木刀を構えた翡翠フェイツェイが軍団の中へと飛び込んでいっている。
「……来い、」
 いきなり突き飛ばされ、祭庁の壁に強かに頭を打ちつけた紫霖ツーリンが漸く頭を上げた頃、再び海嶺ハイレイがその手を引いた。わけもわからず促されるまま、祭庁と言う名の盾から引き離され、兵士像が陣を作る広場へと足を踏み入れる。
 直後、立ち塞がった兵士たちが得物を構えるより早く、海嶺ハイレイが引き金を絞った。眼にも留まらぬ速さでありながら、兵士たちの急所を的確に狙った精緻な銃撃。これが人間であれば、撃たれた全員が地に伏していただろう。しかし今回ばかりは、相手が悪すぎた。
「埒が明かんな」
 感情の籠らぬ呟きが、次々と繰り出される銃弾の音に掻き消された。二人が駆けてゆく足元を兵士たちの火炎が穿ち、照準の狂った弾丸が耳元を掠めてゆく。たまりかねた海嶺ハイレイは、紫霖ツーリンの腕を引いて傍にあった碑亭へと駆け込んだ。彼を連れて大殿へ向かうのは、リスクが伴いすぎる。そう判断した海嶺ハイレイが、物陰へ少年を置いて戦場へと足を向けたとき、
「ちょっ……待てよ!!オレ一人此処に置いていくわけ?」
 紫霖ツーリンは思わず、言葉一つ残さぬまま背を向けた海嶺ハイレイの腕を掴んだ。碑と言う盾はあるにせよ、丸腰同然の紫霖ツーリンである。ここに置き去りにされて、まず無事で済むはずがない。一体どうすればいいのかを問おうと口を開きかけたとき、海嶺ハイレイの銃口が音もなく少年の眼前に据えられた。
「勘違いするなよ少年」
 その所作一つで少年を黙らせた海嶺ハイレイは、冷ややかに言い放った。
「俺は自分の主人の命令に従ったまでだ。貴様がこの任務の鍵になるなら、俺は貴様を守る義務がある」
 引き止められた男は、少年が暗に自分を守れと言っているのだと解釈したものらしい。海嶺ハイレイは抑揚のない声でそう告げると、銃を下ろして踵を返した。
「あれを黙らせてから、もう一度此処に来る。それまでは動くな。もし貴様が余計なことをした所為でこの任が遂行されなかった場合、俺は容赦などしない。よく憶えておけ」
 背中越しに投げられた怜悧な視線に、紫霖ツーリンは返す言葉を失った。海嶺ハイレイは弾倉に弾を込め直すと、呆然とそれを見送る少年など見向きもせずに、瓦礫同然の碑亭から飛び出していく。
 行く手を遮った人造兵たちが火を放つよりも先に、海嶺ハイレイの銃弾が彼らの頭半分をふっ飛ばす。巨体が倒れるのを見届けぬうちに、剣や槍を振るう兵士たちを相手取っていた翡翠フェイツェイへと火気を向けた兵士の手首を撃ちぬいた。続けざまに放った弾丸が、列を組んで大殿への侵入を阻んでいた軍団を一掃した時、階段付近から耳障りな破裂音が聞こえてくる。
 振り返るまでもない。参道の兵を沈黙させ終えたらしい麗紅リーホンが、機関銃をこちらに向けた気配がしたかと思うと、大殿の前を陣取る守護兵たちに無数の銃弾を浴びせかけた。如何に頑丈な人造兵と言えど、まず無事でいられるはずはない―――
「なっ?!」
 だが銃声が止み、うっすらと立ち込めた硝煙の向こうに、未だ倒れぬ人影の群れを見出した時、麗紅は驚愕の声を抑えられなかった。頭部や腹部を破壊され、なおも攻撃せんとする灰色の兵士像に一つ舌打ちする頃には、槍や剣を携えた歩兵たちが少女の四方を遮っている。
本能的に引き金を絞り、目の前の兵に弾丸の嵐をお見舞いしながら麗紅リーホンはその場を逃れた。あと一歩間違えば、背後にいた兵士の振るった太刀が、少女の頭を真っ二つにしていたかもしれない。
「――― 冗談じゃないぞ、くそっ」
 間一髪、近くの瓦礫に転がり込んだ麗紅リーホンが罵倒の声を漏らす。どんな攻撃も通用しないしぶとさも感嘆に値するが、死も痛みを恐れぬ感情の欠落が奴らをより厄介な軍団へと仕立て上げている。失われた遺跡と、そこに眠る財宝を守護する死の番人。敵を殲滅させぬ限り、彼らは戦い続けるのだろう。奴らに比べれば、地獄の亡者の方がまだ可愛いものに思えてくる。
 銃弾を装填しながら歯噛みした麗紅は、瓦礫の端から戦況を窺った。どこかにこの人造兵軍団を動かしているシステムがあるはずだ。最悪誰か一人でも大殿へ乗り込み、その装置を破壊しなければ先へは進めない。
 そんな思考をめぐらせていた最中、翡翠フェイツェイが矛を掲げた兵士を地へ叩き伏せたのが目に留まった。飾り気のない質素な鎧を纏った歩兵である。似たような背格好の兵士たちが、いつの間にか入り口を塞ぎ、大殿周辺には火器を備えた連中が鉄の砦を築いている―――
「武器を持つ歩兵……火器を扱う連中は後方支援か?いや、翡翠フェイツェイが歩兵を倒したことで陣形が変わった―――?」
 無意識の呟きが耳に届いた時、少女の瞳に確信の輝きが閃いた。弾かれたように戦場――― 正しくは兵士たちの位置を見渡す。そこにある種の法則を見出した彼女の口元に、傲然とした笑みが広がっていった。麗紅リーホンはピアス型の通信機を指先で弾いて起動させるや、
翡翠フェイツェイ海嶺ハイレイ!聞こえるならそのまま聞いてくれ。突破口が見つかった」
 肩に担いだ武器の銃把を握りなおしながら、きっぱりと言い放つ。
「今からあたしが、祭庁から見て二時の方向を固めてる連中に一掃射撃を仕掛ける。連中の注意が逸れている間、海嶺ハイレイ紫霖ツーリンを大殿へ誘導してくれ。翡翠フェイツェイはあたしの援護を頼む。詳しいことは、第一段階がクリアしたあと伝える」
「おうよっ」
「心得た、」
 二人の返答が重なったのを確認すると、麗紅リーホンはそのまま通信先を海螺ハイルゥのヘリへと切り替えた。耳障りなノイズが鼓膜を掻き鳴らした後、通信を受け取る気配が届く。
「――― 海螺ハイルゥ。急な頼みが出来た。今すぐ大殿上空まで来てくれないか?」