「ところで、どうしてあんたがここに居るんだ?」
 海螺ハイルゥの機体が上空二〇〇〇mを浮遊し始めた頃。内部に備えつけた電脳端末と向かい合っていた麗紅リーホンは、隣に座る翡翠フェイツェイにそう問いかけた。上海の街並みにしばしの別れを告げて以来、初めて耳にする少女の声である。
 浦東プートンの支部局にある麻夏マーシァの電子機器と情報を共有・並列化した機体の電脳端末に、今のところ変化は見られなかった。今頃特務室では、麻夏/Rb>マーシァが膨大な網絡ネットワークを相手に苦戦を強いられているのだろう。彼女の侵入黒客ハッキング能力は超がつくほど卓越していたが、如何せん相手が悪すぎた。長い年月をかけても見つからなかった情報を、禹廟うびょうに辿り着くまでに探し出さねばならぬのだ。そちらの技術に疎い麗紅リーホンは、ただ黙って彼女からの便りを待つほかない。募る苛立ちを押し殺しながら、少女は再度、傍らの翡翠フェイツェイに問いを重ねた。
「あたしの記憶が確かなら、青蓮房しょうれんぼうにいるはずだけど、」
「バァさんは休業中。店はもぬけの殻だった」
「…… 桂生クィシェンが?」
 思わぬ返答に、麗紅リーホンは作業する手をぴたりと止める。
「別に居なくても変わりゃしねぇけどよ。向こう岸の連中から積荷を受け取って、紹介状確認すりゃいいだけの話だ。ガキだって出来る」
「……妙な話だ」
 翡翠フェイツェイの言葉を半分聞き流しながら、麗紅リーホンは僅かに眉根を寄せた。この状況で、青蓮房の主人が上海を留守にしていることに違和感を覚えつつ、それを気取られぬよう再び作業を開始する。
「んで、上海港からの帰りに室長から連絡が入ったわけだ。そのお陰で、ほれ。あそこに積荷があんだろ」
「…… どうでもいいけど、翡翠フェイツェイ。あれに手ぇだすなよ。桂生クィシェンに殺される」
「何ァに。俺だって分別はあるぜ。いい稼ぎ口を無くしたくねぇしな」
「あんたが言うと、真実味に欠けるな。魔が差すってこともあるんじゃない?」
 楽しげな微笑とともに、麗紅リーホンが同僚を揶揄からかったとき、不意に電脳の画面が赤く明滅し始めた。続いて、それまで確認していた文件ファイルの上に、錯誤エラーの文字が重なる。
「室長!!何があった?」
 關断オフにしていた無線通信を素早く目覚めさせた麗紅リーホンが、鋭い声で呼びかけた。それに呼応して、電脳の上に据え付けた監視器モニター麻夏マーシァの姿が映し出される。
「政府の数据庫データベースを経由して、禹廟の内部構造を入手しようとしたところですわ――― そちらでなにかトラブルが?」
「端末が、錯誤エラーを表示した。画面が凍結して動かせない状態だ」
 麗紅リーホンの台詞に、麻夏マーシァの顔が曇った。どうやら浦東の電脳は正常に機能しているらしく、こちらの不備に気付かなかったようだ。
「今存取アクセスした文件ファイルに、電脳病毒ウィルスが仕込まれていたのかしら。此方は問題ありませんが、もしかしたらそちらの端末には有害なものであるかもしれませんわ」
 独自の安全性程序セキュリティプログラムで武装した麻夏マーシァの電脳機器に対し、最低限の程序プログラムしか組み込んでいない機動局の電脳端末は赤子も同然だった。網絡ネットワークの海に潜む毒牙にかかった機体の端末は、こうしている間にも危機を告げる緊迫した電子音を鳴り響かせている。
「お待ちください、今此方から…――― ……」
 ヘリ内部に満ちた警告音が一際高くなったかと思うと、支部局と繋がっていた監視器モニターの通信が唐突に遮断された。膠巻フィルムをなくした映写機の如く沈黙し始めた通信画面を見つめて、麗紅リーホンが呆然と呟く。
「嘘だろ……おい、」
 主電脳の危機を感知した無線機が、自動的に通信を解除したものらしい。錯誤エラーの文字が急き立てるように明滅している。やがて真っ赤に染まった画面に、気が遠くなるほどの編碼コードの羅列が目まぐるしく流れ始めた。
 麗紅リーホンは絶望的な面持ちのまま、両手で顔を覆った。放心した魂の欠片と、深く長い溜息を吐き出した口唇は、今にも泣き出しそうなほど細く震えている。
 手の施しようがなかった。系統システムの強制終了をかけようにも、画面が凍結していては話にならない。無理に電源を切れば、それまで蓄積していた【宝胤】に関する数据データがお釈迦になる危険性もあった。大体、情報が皆無の状態では烏龍幇ウーロンパンと渡り合うことさえ出来ないのだ。【宝胤ほういん】の暴走を止めるための鍵がなければ、こうして廟へと急ぐことすら意味を失う。
「退いて」
 おもむろに掛けられた声が、少女を現実へ引き戻した。焦点の定まらぬ眼差しを上げた先に居たのは、浦東を出て以来沈黙を守っていた少年だ。
「オレがやる、」
 短く告げられた台詞が、異国の言葉のように聞こえた。麗紅リーホンの言葉を待たずして、横から鍵盤キーボードに何かを打ち込む紫霖ツーリンの姿も、すぐには理解しがたい光景であった。一体こいつは何をしでかそうとしているのか……自らへ疑問を投げかけているうちに、編碼コードの羅列が不意に消え、別の窓口ウィンドウが表示される。
「……… 嘘だ、」
 先ほどと同じ台詞にはしかし、別の響きが込められていた。最悪の状況が打開されたからではない。麗紅リーホンは半信半疑のまま、端末の前から退いた。少女の代わりに席を陣取った紫霖ツーリンは顔色一つ変えぬまま、的確に命令を打ち込み、電脳からの応答を次々と処理してゆく。
「これ、使える?」
 椅子の横にぶら下がっていた風鏡ゴーグルのようなものを指して、紫霖ツーリンが問うた。視覚に干渉することで、網絡ネットワークの情報に直接介入することを可能にした、頭部装着顕示器ディスプレイである。
「使えるんじゃないか?……どうするつもりだ?」
「室長にもう一度連絡を取ってみる、」
「けど錯誤エラーは続いているんだろう?そんなものを引っ張り出しても……」
「だからだよ。こっちの顕示器ディスプレイから、もう一度動かしてみる」
 この装置も端末と接続されており、その一部として機能している。謂わば第二の顕示器だ。ならばこちらから、電脳の不備を修正してやればいいと考えたのだろう。端末の顕示器を分割する手続きを踏んだあと、系統システムの再起動を告げる文面が現れた。錯誤エラーが生じたのは、どうやら電脳病毒ウィルスの所為ではなかったようだ。
「直ったのか、これ」
「一旦網絡ネットワークから開放しただけ。壊れたわけじゃないから直す必要はない。……消されちゃまずい数据データとかあった?」
「そこに【宝胤ほういん】に関する磁盤ディスクが入ってるんだ。情報の本体は室長が管理してるから消去されても問題ないけど、今此処で消去されたら困るな」
 麗紅リーホンの指差した先には、端末に差し込まれた硝子質の鍵―――大量記録磁盤ディスクがあった。ふーん、と気のない返事を寄越しながら、紫霖ツーリンが装置を起動させる。半ば縋るように打ち明けた麗紅リーホンの困惑など意に介さぬ素振りで、装置を眼前にあてがった。
 とたんに映し出された無機質な闇の中、緑色の電子網が明かりを灯した夜の街のように、徐々に広がっていく。電子化された燈綴フィラメントの束が肌を撫でていった。その光たちがまるで生きもののように、漆黒の闇に幾何学的文様を刻み始める。
 煌めく軌跡が濃緑から蒼へと移りゆき、眼の覚めるような金糸雀と混ざり合う。そこから放たれた輝線は毒々しい桃色と鮮やかな紅を生み出し、花火のように弾け散った。けばけばしいネヲンの光彩が砂塵のように舞い上がり、新たな像を紡ぎだしてゆく。
 やがて極彩色の光の粒子が、奇怪な壁画となって眼前を埋め尽くした。麻薬の幻覚が見せる邪教のアラベスク。電子の輝きが炎の如く燃え上がり、膨張し、螺旋を描いては消えてゆく。万華鏡のように時々刻々と移り行く色彩は混乱しているかのように見えて、その実計算されつくした緻密で無駄のない幾何学のジオラマを生み出しているのだ。
 巨大な曼荼羅がちかちかと瞬きながら頭上で踊る。世界の理が滞りなく廻っていることを、教えるかのように。その周囲を、浄土へ向かう霊魂を思わせる白い何かが取り巻いていた。仮想空間に飛び込んだ、利用者たちの電子回線である。
 麻夏マーシァの回線はすぐに見つかった。電気信号の虚構で造られた彼岸を進む、人魂を思わせる白い浮遊物。その上に、萌黄色の利用番号が瞬いている。
 そのまま彼女の端末に連絡を送ろうとした紫霖ツーリンは、ふと回線に接続する手を止めた。麻夏マーシァの回線は、紫霖ツーリンの存在に気付いていない。紫霖ツーリンは時間が許す限り、その行く先を辿ってゆこうと決めた。素直に麻夏マーシァと合流して、麗紅リーホンにこの席を譲るのは惜しい。今こそ【宝胤】についての情報を得る絶好の機会なのだ。それをみすみす逃す手はないだろう。
 紫霖ツーリンは画面の端に磁盤ディスクの情報を呼び出した。蓄積された【宝胤】に関する数据データを眺めながら、適度な距離を保って麻夏マーシァの行方を追いかける。間もなく麻夏マーシァの電子回線が急降下した。頼りなげな白い人魂が、赤橙せきとうの曼荼羅を突き破って網絡ネットワークの最奥へと飛び込んでゆく。
 慌ててそれを追いかけた紫霖ツーリンは、自分の躰が深海へ沈んでゆくような錯覚に囚われた。あるいは空から堕ちてゆく浮遊感を。巷に渦巻く膨大な情報の化石が、一度消え去ったはずの内存メモリの残骸が、引力となって彼を網絡ネットの暗部へと引きずり込む。立体的な空間の概念を持たぬ虚構の渦たちが誘う、地獄への水先案内。
 これ以上の深入りは危険であった。麻夏マーシァの電脳ならばいざ知らず、機体の端末がこの領域の情報に耐えられるとは思えない。下手をしたら、今度こそ本当に病毒ウィルスに食われる可能性だってある。追跡を諦めた紫霖ツーリンが、麻夏マーシァの回線に通信を入れようとしたその時。
「………?」
 紫霖ツーリンの神経が、幽かな吐息にも似た囁きを捉える。紫霖ツーリンはその声の在り処を瞬時に手繰り寄せた。彼の意思に従うが如く現われた不自然な光の流れ。それは例えて言うのならば、足跡の残る雪の上に、真新しい雪が降り積もった様子と似ていた。
 麻夏マーシァを追う使命を忘れた紫霖ツーリンは、吸い寄せられるようにその情報のルートを辿っていった。耳の奥にさざめく声が聞こえる。雪降る聖夜に感じた、不愉快な耳鳴りではない。幾千もの夜を越え、遥か彼方から呼びかける、懐かしい声。
 不意に淡く輝いた光の群れが、回路の流れに沿って意識を泳がせていた紫霖の肌を取り巻いた。群れなす光が少年の目を塞ぎ、慈しむように躰を滑ってゆく。彼の肌をなぞった感触は、冴えた月光のような冷たさを孕んでいた。
 やがてその輝きが、扉の像を結び始めた。その把手に手をかける。瞬間、辺りを取り巻いていた極彩の幻覚が遮られ、新たな空間へと紫霖ツーリンを導いた。
 映像の断片が、積み重なるようにして少年の周りを囲い込む。そして現れたのは、薄闇を纏った部屋だ。宮殿の閨房を思わせる静謐な一室。連子窓からは朧な光が差し込み、壁を奔る龍の雄渾なる姿を浮かび上がらせている。絹緞子がかかった天蓋つきの寝台や、繊細な彫刻が施された翡翠の長椅子、螺鈿細工の違い棚といった壮麗な調度に、青磁の香炉からたなびく沈丁香の煙が立ちこめる。
 色彩を感じさせぬ部屋の中、寝台の上に置かれた小さな箱が金色の光を帯びて紫霖の眼を貫いた。自然にその箱へと手を触れる。それを待っていたかのように、どこからともなく女の声が響いた。
「侵入者を感知。認証暗号コードの入力をお願いします」
「……認証暗号?」
 渡された言葉を咀嚼するように、紫霖ツーリンが繰り返す。だが戸惑いが生まれるより先に、彼は自分が何を言うべきかを理解していた。
「水高くして天をかっし 瑞兆の鳥は啼けど 蛟龍こうりゅうは天に交わらず」
 租界の片隅で女に耳打ちされた言葉。意味が砕けた呪文の響きが、紫霖ツーリンを取り巻く空間の何処かへと吸い込まれてゆく。
「認証暗号を受理します。系統存取システムアクセス資格の確認」
 耳朶に滑り込んできた声がそう告げると同時に、紫霖ツーリンの首筋を柔らかな感触が横切っていった。部屋に満ちた芳香が、少年の肌を抱くように。紫霖ツーリンの躰を包んだ柔らかな感触が、やがてその下に隠された神経へと収束していった。
 接続された動脈の中をゆるやかに広がってゆく、見えざる電子の抱擁。それに身を委ねかけた刹那、項に焼け付くような感覚が走り抜けた。
「かはっ………」
 躰を貫いた電撃の痛みに、思わず身を捩った。螺旋状に渦巻いた躰の細胞が抉り出され、電子の拘束とともに膨張した神経が、じわじわと喰い尽くされていくようだ。魂魄を引き剥がされるような痛みに、意識が蝕まれてゆく。
「……了承しました。数据データをお受け取りください」
 声に続いて、それまで紫霖ツーリンを苛んでいた痛みがふっと遠ざかった。苦痛に歪んだ視界が拓ける。それと同時に、寝台に置いた箱が開き金色の光芒を乱射した。咄嗟に画面の端に置き去りにした【宝胤】の数据文件データファイルに眼を遣る。解凍された情報が、恐るべき速さで磁盤ディスクの中に雪崩れ込んでゆくのが確認できた。
 爆発的な情報が、みるみるうちに磁盤ディスクの容量を圧迫してゆく。それに比例して、辺りを取り囲んでいた豪奢な部屋が、剥がれ落ちるように溶解し始めた。箱から飛び出した光が、空間を形作っていた情報の粒子を、何かの数据データへと変換しているのだ。
 紫霖ツーリンは無意識のうちに、磁盤ディスクに流れ込んだ情報を選び捨てていった。怒涛の勢いで溢れ出る電子の奔流が、少年に意思によって凍結し、圧縮される。彼の意識はもはや電脳の一部であった。繋がれた神経から命じられたとおりに情報が収束してゆくさまは、さながら王に従順な騎士を髣髴させた。
 やがて磁盤ディスクの容量と必要な情報とが一致した時、紫霖ツーリンはこの空間の流れを断ち切った。争いの終焉を告げるように伸びた少年の手が、鍵状の硝子体に触れる。躰を覆っていた電子の糸から開放された瞬間、紫霖ツーリンはその鍵を電脳端末から引き抜いて背後へと放り投げた。
「―――― 終わった……のか?」
 背後に控えていた麗紅リーホンは、出し抜けに飛んできた磁盤ディスクを受け取めながら呆然と問いかける。彼の作業が終わりを迎えたことを、自らに言い聞かせるかのような口調だった。
 装置をはずした紫霖ツーリンの肩越しに、正常に機能を始めた電脳が見えた。幾つかの窓口ウィンドウが、支部局から送られてきた文件ファイルの一覧を映し出している。
「大丈夫ですか、麗紅リーホン?」
 無線通信も危機を脱したらしい。先刻眼にしたのと同じく、何処か不安げな影を宿した麻夏マーシァの姿が無線用の画面に映し出される。
「ああ、こっちは心配ない。検索を続けてくれ、室長」
「それが……先刻【宝胤】に関する文件ファイルが此方に送られてきましたの」
「え?」
「禹廟の内部構造や、宝胤解除用の程序プログラムも入っていますわ……何か心当たりがありませんか?」
 困惑の面持ちで首を傾げた麻夏マーシァに、麗紅リーホンは躰中の体温が一斉に低くなったのを感じた。騎士団きっての黒客ハッカーの言葉に眼をみはりながら、麗紅リーホンはゆっくりと紫霖ツーリンを顧みる。
「……まさか、」
 驚愕に塗りつぶされた麗紅リーホンの声は、ひどく掠れていた。幾分蒼白になった顔で椅子に凭れ掛かった紫霖ツーリンは、少女の動揺など気にも留めない。その、さも当然だという調子が恐ろしかった。たった数分で、室長―――いや、騎士団をして見つけ出せなかった忌まわしき財宝の手がかりを、こうも容易く手に入れてしまったその所業に、得体の知れない恐れを憶えた。
 機体の外で、風が低く唸りを上げて空間を揺らしている。知らない誰かを見るような心地で紫霖ツーリンを凝視していた麗紅リーホンの手には、鋭利な煌めきを放つ鍵がしっかりと握られていた。