「――― 室長。今の通信がどこから来たか、割り出せたか?」
 猜疑と困惑を孕んだ沈黙の中、凛と張った声が響いた。声をかけられた者は、すぐに自分だとは気付かなかったらしい。微睡みから覚めた時のように眼を瞬かせた麻夏マーシァは、声の主である麗紅リーホンに頷き返すと、
「現在追跡中です。ですが強力な電波妨害ジャミングがされていたようで……特定には時間がかかると思いますわ」
「……分かった」
 殊勝に頷いた麗紅リーホンが、背後の少年と対峙した。それまで張りつめた強さをもって紫霖ツーリンを捕らえていた眼差しが、僅かに翳る。そこに過ぎったのは、逃げ場を失ったもの特有の虚しげな諦観だった。
「こんなはずじゃ、なかったんだけどな、」
 自嘲するような呟きは、誰に向けられたものであったのか。やがて大きく息を吸い込んだのち、麗紅リーホンはそっと目蓋を伏せた。あたかも胸の内にある追憶を、掘り起こすかのように。
「遥か昔のことだ。大陸中を巻き込んだ大規模な内乱によって、今この国が建国されたのは知っているな? その時革命を指揮した男が、現皇帝の祖先であることもご承知の通りだ」
 天華宗主国連邦は、大陸の領土を四分割する元老宗主家と連邦議会を中心に据えた複合国家である。その頂点に君臨するのが皇帝であり、形式上の統治を行うのもまた彼だ。そして現在の皇帝一族は、前王朝を倒し、連邦の礎を築いた革命家の末裔でもあった。
「革命家・ファン 天燦ティエンシャンを旗頭とした革命軍は、弱体化した前王朝を瞬く間に圧倒し、滅亡させた。さて質問だ。彼は元々華南に暮らしていた皇明こうみん族の商人に過ぎなかった。そんな男が率いた革命軍が何故、弱体化していたとは言え強大な軍事力を持っていた王朝を倒すことが出来たのだと思う?」
 不意に質問を寄越されて、紫霖ツーリンは面食らった。だが分からない問題ではない。その程度ならば、小学生でも答えられる。
「皇明族が高度な科学技術を持っていたから」
「正解」
 麗紅リーホン/Rt>は口の端に勝ち誇ったような笑みを浮かべて見せた。生徒から思ったとおりの答えを引き出した教師の顔で、講義を続ける。
「皇明族は当時欧州列強ですら開発していなかった優れた科学技術を駆使し、王朝を退け、新たな覇者として大陸に君臨した―――― ここまでは史実通りだ。だが、理由はそれだけではなかった」
「………?」
「あんただって、聞いたことくらいあるだろう。天帝の奇跡ってのを」
「……江南こうなん戦役?華北戦争とか、」
 ファン 天燦ティエンシャンが革命軍において強大な権力を持つことが出来たのは、類稀なるカリスマ性のためであるとされる。自らを天帝の末裔、あるいは神の寵児と称して、民衆に様々な啓示を与えたというのは、初等学校で習う話だ。だがそれ以上に有名なのは、彼が革命の際に引き起こした奇跡の数々であった。
 先刻述べた江南戦役の洪水を筆頭に、前王朝軍に天罰と称して原因不明の疫病をもたらしたという逸話、前王朝を滅亡させた華北戦争の際に王都を襲った地震、さらには彼らの勢力を鎮圧しようと大陸に乗り込んだ列強軍を震撼せしめた落雷など、その挿話は枚挙に暇がない。人知を超えたファン 天燦ティエンシャンの奇跡は、彼が自称した神の寵児になぞらえて、天帝の奇跡と呼ばれるようになった。
「だが、本当に彼が神の奇跡を起こしたわけではないんだ」
 麗紅リーホンが気まぐれのように、円卓に据えられた電脳を叩く。やがて立体映像ホログラフィが航空地図の代わりに、一つの古びた書物を映し出した。
「革命よりさらに古い時代――― 紀元前二千年以上前の伝承が書かれたものだ。気が遠くなるほど昔の話だな。……読んでみても意味は分からないと思うけど?」
 書物を覗き込んだ紫霖ツーリンをからかうように、麗紅リーホンが言った。本の端は所々破け、かつては黒々としていたであろう墨の筆跡も、今では見る影もないほど薄れてしまっている。専門の鑑定士が見たとしても、解読するのは困難を極めたであろう。
「空には龍が飛び、山奥には仙人が棲み、地上には魔物が跋扈ばっこしていたという伝説の時代。山の彼方からある時、神を名乗る一族が地上に舞い降りた。彼らは人間とは違う言語を喋り、不思議な神器を用いて嵐を呼び、洪水を起こし、天候を自由に操ることが出来たという。幻の民だ」
 麗紅リーホンの口から滔々と語られる御伽噺は、この書物に記されていたものなのだろう。しかし今は、そんな夢物語に耳を傾けている余裕はないはずだ。
 紫霖ツーリンは不満げに麗紅リーホンを見つめた。そんな彼の視線に気付いたのだろうか。少女はその無言の抗議を軽くいなすように苦笑して見せると、
「勿論、彼らが本当に神の一族だったのかは定かじゃない。だけど奇跡は現実に残っていた」
「………?」
「まだ分からない?彼らは神の一族でも、魔法使いでもない。とんでもなく高度な科学技術を持った民族だったんだよ。革命を起こした皇明族よりも、もしかしたら現在のあたしたちでさえ、及びもつかないほどの文明を持っていた連中だったってことさ」
 突拍子もない話に、紫霖ツーリンは眩暈さえ覚えた。現実離れした話に思わずよろめいた紫霖ツーリンへ、麗紅リーホンがさらに追い討ちをかける。
「オーパーツって言葉、聞いたことない?古代の遺跡から発掘されるはずのない出土品を指す、場違いな加工品という意味だ。そのお仲間だと思ってくれればいい」
 この非常事態に何故、こんな虚妄じみた伝承を聞かねばならないのか。一笑に付す気力さえ持てぬまま紫霖ツーリンが頭を抱えた時、ふいに同じような話を以前にも聞かされたことを思い出した。雪が降る寒い夜のことだった。暗い闇の片隅で、あどけなくも凛とした声に耳を傾けていた、聖なる夜。そう、丁度今のように………
「この書物は、公式には残されていない資料なんだ。歴史の表舞台には決して出てくることのなかった幻の書物……その伝承に眼をつけた革命軍の人間は、自称神の一族たちが開発した技術をそのまま自分たちの戦力にすることが出来ないかと考えた。そして大陸中に散らばった神の一族の痕跡は、革命中に殆ど発掘され、兵器として活用された」
「…… それが、天帝の奇跡の正体?」
「ご名答」
 麗紅リーホンは軽く頷くと、立体映像ホログラフィに手を翳した。彼女の指先が翻った次の瞬間には、例の書物は跡形もなく消え失せている。麗紅リーホンが操る特殊な電磁波が次に映し出したのは、紫霖ツーリンにも見覚えのある懐中時計だ。
「その中でも特に強い威力を持つ科学装置を、革命軍は【宝胤ほういん】と名づけ、神の奇跡を民衆に見せつける道具として利用した。後に欧州列強の軍を焼き払った雷も、前王朝軍を見舞った疫病も、この忌まわしき宝が与えたものだったのさ。――― これが、今日まで語られることのなかったあの叛乱……俗に天主てんしゅ革命と呼ばれる国家改造の真実だ」
 紫霖ツーリンは無意識のうちに唾を呑み込んだ。そんな話、聞いたこともない。だがもしそれが真実だとしたら、それほど強大な力が、何故今まで誰にも知られることのないまま封印されてきたのだろう?
「さて。前王朝を滅ぼしたあと、ファン 天燦ティエンシャンは革命の余波で大陸中を跋扈するようになった軍閥を、新政府の配下に置こうと試みた。その中でも特に力のあった四軍閥――― 重慶チョンチン一体を掌握したシュヮン、南方守護のフー、宿敵と恐れられた天津テンシンロン、唯一の協力者だった蘇州スーチョウフェン……これら四家とは、長いこと膠着状態に陥っていた。この四家が後に今の宗主家の元祖となるんだけど、まぁそれはいいとして。結局長きに渡る両者睨み合いの決着を左右したのは、【宝胤】の存在だったんだ。
 新皇帝と相容れない勢力でありながら、皇明族の血を受け継ぐ彼らは、もとは革命軍に力を貸した者たちでもあった。彼らはその財力と人脈を駆使して【宝胤ほういん】を発掘し、皇帝の代わりにそれを所有していたんだ。だが、大きすぎる力は時として災厄を招く。【宝胤】の威力が手に余るようになり、欧州列強にその技術が渡ることを恐れた四軍閥は、【宝胤】の保護を条件に皇帝一族……ファン家に迎合する道を選んだ。この申し出を受け入れた皇帝は、各【宝胤】の主源電脳マスターコンピュータを大陸各地に封印し、それを作動させるための鍵――― 【宝匣ほうきょう】と呼ばれる程序外囲設備プログラムデバイスを、紫禁城の一画で厳重に保存した」
「……それが、これ?」
「そう。あんたが持っていた懐中時計も、【宝匣ほうきょう】の一つだったってわけ。これが降誕祭クリスマスの夜にあたしたちが奪還した、【紅楼こうろうの夢】と呼ばれる【宝胤ほういん】の封印を解く鍵だったんだ」
「……何でそんなものを、母さんが持ってたんだよ」
 訝しげに問い詰めた紫霖ツーリンを、麗紅リーホンはちらりと見遣ると、
「あんたの母親が、これをどこで手に入れたかは知らない。この話には続きがあるんだ。四軍閥が皇帝の配下につき、ファン家がめでたく大陸を統一して間もなく、王都にある紫禁城が火災に遭った。混乱の最中、紫禁城に安置された幾つかの財宝が盗賊によってごっそり盗まれたらしい。その中には運悪く、【宝匣ほうきょう】も含まれていた。不埒者によって民間に流された【宝匣】は、それ以来消息を絶った。
 この懐中時計からも分かるように、【宝匣】の外面はただの骨董品に過ぎない。その真の価値を知るものは、せいぜい宗主家と煌家くらいのものだ。天帝の奇跡が科学兵器によるものだと知る者は彼らくらいだし、この噂が人口に膾炙かいしゃしないよう革命軍が徹底した情報操作を行っていたからな。だが……」
 麗紅リーホンは思わせぶりに言葉を切ると、そこでまた大きく息を吸い込んだ。そしてこれからが本番だとでも言うように、一同をゆっくりと見渡す。ほんの一瞬、肌を刺すような緊張が会議室を呑み込んだ。真実を知っているはずの総帥たちでさえ、彼女が醸し出す静けさに息をひそめている。
「一度眠りについた化け物たちを、再び目覚めさせようとする者が現れた」
 少女の顔つきが、俄かに険しさを帯びた。
「奴らはどういうわけか、宝とともに封印された天帝の奇跡が何者であるかを知ってしまった。その恐るべき力に眼をつけた奴らは、宝を再び目覚めさせ、その力を我が物にしようと目論んだんだ」
「奴らって……」
「犯罪結社・烏龍幇ウーロンパン
 答えを聞くまでもなかった。ただ、はっきりと耳にするまで自分の予感を信じたくなかったのだ。
 麗紅リーホンが素っ気なく言い放った名前が、あたかも夏空を突如覆った暗雲の如く、紫霖ツーリンの胸の内に立ち込めた。頭のどこかで、警笛が鳴っている。これ以上聞いてはならない。これ以上知れば、もう後戻りできなくなる、と。
「その理由は、あんたもご承知のとおりだ。そして奴らの目論みを打破するべく組織されたのが、あたしたち騎士団第九部、特別派遣捜査局ってわけ、」
 だが少年の内に芽生えた葛藤に気付かぬように、麗紅リーホンは説明を続けた。
「奴らの行動を騎士団の権限で封じるだけが、あたしたちの仕事じゃない。【宝胤ほういん】を作動させるために必要なのは、【宝匣ほうきょう】だけではないんだ。【はこ】に【宝胤】の数据データを読み込ませるには、その二つを特殊な電磁波で接続する必要があった。その力は、人間の体内に蓄積される電気信号――― 『気』と呼ばれる生命エネルギィによって生み出されるものだった」
 人間の躰は、脳から発せられた微小の電気信号が神経を伝い、躰の各位を動かすための命令を受け取ることによって操られる。その電気信号の能力を活かし、大陸に特異な階級社会を生み出す源となったのが、極小晶片マイクロチップによる個人情報の識別・統制である。大陸各地から送信される電波と、体内の電気信号が連動することによって機能するこの晶片チップは、まさに生きた極小電脳として大陸の生活と社会に浸透していた。
「あたしたちの脊髄に埋め込まれた晶片チップは、基本的には個人情報を識別するためのものだ。だがほんの一握りの上層階級者は、己の『気』を制御し、自在に操ることを可能にする程序プログラムを搭載した晶片チップを有している。どんなに頑張ったところで『気』が躰の外側に出ることがないのが普通の人間だが、彼らは違う。自分の意思一つで、躰に流れる電気信号を増幅・変調させ、躰外へ干渉させることが出来るんだ。
 しかしながら、稀に彼らと同じような力を持った人間が出てくることがある。上層階級者しか手に入らない晶片チップを持たないにもかかわらず、だ。そうした人間を、あたしたちは【宝鍵客ほうけんかく】、あるいは【冥夜めいやの使徒】と呼んでいる」
「冥夜の、使徒……」
 うわ言のような呟きと、あの女から聞かされた単語がぴったりと合わさった。麗紅リーホンはその意味を確かめるように、深く頷く。
「そして彼らが発する電磁波が、【宝胤】と【匣】を繋ぐ唯一の手段なんだ。彼らは上層階級者たちのように、自分の能力を制御することが出来ない。それ故に、本人が意図せずして災厄を振りまくことがしばしばある――― 宝蘭堂ほうらんどうに居る人間は、そう言う奴らばかりを集めた部署ってわけ」
「……お前も?」
「まぁね」
 麗紅リーホンは曖昧に肩をすくめた。決まり悪そうに眉を寄せながら、さりげなく少年から視線を逸らす。
「第九部は、宝の数据データを【匣】に移しかえ、再び【宝胤】が目覚めぬようにするために集まった。今話した物語は、歴史の表舞台から追放された逸話だ。あたしたちはそれをもう一度、闇へと葬り去らなくちゃいけない」
 夜闇が徐々に明けていくように、あるいは空を覆った霧が晴れていくように。あれほど知りたがっていた真実がその姿を明らかにしてゆく。だがそこに現れたのは、晴れやかな日輪とは縁遠いものだった。麗紅リーホンが延々と語り続けた、夢物語と紙一重の歴史の裏側。けれどもまだ、彼女が語っていない真実があった。
 彼女は何故、自分をあの家に置いておくのだろう。
 紫霖ツーリンが知りたかったことは、結局のところそれだけだった。禍々しさすら感じさせる、史実の真相などではない。麗紅リーホンが告白した物語の向こう側に、自分が本当に求めた答えが、まだ隠されているような気がするのだ。
 もしかしたら……。女の残した言葉と、不意に胸を塞いだ黒い疑惑が絡まりあう。自分もまた、【冥夜の使徒】としての素質があり、騎士団はそれを欲しているのではないだろうか。
 もとより紫霖ツーリンは、第九部の目的とやらに関係のない存在だった。彼らの舞台に立つべきでなかった自分こそ、場違いな存在なのだ。なのに、出逢ってしまった。噛み合うはずのなかった運命の歯車が、どこで間違ったのか、あの聖夜からきりきりと軋みをあげて廻り始めてしまったのだ。
 出逢ってしまったことが、すべての災厄の根源だとでも言うのか?何故自分は、未だに舞台から降りることが出来ぬまま、彼らに翻弄され続けているのだ?
 それを暴くのは抵抗があった。真実を知ることを恐れているのではない。最後に残された闇の紗幕ヴェールを剥がした時、自分に選択する余地が残されていなかったとしたら?麗紅リーホンたちの手駒として生きるしかないという道しか選べなかった時はどうする?自分の尊厳を犠牲にして、彼らに服従しなければならないと言うのか。オレはそれを、受け入れなければならないのか。
 様々な憶測と疑念が、一瞬のうちに紫霖ツーリンの中を駆け巡った。向かい合う麗紅リーホンは、視線をぴたりと少年に合わせたまま微動だにしない。琥珀の瞳の奥で、真実を語ってしまったことへの諦観と、噛み合うはずのなかった運命に挑むような覚悟がせめぎあっている。それは同時に、少年の意思を試す裁きの眼差しでもあった。
麗紅リーホン。通信の要所が絞り込めましたわ」
 その時、それまで電脳と闘っていた麻夏マーシァが、緊迫の面持ちで少女へ呼びかけた。
「【蛟蛇こうだひつぎ】が安置されていると推測されていた地点、ハォ 喬石チャオスーからの通信が発信されたと思われる地域から照合した場合……」
 円卓の中心に、華中地図のホロが再度浮かび上がった。上海を中心とした円形範囲表の中に、幾つかの紅い点が明滅している。
浙江チョーチャン紹興シャオシン市郊外、禹廟うびょう。今はもう廃廟になって国からの補償も受けていない場処ですが、此処に【宝胤】がある可能性が高いと思われます」
 麻夏マーシァの声に答えるが如く、ホロの映像がある地点に肉薄した。大きく映し出された衛星からの俯瞰映像には、寺院と思しき明清代の紅い甍が映し出されている。
「此処からの距離は?」
「直線で二三六q。海螺ハイルゥ機体ヘリで換算すると、約一時間の距離ですわ。行けないことはありませんが、時間内に【宝胤】が発動する可能性は捨て切れません」
「だが此処で手をこまねいているよりはましだ。海螺ハイルゥ、すぐに出発の準備を、」
「承知しやした」
 麗紅リーホンの言葉に、先刻まで一言たりとも喋らなかった男が立ち上がった。
「室長は此処に残って、【宝胤】の再発動を止めるための情報を集めてもらいたい。なんでもいい、分かったことがあったら機体の端末に送信してくれ。頼めるか?」
「勿論ですわ」
翡翠フェイツェイは、あたしと一緒に現場に向かってもらう」
 あいよ、と適当に相槌を打った翡翠フェイツェイは、大儀そうに欠伸をかみ殺した。
海嶺ハイレイもお貸しするわ、麗紅リーホン
「……統括は?」
「残念だけど、私は一緒に行けそうもないの。中断された打ち合わせが再開されるらしいから、」
 疲れたように溜息をついた女の肩に、後ろで控えていた男の手が載せられた。瑞杏ルイシンが、頭上にある彼の顔を仰ぎ見る。覗き込んだ彼の瞳には、主の嘆きを打ち砕かんとする、決然とした意思が灯っていた。
「ご心配には及びません。貴女はどうぞ、ご自分の職務をまっとうされますよう」
 驕るでもなく、いきるでもない。あくまでも瑞杏ルイシンの意向に忠実に答えようとする彼の信念がそこにはあった。瑞杏ルイシンは肩に置かれた従者に手に、そっと自分のそれを重ね合わせると、
「そこまで言うからには、貴方も無事に務めを果たして頂戴ね」
「無論です」
 貴女の前に立ちはだかるものはすべて、私が排除いたしましょう。貴女の信念を守り、完遂させるために私が存在していることをお忘れなく……。たった一言に幾多もの思いを馳せながら、海嶺ハイレイが頷く。
「こちらの準備は整いました、総帥。あとは貴方のご指示を待つのみです。どうぞ、ご英断を、」
 その場にいた者たちに的確な指示を与えた少女は、仕上げに画面上の男を振り仰いだ。負け戦だった。勝ち目はありそうにない。だが此処で立ち止まることを潔しとしない戦士が、最後に己が主への望みを……このまま死地に赴くことを請うような顔つきで、総帥と向かい合う。
「――― これより貴官たちに緊急の任を言い渡す。烏龍幇らの所有する【宝胤】を奪取し、速やかに【蛟蛇の柩】の再発動を阻止すること。以上だ」
「了解、」
 総帥の勅命に報いるが如く、麗紅リーホンが敬礼を返した。そして額に掲げた右手を下ろしながら、この任務の鍵を握る少年と向かい合う。彼女がすべき仕事は、あと一つだった。だがその一つに踏み出すことが出来ずにいる。そんな自分を持て余すような戸惑いが、琥珀の瞳に揺らめいた。
 ハォが残した手立てとやらを信用するならば、紫霖ツーリンを巻き込む他はない。だがそれが罠である可能性も十分考えられた。一か八かの賭けだ。そして、此処で迷っている暇などなかった。棄てるべきものは、最初から分かっている。一人の少年の未来を犠牲にしてでも。それによって自ら咎を背負うことになろうとも。麗紅リーホンには、進まねばならない道があった。
「―――― 来るか?あたしたちと一緒に、」
 澄んだ少女の声が、紫霖ツーリンの鼓膜を深く震わせる。
「…… オレは、」
 か細い呟きが、躊躇いを見せたのは何故だろう。真実を掴むためなら、地獄の果てへだってついてゆく。心は決まっていた。なのに頷けないのは、彼の中に残っていた理性が、真実への恐怖という警鐘を鳴らしているためだった。運命への畏怖と、その打破との天秤に惑う少年を促すように、麗紅リーホンがついと手を伸ばす。真実を握る手。自分をこの先の運命へと導く手だ。
「強要はしない。付いてくるのも、拒絶するのも、あんたの自由だ。あんたが望んだ真実を、その眼で確かめてみるか?」
 差し出された問いに、迷いはしなかった。
「…… ああ」
 短い答えとともに、紫霖ツーリンはその手に自分のそれを載せた。この手を握れば、もう引き返せなくなる。知るべきでなかった世界へと、自ら飛び込む羽目になる。予感はあった。けれども自分の知らないところで、勝手に人生を引っ掻き回されるよりマシだ。少なくとも、オレは自分で選びたい。自らのさだめを。そのためには、彼女たちが何と戦っているのかを、知らなければならないと思った。
「行くぞ、」
 少年の手を握り返した麗紅リーホンは、口許をきゅっと引き締めると、軽やかに踵を返した。掴んだその手が離れぬよう、しっかりと繋いだまま会議室を後にする。二人は足早に、屋上へと駆けていった。海螺ハイルゥ機体ヘリが待つ場処へ。自らの運命が待つ場処へと。