会議室を思わせる隣室には、中央に真ん中をくりぬいた円卓が備えられ、既に幾人かが着席していた。先に部屋を出た海螺ハイルゥだけではない。シックなグレーのスーツに身を包んだ妙齢の女と、それに付き従う長身の男。昨年の降誕祭クリスマスに一度逢っている。確かウー 瑞杏ルイシンとかいう名前だった。その向かいに坐っているのは、翡翠フェイツェイではないか。
「お待たせしました、総帥」
 純白の旗袍チャイナドレスの裾をはためかせ、麻夏マーシァが電脳を設えた奥の席に腰掛ける。そして起動済みの屏幕スクリーンに向かって、優美な笑みを返した。
「私も遅れてすまなかった。それで室長、この件に関する情報は?」
 円卓の前に掲げられた屏幕スクリーンに映った男が、威圧的な口調で問い返した。
 年の頃は、海螺ハイルゥと同じくらいだろうか。神経質そうな線の細い顔立ちとは対象的に、銀縁眼鏡の奥から覗く濃藍の双眸は、剣のような鋭さを誇っている。総帥と呼ばれていた。では彼が、騎士団を統べる男なのか。
「あらかた揃いましたわ。ですが網絡ネットワークが混線気味でして、信憑性を疑うものが幾つか。どうやら政府も、この現象をどう解釈していいのか判断しかねているようです」
「無理もない。では引き続き情報の収集を頼む―――彼は?」
 総帥の視線が、ふいに紫霖ツーリンの上で止まった。眼鏡の奥を怪訝な色が掠める。やがて男は、合点がいったように頷いた。
「………それでは、君が、」
 うわ言のような呟きに、紫霖ツーリンが眉を顰めた。その時には総帥の関心は少年から離れ、本題へと移っている。
「いずれにせよ、我々にはあまり時間がない。室長、今揃っている情報の開示を頼む。一刻も早く、真実を解明しなければ」
「是非ともそうしていただきたいですね、」
 ほんの少しの揶揄が混じった皮肉の声が、総帥の台詞に横槍を挟む。話し合いを中座させた声の主は、入り口のドアに寄りかかって腕を組んだ麗紅リーホンだった。
 丁寧に熨斗プレスされた黒の上着ジャケットに、同じく黒の領帯タイを添えた高襟の襯衣シャツという組み合わせは、紫霖ツーリンに与えられた騎士団の制服とまるきり同じだったが、短く詰めたプリーツのスカートと、格調高き騎士団の紋章が、赤い糸で胸元に刻まれているのを見れば、それが連邦警察官養成学校―――士官候補生の制服であることに気づいただろう。しかし本人はそんな格好をするのは不本意だとでも言いたげな表情で眼を眇め、一同を見渡している。
「………スカートの丈を元に戻せ」
「厭です」
 強情で無秩序アナーキーな不良学生そのものの口調で、リーホンは総帥の命令を跳ね返した。
「それよりも、何なんです?あの現象は。手短にご説明願えますかね?」
 返す言葉こそ慇懃であったが、そこには大量の毒にも似た苛立ちが込められていた。反逆的な少女の態度に苦々しく眉を寄せたまま、総帥がその申し出に応じる。
「まずは、これを見てくれ」
 総帥の声とともに、屏幕スクリーンの画面が黄浦江ホヮンプージャン上空の衛星映像へと切り替わる。そこに集った面々が、一瞬にして息を飲む気配が伝わってきた。蛇行する黄浦江の真ん中が、川底が見えるほどに深く抉れ、水が高々と打ち上げられている。飛沫を上げる水の壁が呑み込もうとしているのは、外灘ワイタンの重厚な石造りの街並みだ。
 その光景を見た紫霖ツーリンの脳裏に、幼い頃本で読んだ昔話が過ぎった。川に棲む水の神。それは蛇、あるいは龍の姿をしていると聞く。その怪物がのたうちまわったら、きっとこんな姿を見せるのではないだろうか。
「見ての通り、あれは津波ではない。勿論洪水とも違う。これまでに例を見ない類の災害だ。これにより、上海市内では外灘全域から共同租界地区、及び虹口ホンコウ地区で甚大な被害を被った。また……」
 黄浦江の衛星映像に続いて、浸水した外灘周辺の実況ライヴ映像、状況を伝える大衆報道メディアの緊急速報などが映し出された後、円卓の中央から真珠色の立体映像ホログラフィが浮き上がった。長江を中心とする、華中の衛星地図である。
「華中の幾つかの川沿いでも同様の現象が発生した」
 紅く点滅する灯火ランプは、その発生地を示しているのだろう。同時に、屏幕スクリーンに上海市以外の惨状を中継する映像が映し出された。
 波に飲まれながら助けを求める腕、破砕した木片に頭を打ち付け血を流しながら流される男、塀にしがみつきながら泣き喚く子ども、流されるまま哀しげに鳴く家畜たち……彼らの叫びが此処まで届きそうなほどに、その光景は生々しい。
「郊外地区は無論、都市部への救助支援も遅れている状況だ。一部では依然、洪水に似た被害が続いている」
「………江南こうなん戦役だ、」
 それまで立体映像を凝視しながらしきりに何かを呟き続けていた麗紅リーホンが、ふいに脈絡のない単語を唱えた。
「予兆のない洪水、地震のない津波。運河沿いの都市が災害に見舞われ、孤立する状況……、間違いない。この国はかつて一度、同じ危機に瀕したことがある」
 言い切った麗紅リーホンの言葉に、総帥は答えない。だがそこに集った一同の間に、共犯めいた確信が過ぎるのを、紫霖ツーリンは見逃さなかった。



 江南戦役――― 今からおよそ二百年以上前、前王朝と革命軍との間に勃発した大規模な内乱である。
 当時英国との戦争に敗れ、弱体の一途を辿っていた前王朝に義憤を抱き、反旗を翻した者たちが今日の連邦国家の土台を形成したという逸話は、大陸では知るものの居ないほど有名な話だ。皇明こうみん族と呼ばれる、少数派移民族の出身者たちを中心とした彼ら革命軍は結束を固め、瞬く間に勢力を拡大していった。
 華南より始まった革命軍は、活動の拠点を華中の都……当時南京ナンジンと呼ばれていた都市に据えるべく進軍。それを食い止めようと、王都北京より南下してきた前王朝軍は、准安ワイアン周辺の運河沿いに駐屯した。そして前王朝軍が運河からの軍事資源の供給を待つ間、二つの大軍の間に一触即発の緊張状態が訪れることとなる。
 だが戦の女神は、前王朝軍のためには微笑まなかった。武器や食料が届くとされた日の明け方、彼らが駐屯していた地域一帯を突如洪水が襲ったのだ。これにより進駐してきた地域が水の底に沈み、前王朝軍への軍事供給が絶たれることとなる。これを期に、疲弊した前王朝軍へ総攻撃をかけた革命軍は見事勝利を収め、華中に新しい都……天京ティエンジンを建設。前王朝を倒し、新たな政権を確立するための礎を築いた。
 かくして革命軍を救った洪水は、のちに大陸を統べる天帝が齎した奇跡の一つとして、民衆に広く知られた伝説となる。神の使いを名乗る皇明族が、今もなお神聖視され、この階級社会を掌握しているのもこれらの奇跡によるものだ。



「理由のない天災などありえません。この現象を災害と呼ぶのはあまりにも不自然です。だとしたら考えられることは唯一つ――― 誰かの手によって、この茶番が引き起こされた。違いますか、総帥?なんにせよ、この定時タイミングでこんなことが起きるなんて、あまりにも出来すぎている」
「ちょっと待てよ、」
 再び屏幕スクリーンに姿を現した総帥が口を開くより早く、紫霖ツーリンが少女の推測に異を唱えた。
「あれが人為的なものだって?冗談も大概にしろよ。一体何を根拠に……、」
「あんたが知る必要はない」
 騎士団達の視線が、発言を咎めるかのように紫霖ツーリンへと集中する。それぞれの想いを、麗紅リーホンが代弁した。まるで紫霖ツーリンがこの場に居ることを拒むように、視線も合わせず糾明を一蹴する。
「……俺は邪魔者ってわけ?」
 存在そのものを否定するかの如き口ぶりに、紫霖ツーリンの声が氷雪のように凍りつく。冷ややかな空気が俄かに会議室を覆い始め、そのまま肌を刺すような緊張へと取って代わった。
「よく分かってるじゃない。ついでにこのまま大人しく席を外してくれると、ありがたいんだけど」
「断る」
 短くも明瞭な拒絶の意志に、麗紅リーホンの双眸がすっと細まった。
「……聞き分けの悪いコだな。これ以上はあんたに関係のないことだ。翡翠フェイツェイ、悪いけどこいつ連れて行ってくれないか?」
 二人を交互に見比べていた翡翠フェイツェイが、渋々と立ち上がりかける。そのまま面倒そうに襟首を掴みかけた青年の手を、紫霖ツーリンが乱暴に跳ね除けた。静かに翡翠フェイツェイ麗紅リーホンを睨みつける眼差しは、沈黙に凝ったままだ。その奥で、怒りとも諦めとも憎しみともつかぬ感情がせめぎ合い、激しく燃え立っている。
「……意地を張るのはあんたの自由だ。けどここから先を、知られるわけにはいかない」
「………」
「理由は、分かるよな?騎士団の機密事項に干渉する権限を、あんたは持ってない。それが同時に、民間人としてのあんたを守ることに繋がるんだ」
 何度となく聞かされた正論。納得のいく理屈だ。だが彼らへの疑念が芽生えた今となっては、その言葉も砂上の楼閣のように虚しく崩れ落ち、耳の上を通り去ってゆくに過ぎなかった。
 関係のないこと、知らなくてもいいこと。そんな言葉を振りかざして、彼らは紫霖ツーリンの領域を、人生を踏み荒らしてゆく。関係がないのなら、始めから放っておけばよかったのだ。それなのに彼らは自分を庇護し、手放そうとはしなかった。紫霖ツーリンの疑念も、不信も、憤慨も、総てはそこに由来するのだ。紫霖を守るとか、妹を救い出すのに協力すると言った奇麗ごとに包み隠された彼らの思惑が、腐臭を放っているように思えてならなかった。そのどす黒い饐えた匂いが、彼の神経を逆撫でする。自分は騎士団の手中にあると思い知らされるようで、胸が焼けつくような息苦しさを覚えずにはいられない。
「……そうやって、オレを真実から遠ざけるのか」
「ああ、そうさ。世の中には、知らなくていいことがごまんとある」
 真実への希求を戒める言葉は同時に、無知によって支配を目論む傲慢でもあった。何も知らない愚かで惰弱な人間は、真実を握る強者によって操られる。そこに人としての尊厳などあるとは思えなかった。自らの意志を無視されることも、誰かの手駒として生きることも真っ平だ。自分の人生は自分で守る。ゆえに彼らの支配を脱し、自らを守るためには、一つでも多くのことを知らねばならないと思った。
「……知らなければ、オレを利用するのに都合がいいってことだろ」
「自惚れるのも大概にしろ。あんたに利用価値なんかない。だから出て行けといっているんだ」
「出てくよ。此処も、あの店も」
「またその話を蒸し返すわけ?」
 うんざりしたように、麗紅リーホンが首を振った。辟易した調子で肩を竦めて見せるも、その瞳は敵意にも似た気配を滲ませている。これ以上我が儘をのたまうならば、容赦なく制裁すると少女の眼が言っていた。だが暗に込められたその恫喝に、紫霖ツーリンは動じない。彼にもまた、譲れない領域があるのだ。どんな支配にも屈しないという意志が、尊厳が。その想いだけが今の彼を突き動かし、自身を守るための刃となって麗紅リーホンへと向けられる。
「あんたの言うなりに生きるなんて、やだから」
「いい加減にしろっ!! 今はそんな話をしている場合じゃ……」
「あら、」
 二人のやり取りを見守っていた麻夏マーシァが、だしぬけに麗紅リーホンの叱責を遮った。屏幕スクリーンに映った総帥の顔が、突然紛れ込んだ砂嵐によってかき乱され始めたのだ。電波の不調によるものだろうか。画面の乱れを調節しようと、電脳の鍵盤キーボードを叩いた麻夏マーシァだったが、
「外部からの映像通信が入っていますわ。一体どこから………」
 その試みが無駄と悟ったらしい。麻夏マーシァが戸惑いがちに、外部からの通信に存取アクセスする。やがて屏幕スクリーンの画像が切り替わった瞬間、麗紅リーホンの喉から怒号にも似た鋭い叫びが零れ落ちた。
ハォ 喬石チャオスー?!」
「ご無沙汰しております、麗紅リーホン様。その節は、大変お世話になりました、」
 総帥にかわって映し出された男の顔に、雷撃めいた緊張が走る。その場に集まった者たちの視線に晒されたハォは、満足げな微笑を浮かべて見せた。
「お集まりの皆様におかれましては、ご機嫌麗しゅう。此度は私めの演出しました歌劇、お気に召されましたかな?」
 わざとらしいくらいの慇懃さで腰を折った男に向かって、麗紅リーホンが呻いた。天敵を見つけた狼さながらの目つきで、ハォを睨み据える。
「今更なんの真似だ、ハォ 喬石チャオスー
「おや、賢明な貴女ならもうお気づきのはずでしょうに」
「ああ。どこぞの愚か者が飛び込んできたお陰で、全部了承済みさ」
 今しもスクリーンに飛び掛りかねぬ口調で、麗紅リーホンが嘯いた。
「貴様らはやはり、タンから【宝匣ほうきょう】を譲り受けていたんだな。このクソみたいな茶番劇から察するに、自然災害発動系統システム……【蛟蛇こうだの柩】を覚醒させたということか」
「ご名答」
 ハォが感心したように首肯してみせる。そして少女の推測に拍手を添えながら、一同をぐるりと見渡した。
「流石は精鋭、騎士団の皆様ですね。この短時間で我々の計画を見抜くとは……恐れ入りましたよ、チン 邦光バンコヮン
「――― 用件は手短に願おうか、ハォ殿。貴殿らの目的は何だ?」
 会議室に響いた総帥の声から察するに、どうやら彼の元にも同じ映像が送られているらしい。極力感情を排した、だがその裏に潜んだ苛立ちによってより磨きがかかった冷徹な声が、ハォの耳朶を突き刺す。
「目的……と、仰いますと?」
「何故あれを発動させた。貴殿らがこの惨事を招いた理由をお聞かせ願おうか。また、こうして我々の前に姿を見せた理由についても説明していただきたい」
「やめておけ、邦光バンコヮン。こんな破滅主義者の言うことなんて、聞く価値もないし聞きたくもないね。気違いじみた妄想癖が移るだけだ」
「相変わらず辛辣なことだ、」
 ハォは困ったように肩をすくめて見せた。蝋のように蒼白い顔だ。初めて逢った時は暗闇で気付かなかったが、こうして陽のもとに晒されると、その不自然なまでの顔色の悪さがいっそう際立つ。長い黒髪は後ろで奇麗に束ねられ、眼鏡をかけた顔立ちは理知的であったが、受ける印象は凶鳥まがどりの如き陰湿さのみであった。
 しかし紫霖ツーリンの心を引きつけたのは、そんなことではなかった。
ほう……きょう?」
 聞きなれぬ単語の意味を探るように、少年が反芻する。不意に零れた呟きは、言葉を覚えたばかりの子どものように覚束なかったが、彼らのやり取りを中断させるには充分だった。
 それまでハォへの殺気を剥き出しにしていた麗紅リーホンが、咄嗟に紫霖ツーリンの方を振り返った。続いて意味ありげに口許を持ち上げたハォが、新しい玩具を見つけた子どもの顔で少年に笑みかける。
「そちらの彼は、事情がよく呑み込めていらっしゃらないようですね」
 鋭利でありながら、どこか虚ろな光をたたえたハォの瞳が、紫霖ツーリンに据えられた。その視線から少年を守るように、麗紅リーホンが前へ進み出る。
「もしや麗紅リーホン様、彼に未だ真相を教えていらっしゃらなかったのですか?」
 意外そうなハォの問いかけに、麗紅リーホンが敗北者の面持ちで口唇を噛み締めた。
「なるほど。……では私が変わりにお教えいたしましょうか」
「止めろっ」
 真実が明かされることへの恐怖に、麗紅リーホンが声を荒げた。何かを必死で守ろうとしている彼女の願いも空しく、ハォが言葉を繋げる。
「彼らとともに、私の元へ来なさい。貴方が望むことを、すべて教えて差し上げます」
 陰湿にして優雅なハォの声が、少年を手招きした。眼鏡の奥の瞳に、獲物へ語りかける蛇のような気配が過ぎる。
それは真実という禁断の果実へ手を伸ばせと囁く、悪魔の誘いだった。
 その味を知ってしまったら、もう後戻りは出来なくなる。それゆえに禁忌とされた真実が、目の前に差し出されていた。その囁きに従えば、騎士団の思惑も、自分の価値も、容易く手に入れることが出来るだろう。だがそれを知ってしまえば、自分は楽園を……傍観者としての権利を失うのではないか? 
 手にしたいと渇望していた真実を前に、抗いがたい二つの重みが、紫霖ツーリンの心を揺さぶってゆく。
「ふざけるな。そんな要求呑めるわけがないだろう?」
 せせら笑うように吐き捨てたのは麗紅リーホンである。此処で真相を明かされなかったことへの安堵が、彼女に僅かな余裕を与えた。それを見越したように、ハォが小首を傾げ忠告を添える。
「ああ、申し上げ忘れていました」
 直後、男が思い出したように告げたのは、胸を撫で下ろした麗紅リーホンを奈落へと突き落とす類のものであった。
「何故【蛟蛇の柩】を作動させたのかと言うご質問ですが……こちらにも事情がありましてね。本来ならばいつも通り数据データ安装インストールするだけで終わるはずだったのですが、作業に手違いが生じまして。結果として多くの人命を犠牲にする羽目になりました」
 屏幕スクリーン上で、ハォが哀しげに眉根を寄せる。うっかり処理し損ねたミスを、さりげなく報告するような顔つきだった。
「当方としましても予期せぬ事態だったのですが……残念ながら、これには続きがありまして。此方をご覧ください」
 男の顔が一瞬大きくぶれた後、画面が暗転した。続いて映し出された映像……長江を中心とした華中の衛星画像は、円卓のホロと同じものだ。だが地図上で幾つか点滅している、あの赤い刻印は――――
安装インストール中の錯誤バグを無視して数据データを【宝匣ほうきょう】に下載ダウンロードした結果、水の神の怒りを買うことになって仕舞いました。彼らが再び暴れ出すのも、時間の問題かと思われます」
「まさか――!!」
 地図の上に重なった男の声に、麗紅リーホンがふらりとよろめいた。
「あの災害が、もう一度引き起こされるって言うのか?!」
「ええ」
 驚愕と絶望、そして視界から消えた男に対する憤りがない交ぜになった麗紅リーホンの詰問に、ハォはこの上なく優雅な声音で肯定して見せた。屹度きっとこの画像の裏には、幼子をあやすような、優しげな微笑を浮かべた男が居るに違いない。場違いなほどに穏やかな微笑の中で、瞳だけが残虐な愉悦を滴らせているハォの姿を思い浮かべて、紫霖ツーリンは背筋がうすら寒くなるのを禁じえなかった。
「だからこそ、彼を私の元へ連れて来いと申し上げているのです。彼にしか、水の神を鎮める祝詞のりとを与えていないのだから」
「?!」
 見えざる驚愕の叫びが、響き渡ったかのようだった。騎士団一同の視線が、鋭く紫霖ツーリンに突き刺さる。
「水の神を鎮めたいのなら、まずは彼に真実を教えてやることです。それは麗紅リーホン様にご一任しましょう。次の惨劇が訪れるまで、その猶予が稼げるよう私も善処いたしますが―――あまりご期待はなさらぬよう、お願い申し上げます」
 わざとらしい含み笑いに、麗紅リーホンが震えかけた口唇を強く噛み締める。そしてありったけの憎悪を込めて、その口唇を押し開こうとするより先に、
「それでは皆様、後ほどお逢いしましょう」
 緩やかに腰をかがめたハォの画像が切断された。彼が去った後残されたのは、重苦しいまでの沈黙と、紫霖ツーリンに注がれた罪を糾すかのような眼差しだけだ。
 今しがた放たれた言葉の意味を勘ぐるような視線が無言のうちに飛び交い、なおも紫霖ツーリンを苛んでいる。再び眼前に現われた総帥の顔つきも、何処か険しい色合いを帯びているように見えた。