「かくして歌劇の幕は上がる……か」
新市街・浦東 に聳える大廈 の屋上。何かしら心がざわめくような春の嵐に晒されながら、彼女はうっすらと微笑んだ。遥かな高みから睥睨する黄浦公園 は半分以上が浸水し、人々を容赦なく呑み込んでゆく。
上海の動脈、黄浦江 沿岸を見舞った白昼の惨劇。ゴマ粒のような人の頭が波に揉まれ、叫び狂いながら、黄浦江へと引きずり込まれてゆく。青い天上 から見下ろす地獄絵図。血と涙と助けを乞う嗚咽にまみれた阿鼻叫喚の残滓が、渦の底から這い上がるように、此処まで届いてきそうだ。
「ご機嫌如何ですか、麝香仙女 」
吹きつける強風に翻弄された蒼い蝶が、薄い翅を閃かせながら彼女の肩に止まった。硝子細工の針金めいた触覚が横に振れるや、蝶が落ち着きのある男の声で彼女に語りかけてくる。
「これはこれは、副塞主 さま。お仕事はもうよろしいんですの?」
「ええ、第一幕はご覧のように滞りなく。お気に召しましたかな?」
「そうね。まぁまぁってところかしら」
さして興味もなさそうに答えた彼女の細腕がついと上がった。その指先に向かって、蝶がひらひらと落ちる花弁のように舞い移る。
「けれど今ひとつ、面白味に欠けるわね」
「これはまた。手厳しいことだ」
彼女の人差し指で翅を休めた蝶が、苦笑交じりに言ってきた。その向こうで、漆黒の姿形 を持つ飛行機体が、耳を聾さんばかりの雄叫びを上げて空を駆けてゆく。もうじき目的地に着くのだろう。やや高度を下げる様子が見えた。
「役者の酷評はきちんと聞くべきよ。このままでは、私でさえ満足できないわ」
「――― それで彼に、余計なことを吹き込んだのですか?」
「ええ。いけなかったかしら?」
さも当然だといわんばかりに、彼女が声をあげて笑った。
「雄々しき英雄が世界を救い、美貌の姫君は醜き悪役に攫われると相場は決まっているのよ。それが陳腐で面白くもない筋書きであっても、莫迦な観客は期待せずにはいられない。すべて予め定められていた舞台の演出であったとしても、ね。ならば役者は即興で、愚かな観客の期待に応えてやるのが道理ではなくて?」
「ふむ。して貴女は、私の台本を陳腐で面白くないものにしたいということですか?」
「ええ、そうよ。歌劇なんて、観客がいなければ意味がないもの。貴方の書く筋書きは残酷で無情で狂っているけれど、少しばかり退屈なの」
褒めているのか貶しているのか。彼女は両者の判別が難しい指摘を下した。蝶はしばし考え込むような呼吸を繰り返すと、
「なるほど?貴女の言うことも一理ありますね。いずれにせよ、私も少々劇本 を書き換えねばならないようだ」
「そうして頂戴、副塞主さま。出来れば、うんと残酷なものをお願い」
満開の笑みを称えた彼女が無邪気な注文を言い添えると、蒼い蝶はふわりと指先から旅立っていった。穏やかな声に、何処か不吉なものを孕んだ言葉を残しながら。
「お待ちください、麝香仙女。第二幕は必ずや、御身のお気に召すものをご覧に入れて差し上げましょう」
「おう、坊主。どうだ、それ着れたか?」
問われた少年は短く、だが神妙な面持ちで頷いた。
上海騎士団の浦東 支部。外灘 にある本部の、言わば第二の牙城として知られる場処だ。大陸全土に権力を行使出来る部署の集まりである外灘の本部と違い、主に商都・上海での警察権力に重きを置く者たちの殆どが、此処に在籍している。その上層階に位置する広報局分課の特務室へと案内された紫霖 は、知らぬ間に身が固くなるのを感じていた。
得体の知れぬ津波だか洪水に巻き込まれ、突然現れた騎士団のヘリに救助されて、支部まで連れてこられたのが数十分ほど前。濡れ鼠と化した紫霖 が、支部の淋浴 と着替えを借りてこの部屋に入る頃には、既に黄浦江 の畔で起きたことなど悪夢だったとしか思えなくなってしまっている。
一時しのぎで借りた服は、騎士団の制服だった。胸元に騎士団の紋が刺繍された黒のジャケットに、同色のスラックス。首を締め上げる高襟の襯衣 には同じく黒のタイを結んでいた。一分の乱れも許さないデザインは軍服めいて、窮屈な居場所をいっそう寄る辺ないものにしている。
小柄ではないが骨格が華奢なために、紫霖 にあてがわれた制服はややだぶついていた。折り目正しく着ているはずなのに、心許ないぎこちなさがつきまとう。それは仕方ないにしても、やはり制服というものは自分が何処かに属していると無言のうちに、だがこれ見よがしに主張しているみたいで鬱陶しかった。仮にとは言え、この居心地の悪さがしばし続くことを思い、少年は無意識のうちに少し長めの袖口をつまんで溜息をつく。
通された部屋には、中央にソファが一つ鎮座しているのと、奥の執務卓が備え付けられている以外に家具らしいものは見当たらなかった。今はそのソファに、紫霖 たちを救出した男がどっかりと腰を下ろしている。角ばった馬鈴薯 みたいな頬の輪郭に、猛き獅子の鬣 を思わせる銀髪。じっと沈黙する眼光は鋭く、体格は警官というより鍛え抜かれた一等兵のそれである。街で出くわしたら、何も言わずに道を開けたくなるような手合いの男だ。
どうやら麗紅 はまだ来ていないらしい。そう思ってふと窓辺へ目をやれば、純白のシルエットが静かに佇んでいるのが見えた。
「お加減はどう、朱 紫霖 くん……だったかしら?」
少年の視線に気付いたのか、窓際で眼下を眺めていた女性が振り返って会釈をした。素っ気ない部屋には似つかわしくない、白緞子 の旗袍 を上品に着こなした、優美な女性である。腰までもある淡い色合いの髪をゆるく束ね、やや垂れ気味の目は優しげに細められていた。起伏の少ない顔立ちが、彼女の穏やかな気質を表す一方で、すっきりと品良く整った口唇が印象的だった。
「初めまして。私は騎士団浦東支部広報局分課特務室室長、明 麻夏 と申します。そちらにいるのは、機動局局長兼機動局空挺部の虎 海螺 」
麻夏 と名乗った女性の紹介に応じるように、海螺 と呼ばれた男はうっそりと会釈を返した。寺院の門に立つ仁王像よろしく巌 と構えた男にくすくす笑いながら、麻夏 が言葉を繋げる。
「急にこんな処に連れてきてごめんなさい。けれど今は、何も聞かないでください」
麻夏 はゆるゆると首を振って、紫霖 の元へと歩み寄る。
「貴方がたを救えたのは、運が良かったですわ。虎 局長がたまたま哨戒に出ていなければ、どうなっていたかわからなかった」
「お前さんから無線を受けたときにゃあ、肝が冷えましたぜ。礼を言うなら、坊主、麻夏 に言っておくんなまし」
大袈裟に肩をすくめた海螺 に、紫霖 は答えなかった。目の前に立つ麻夏 の肩越しに陳列する、電脳機器に目を奪われていたのだ。
「そんなに珍しい?」
微笑ましげに言った麻夏 の声など、紫霖 には届かないようだった。問われた少年は、執務卓の上を占拠する電脳機器の一群を見つめて嘆息している。
「虚像投影型電脳端末 をご覧になるのは初めて?」
麻夏 は執務卓へ歩み寄ると、電脳の画面を空中へ投射していた木箱へ手を翳した。つがいの鶯が象嵌された、年代ものの宝石箱である。
彼女が手を動かすたびに、その画像がくるくると入れ替わってゆく。一見するとただの骨董品に過ぎないこの機器には、通常の電脳端末と同等の情報が搭載されており、空中に投射された画像を介して操作を行う。開発途上であることと、最新鋭の技術を駆使して作られていることから、並みの知識しかない人間では操作が困難とされ、一般企業での実用化は実現されていない代物だった。下層階級の孤児にしてみれば、魔術のような存在かもしれない。
「……重慶 東洋公司 の最新作だ。形状 としては美国 の輸入品と似ているけれど、従来のものよりも軽量化が進んでいる、」
脈絡なくそんな呟きを漏らした少年に、麻夏 と海螺 は顔を見合わせた。
「その上情報処理能力が格段に高い?容量も相当あるみたいだし……独自に特別定做 したってことか?これだけの情報量を蓄積してるんだから、主源単元 がどこかにあっても良さそうだけど……今起動している程序 は、すべて貴女の原型 ?」
「え……?ええ、そうです」
携帯通信を可能とする着用式電脳 と同じ発想で作られている虚像投影型電脳端末であったが、複数の網絡 に繋ぐ関係上、軽量化すればするほど機能が落ちるというのが通説であった。しかし麻夏 の端末はその欠点を克服し、より精度の高い機器へと進化させている。だがよほど電脳機器に精通していない限り、一瞥しただけでそれを見抜くことは不可能だ。
麻夏 が困惑した表情で何か言いかけたとき、端末に電子郵件 が舞い込んだ。片手操作でそれを開示した麻夏 が、何処かほっとした様子で告げる。
「どうやら総帥との連絡が繋がったようですわ」
その一言に、海螺 が素早く立ち上がった。そのまま隣室へ続く扉へ手を掛ける。麻夏 は先刻お披露目した機器の窓口 を一旦仕舞いこむと、紫霖 の肩に手を添えて促した。
「私たちも行きましょう。皆さんお待ちかねですわ」