躰を芯から震わせる爆発音に麗紅リーホンが振り返ったとき、それまで確かにあったはずの浦東プートンの街並みは消え失せていた。かわりに眼に飛び込んできたのは、高々と天空を覆った巨大な水の壁だ。凄まじい水飛沫をあげたそれが一瞬停止したと思った次の瞬間、水の塊が弓なりに反って、あたかも獰猛な海の怪物が獲物を呑み込むかのように岸辺へと肉薄してくる。
「――― っ!!」
 反射的に石畳を蹴って紫霖ツーリンに飛び掛った刹那、呼吸さえも奪われるほどの衝撃が麗紅リーホンを襲った。見えざる手に放り投げられたような浮遊感に続いて、口の中に大量の水が流れ込んでくる。遠のきかけた意識を奮い起こすように、少年を抱いた腕に力を込めた。瞬間、背中に鈍い衝撃を感じ、麗紅リーホンの視界が真っ暗に塞がれる。
 どれほどの間、暗闇を彷徨っていたのだろう。永遠とも思える長い一瞬の後、重くのしかかっていた水の圧力が急に消えた。朦朧とする意識の中、耳元で自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。
「――― ……っ?!……麗紅リーホンッ!!」
 うっすらと眼を開けば、先刻まで庇っていた少年が自分の肩をゆすっていた。頭から何からずぶ濡れのひどい有様であるが、怪我などはないようだ。
「……うるさい、騒ぐな」
 憎まれ口とともに、飲み込んだ水を吐き出しながら頭を巡らせて見れば、公園の植え込みが背中を支えていた。どうやらこれが盾になってくれたらしい。もしあのまま公園の向こう側へ吹っ飛ばされていたら、二人とも無傷では済まなかっただろう。
 紫霖ツーリンから体を離した麗紅リーホンは、体勢を立て直そうと植え込みのふちに手をかけたが、立ち上がることは出来なかった。黄浦江ホヮンプージャンの水は未だに氾濫し続け、打ち寄せる波がいくつも渦巻いては足元を掬っている。
 恐るべきエネルギィを秘めた波の力に何とか耐えながら、麗紅リーホンは辺りを見回した。船着場の桟橋は木片と化して水面を漂い、停泊していた船は、船体が大きくひしゃげたまま船着場を押し潰している。波の音に混じって聞こえる呻き声は、流された人々の呪詛だろうか。混濁した河流の荒波の中で、子供の泣く声が虚しく木霊していた。
 黄浦江から押し出された川の流れが、人々を呑み込んでゆく。それに抗おうと足を踏みしめ、漸く立ち上がった麗紅リーホンは、不意に躰が後ろへと引っ張られるのを感じた。
 均衡を崩した麗紅リーホンの身が、仰向けに傾ぐ。見えざる力に吸い寄せられたのは、彼女ばかりではない。それまで岸辺を侵蝕し続けていた波までもが逆流し始めたのだ。
「……なんだよ、これ!!」
「知るか!あたしが聞きたいくらいだ!!」
 麗紅リーホンの声は、最後のほうが悲鳴に変わった。逆流するエネルギィの渦が二人を黄浦江へと引きずりこむ。不可視の触手に絡めとられたかのようだった。植え込みのへりに手を掛けていた紫霖ツーリンは、流れに巻き込まれるのを間一髪で回避する。だが気を緩めていた麗紅リーホンが波に攫われるのを防ぐことは出来なかった。
「待て!!」
 濁流に呑み込まれながら、闇雲に突き出した麗紅リーホンの手が何かに触れた。それが少年の腕であると気付いた時には、藁に縋る思いでしっかりとしがみついている。
「おい、ちょっと……」
 この波の圧力に耐えるだけで精一杯なのに、この上麗紅リーホンの体重まで支えられるはずがない。下手したら彼女もろとも黄浦江の流れに呑み込まれてしまう……そう抗議しようと口を開きかけた紫霖ツーリンの言葉は、ごうごうと唸る渦の音と、少女の脈絡のないわめき声に掻き消されてしまった。
「畜生!あたしが何をしたって言うんだ?!これは何だ、新手のいじめか嫌がらせか?そもそも黄浦江で津波なんて聞いたことがないぞ?!津波は地震による地殻変動が引き起こす副産物だ。そして遠浅の沿岸でなければ、これほど大規模な津波は発生しない……ならば洪水か?いや、長江の水位が増したとは言え、こんな短時間で堤防が決壊するなんてありえない!!上流で土石流、もしくは山津波が発生したとて、こんな形で影響が及ぶとは………」
 外灘ワイタンを突如襲った現象は、麗紅リーホンの理解の範疇を超えたらしい。紫霖ツーリンの腕にしがみついた少女は、網絡ネットワークの繋ぎすぎで混乱状態に陥った電脳よろしく、埒のないことを延々とわめいている。そうすれば事態が呑み込めるとでもいうように。なおもくどくどと講義を続けようとする麗紅リーホンに、心底嫌気が差した紫霖ツーリンは、
「――― 手、離してもいいか?」
 溜息とともに、掴まれた手を振り払おうとした。残念ながらこれ以上、彼女の妄言に付き合っていられる余裕はない。
「なっ……!!莫迦野郎!殺す気かよ?!」
「じゃあ、そう言うことで、」
「やめろーー!!いや、本気で止めて!あんたに慈悲はないのか?!」
「ない」
 結構本気で麗紅リーホンを見放そうとした時、黄浦江から新たな飛沫が上がり、鈍色の空をいた。堤防に打ち上げられた波が轟音とともに、大口を開けて黄浦公園ホヮンプーガォユェンを呑み込んでゆく。濁った水が頭上を覆い尽くしたと思った瞬間、二人の躰は植え込みを飛び越えて公園の向こう側へと叩きつけられていた。
「かはっ」
 強かに打ちつけられた身の痛みに目がくらむ。消えかけた意識を繋ぎとめるように、麗紅リーホンは激しく咳き込んだ。轟々と打ち寄せる奔流に抗いつつ、傍らへと眼を遣る。だが先刻まで腕を掴んでいた少年の姿はどこにもなかった。
紫霖ツーリン?!」
 冬の名残を残した春先の水よりもなお冷ややかな予感が、麗紅リーホンの背筋を貫いた。蒼白の亡骸と化した少年が流されてゆく映像を必死で振り払いながら、がむしゃらに辺りを見渡す。
紫霖ツーリンッ!!」
 二度目に叫んだ名前が、安堵の声に変わった。後方に少年の黒髪を見出した麗紅リーホンは、足元で渦を巻く水を蹴散らし、半ば泳ぐようにして彼へと手を伸ばす。
 だが二人の距離は少しずつ、確実に開いていった。津波の衝撃で意識を失ったらしい紫霖ツーリンの躰が、止まない流れに押し出されていく。少女の足掻きを、嘲るかのように。
 頼む、死なないでくれ。祈りとともに突き出した麗紅リーホンの手が虚しく宙を掻いた。あんたはこんなところで、くたばっちゃ駄目だ。まだ妹を助け出してないだろう?あんたが居なくなったら、誰が彼女を迎えにいくって言うんだ。
 突き刺すような早春の水の冷たさに浸され、とっくの昔に感覚を失くした指先が紫霖ツーリンの袖口を掠めた。もう少しだ。あと少しで、手が届く……。
 再び少年の腕を掴み、自分のもとへと引き寄せた頃には、水の流れが徐々に緩んできていた。だが油断は出来ない。また引き潮に襲われたら、今度こそ黄浦江の魚の撒きになってしまう……そう思いながら紫霖ツーリンの頬を軽く二三度叩いた時、不意に上空から、天を裂くほどの爆音が此方へ降りてくるのを感じた。
「お嬢――――――っ!!」
 巨大な大廈ビルがてっぺんから瓦解していくような音の上に、野性味溢れる太い声が重なる。呆気にとられたまま天を仰いだ麗紅リーホンの眼に、黒い巨影が飛び込んできた。
 日蝕のように太陽を遮って此方を見下ろすそれが、少しずつ高度を下げて姿を露わにしてゆく――――
「………なに、あれ」
 ようやく意識を取り戻した紫霖ツーリンが、夢見心地で呟いた。その視線の先にあるのは、頭上に螺旋漿プロペラを戴く漆黒の飛行機体だ。機体の横には騎士団のネームナンバーが、後翼には意匠化した虎の周りを梵字ぼんじで縁取った紋章が、白く染め抜かれている。
「――― 白い虎の紋章………空挺局くうていきょくフー 海螺ハイルゥか?!」
 麗紅リーホンがその名を叫ぶのを待ってたかのように、機体が真っ直ぐに下降してきた。強風に煽られた荒ぶる波はゆるやかに霧散し、水面が細かな漣を立てて消えてゆく。やがて二人の頭上で停空した機体から、縄梯子が垂らされた。
「お迎えに上がりやした、お嬢。どうぞ乗ってくだせぇ」
「……… 先に行け、紫霖ツーリン
 機体から発せられた、どことなく物騒な声が二人を誘導した。状況を素早く呑み込んだ麗紅リーホンが、有無を言わさず紫霖ツーリンを先に梯子へ乗せる。
「乗りやしたか?じゃあ行きますぜ。しっかり掴まっててくださいよ、」
「えっ、ちょっと海螺ハイルゥ!このまま行くの……?!」
 麗紅リーホンの声を最後まで聞き取ることは出来なかった。突如機体が耳をつんざぐほどの音を立て、上空へと舞い上がったからだ。不安定に揺れる縄梯子に縋りついた少女の喉が、あらん限りの絶叫を奏でる頃には、機体は天を目指して突き進み、混乱の渦中にある外灘の岸辺から遠ざかっていった。