懐古趣味な西洋建築の連なりが徐々に減ってゆく。かわりに見えてきたのは、黄浦江ホヮンプージャンの船着場だ。貿易船や商船の類はもう少し先の十六浦シィリゥプーに船を寄せるため、あそこに見えるのは観光用の遊覧船だろう。トタン屋根を打ち付けた簡素な水上巴士バスから、古ぼけた戒克ジャンク船、小ぶりだが壮麗な白い渡輪船フェリーまで、その種類は様々だ。遠く長江を渡ってきた風に抱かれて、黄浦江の波に乗り出す船がひっきりなしに行き交っている。
「寒ッ」 
 長江を渡ってきた風は、そこはかとない生臭さを帯びていた。河沿いに生きる人々の生活の匂いだ。その流れに沿うように、黄浦江の表面が静かな漣を描いてゆく。何時になく穏やかな水面に、ごく小さな波が生まれては消えていった。
 不意に首筋を撫でていった風に身を竦めた麗紅リーホンは、いかにも寒そうに両腕をさすると、
「外歩く羽目になるなら、もう少しあったかくしとけばよかったな。あんたさぁ、そんな薄着で寒くないわけ?」
 大袈裟に肩をすぼめた麗紅リーホンに視線をちらりと寄越して、紫霖ツーリンが軽く頷いた。確かにまだ寒さは残っているものの、今の風は真冬のように身を刺すほどの痛みを伴っていなかった。冷気の中に、ひそやかな春の暖かさが息づいている。風に身を竦ませるような季節が、もうまもなく去ろうとしていた。
「ああ、そういやあんたは北国育ちだったっけ」
 平然としている少年を、信じられないといった面持ちで見上げていた麗紅リーホンだったが、やがて合点したように頷いた。
哈爾浜ハルビンか……。遠いよな」
 憂鬱な煙霧スモッグが広がる空を仰ぎながら、麗紅が感慨深げに呟く。瞳に映した空の彼方が、少年の故郷と繋がっていることを確かめるかのように。
「あんた、よく此処まで来れたよな」
「……」
 思えば、もともと出逢うはずのなかった二人なのだ。棲んでいる場所がかけ離れているばかりではない。階級も、職業も、境遇も、何ひとつ繋がるもののない人間同士だった。哈爾浜ハルビンから遠く離れた街で、縁のなかった少女とこうして並んで歩くことになると、一体誰が知りえただろうか。
「――― なぁ、哈爾浜ハルビンってどんなとこ?」
「どんなって……」
 唐突な問いにしばし視線を彷徨わせた紫霖ツーリンは、考えつかねたように、
「此処より寒い」
「……それだけ?」
 胡乱げに見返す麗紅リーホンに、紫霖ツーリンは曖昧に首を傾げた。氷に閉ざされた極寒の街。街のはずれに横たわる松花江スンガリーは、あたかも時が凍りついたかのように流れを止め、辺りは白銀の樹氷に彩られる。夏になれば西洋橡樹マロニエの木々が優しくざわめき、中央大街の馬送爾賓館モルデンホテルでは素朴な味わいの雪條アイスキャンディを商う出店が、鮮やかなトリコロールの遮陽傘パラソルを立てるー――。
 駒落としのように次から次へと再生された光景を、紫霖ツーリンは言葉にすることが出来なかった。それだけでは足りない気がする。あの街がこんなにも印象深く残っているのは、幻想的な美しさの所為ではなかったはずだ。
 脳裏を駆けた光景の中には、いつだって妹の姿あった。それも母が亡くなってからの松花ソンファの面影ばかりが、犯しがたい初雪のように、思い出を美しく輝かせている。あの時はなんでもないと思っていた瞬間が、今は無性に愛しく思えた。母が死んでから、彼女の存在こそが世界のすべてになっていたのだ。
「……戻りたいと、思うか?」
「――― 出来れば」
 だが松花ソンファのいないあの街など、抜け殻同然だった。彼女とともに落としていった記憶の亡骸ばかりが残る場処など、今更戻ってなんになるというのだろう。
「そっか……そうだよな」
 紫霖ツーリンの胸のうちなど知らぬ少女は、自らに言い聞かせるように頷いた。そしてふと足を止めると、傍にあった欄干に手をかけ、対岸の浦東プートンと向かい合う。
「いつか、行ってみたいな。あんたが棲んでた街」
 此方に背を向けた麗紅リーホンの表情は、紫霖ツーリンからは窺えない。ましてや脈絡もなく呟いた言葉の理由など、分かるはずもなかった。
「あたしはこの街と、生まれ故郷しか知らないんだ。だから北の街がどんなものなのか憧れる。きっと、すごく奇麗なんだろうな、」
「……」
 年相応な無邪気さの中に、一抹の憂愁を含んだ麗紅リーホンの口調に違和感を覚えた。そういえば彼女が自分のことを語ったのは、これが初めてかもしれない。それまで麗紅リーホンは上海で生まれ育ったものだと思っていただけに、意外な気がしてならなかった。そういえば彼女が喋る言葉は生粋の上海人のものではない。公用語である北京語、それもかなり洗練された階級の、独自の訛りが交じっている。
それと同時に、紫霖ツーリンは何も知らなかった自分の迂闊さを危ぶんだ。無力な孤児を匿う騎士団の思惑、第九部の意図、麗紅リーホンの正体。どれ一つとして自分が知っていることはないのだ。先刻逢った女の声が蘇る。どうして彼らが自分をあの家へ置くのか、彼らの目的は何なのか……。
「――― オレ、あの店出てもいいか?」
 思わず口を付いて出た言葉は、自分でもまったく予期せぬものだった。その一言に、弾かれたように麗紅リーホンが振り返る。俄かに険しさを帯びた琥珀の瞳にぶつかって、紫霖ツーリンは弁解しようと口を開きかけたが、上手く声が出ない。まるで誰かに操られているかのような、自分の考えをまるで無視した発言に、紫霖ツーリンは密かに焦った。
「……へぇ?それで、どうしたいわけ?」
 欄干に凭れ掛かった麗紅リーホンが、狡猾な眼差しを向けてくる。なんでもない、そう誤魔化そうとしたが、紫霖ツーリンの意思に背いて口唇は想いもしない言葉を紡いだ。
「仕事を見つけて、住み込みでもいいから働く。これ以上、お前たちの厄介になるわけにはいかないし」
「妹はどうする?」
「オレ独りで何とかしてみるさ」
 自分はいったい何を言っているんだ。今言った言葉はすべて、心の中に隠し続けていた本音だ。あるいは願望かもしれない。妹を自分の手で助け出し、かつての平穏を取りもどす。だがそれは所詮夢物語だ。なんの力もない孤児に、拉致された妹を救い出す力がどこにあるというのか。
 そんなことは厭というほど分かっていた。分かっていたからこそ隠し続けてきたのだ。妹一人助けられない、自分の無力さと向き合いたくなかった。それが今、自分のあずかり知らぬところで暴露されようとしている。見知らぬ誰かが、自分の想いを、饒舌に喋り散らす舌を、意のままに操っているかのように。
「――― 話にならないね、」
 紫霖ツーリンの申し出を聞き終えた麗紅リーホンは、嘲るように鼻を鳴らした。
「いったい誰の入れ知恵だ?こんな莫迦げたことをあんたに吹き込んだのは?」
「誰でもない。オレの意思だ」
「ふぅん。忠告しておくが、この街じゃあ学のないガキが稼げるような仕事はないぞ。あったとしても、けちな労働者としてこき使われるか、躰でも売るしか方法がない。よしんば条件のいい仕事にありつけたとしても、身寄りのないガキは人身売買の格好のカモになる。まんまと言いくるめられて、売り飛ばされる羽目になるのは、あんたも身をもって知っていると思うけど?」
「……」 
 麗紅リーホンの的確且つ残酷な忠告に、紫霖ツーリンは口唇を噛み締めた。以前巻き込まれた忌まわしい事件が、生々しく蘇る。確かにこの街が抱える闇は色濃い。だからといって、それがすべてとは限らないはずだ。
「麻薬に売春、窃盗、恐喝、殺人……この街は、常に新しい獲物を求めてるんだ。その毒牙にかからないで生き抜く自信があんたにあるのか、」
「……関係ない。オレの生き方に、お前たちが口出しする権利なんてないだろ」
 反論するうちに、それが自分の意思によるものか否かという境界が曖昧になっていった。どうせ宝蘭堂ほうらんどうに留まったところで、妹が帰ってくると断言できないのが現実だ。そう気付いた以上、もはや騎士団に用はない。あの店で無為な日常を垂れ流しているくらいなら、妹を救い出すために奔走することを自分は選ぶ。そのために、この身がどんな危険に見舞われたとしても、だ。
「随分大層な口を利くようになったじゃないか。そこまでして妹を助けたいか?あんたが言ってるのは、今の平穏な生活を捨てるってことだぞ」
「……松花ソンファがいない平穏なんて、必要ない」
 いつになく強い口調で言い切った紫霖ツーリンに、麗紅リーホンの表情が僅かに翳った。あんたは、と言いかけた少女の口唇が続きを失う。
 確かに、騎士団による庇護を受ければ、なんの苦労もなく安穏とした生活に身を置くことができるだろう。だがそんなものはまやかしだ。ただ流されるままに生き、従順でいるかわりに平和を享受するような人間に成り下がりたくはない。
「このまま、お前たちの手の中で飼い殺しにされるのは、もううんざりだ」
「………あたしたちがいつ、あんたを飼い殺しにしたっていうんだ」
「始めからだよ。大体、オレはお前たちにとって利用価値のない人間のはずだ。なのにどうして、あの家に置いておくんだ?」
「憐れな家なき子をほっぽりだすのは、いくらあたしでも気が引けたからね。それだけのことさ」
「誤魔化すな。それなら、【冥夜めいやの使徒】っていったい何なんだ?」
「……ッ!」
 刹那、麗紅リーホンの双眸に電撃のようなものが走った。紫霖ツーリンがそれを訝む間も与えずに、少女が半ば脅しつけるように問い返す。
「あんた、誰にそれを聞いた?!」
 物凄い剣幕で、麗紅リーホン紫霖ツーリンの襟首を締め上げた。だが次の瞬間、それが暗黙の答えになってしまったことに気付く。
 紫霖ツーリンは掴みかかってきた手を乱暴に払いのけた。彼はもう何も言わなかった。ただ麗紅リーホンに対する軽蔑と不信感とにこごった眼差しを、氷の刃の如く突きつけてきただけだ。その瞳は、真実を告げずにいたことで、何か取り返しのつかない運命が、軋みをあげて廻り始めたことを示唆しているかのようだった。
 黄浦江ホヮンプージャンの波が、堤防に打ち寄せる音が聞こえる。周遊航海クルージングから帰ってきた遊覧船が、物哀しげな汽笛を長々と鳴らした。それに混じって鼓膜を震わせたのは、沈黙による耳鳴りだろうか。地の底から湧き上がるような、地獄から亡者の群れが這い上がってくるような、得体の知れない地響きが皮膚を撫でてゆく。
 何か言わなければならない。そう思っていても、体は凍りついたように動かなかった。少年の氷の視線に、縫い止められたかのようだ。しばし無言で紫霖ツーリンと対峙していた麗紅リーホンだったが、先刻から聞こえてくる地鳴りが徐々に近づいてきていることに気付いた。足元が僅かにぐらつく。心なしか、ついさっきまで穏やかだったはずの河の水面では、細かな波が神経質に震えているように見えた。
 同じように異変を感じ取った紫霖ツーリンが眉を顰める。不信そうに辺りを見回していた麗紅リーホンと眼が合ったとき、突如信じられない光景が彼の眼に映った。
麗紅リーホンッ!!」
 咄嗟に叫んだ少女の名前が、大地を割らんばかりの轟音に掻き消される。直後、真っ白な飛沫をあげて天を貫いた水柱が、まるで生きているかのように二人に襲い掛かってきた。