菜菜 は荊州 にほど近い村にある茶館の、看板娘だった。
茶館と言っても、木の卓子 と椅子を数脚置いただけの、簡素なものである。村人しか訪れない貧しい店はしかし、まずまずの盛況を見せていた。
この日も買い出しから帰る頃、顔馴染みの老爺たちとばったり出くわした。これから店に行く途中だという。長江 の畔 に佇む小さな茶館に、ひと時の安息を求めた人々が集い始める。菜菜 は雪解けによって幾分水位を増した長江を横目に、客たちの待つ店へと入っていった。
注文を受け、茶を出す準備をする。急須に茶葉を入れ、熱湯に浸す。客たちと他愛もないお喋りに興じているうちに、葉が開き始めた。掌に収まるほどの碗に、緑薫る茶を注ぎこむ。その時ふと、小さな碗が微かに揺れたのが分かった。
注がれた茶が、僅かに碗のふちから零れ落ちる。心なしか、店に置いた卓子の端も小刻みに震えている気がした。それを不審に思いながらも、菜菜 はさして気にも留めずに碗を客へと渡す。茶館のすぐ前に横たわる長江が、不穏な渦を巻き始めていることも知らぬまま、菜菜 は今しがた入ってきた客を笑顔で迎え入れた。
騎士団本部を後にした
麗紅 は、そのまま宝蘭堂 へと向かわずに、黄浦公園 を歩いていた。まっすぐ家に帰る気になれない。【匣 】の行方、烏龍幇 と唐 との関係、居候の問題ー――片をつけねばならぬ仕事は山積みだったが、今手をつけてもろくな作業が出来ない気がした。
紫霖 の身の振り方は、いずれ考えなければならない問題だった。いくらなんでも、彼をいつまでも宝蘭堂へ置いておくわけにはいかない。だが総帥 が何も言わないのをいいことに、ずるずるとその問題を先送りにしてしまったのは瞭かな失態であった。
麗紅 は何気なしに、己の掌を見つめた。先の事件で、少年の頬を叩いた手。危機を脱するためにとった行動とは言え、下手をしたら彼も標的として攻撃される恐れもあったのだ。その無謀さを知らせるための平手打ちだった。だが今後も、自分が知らぬところで彼が騎士団の任務に介入するようなことがあった場合、彼の命が危険にさらされることにだってなりかねない。
ならばなおのこと、紫霖 は宝蘭堂から出るべきだ。騎士団との関係を絶ち、麗紅 たちと出逢う前の生活に戻してやることこそ、彼を危険から遠ざける唯一の方法である。彼はこちら側に居るべき人間ではない。自分たちが進む夜の道を、歩かせてはならない存在なのだ。
だが彼が【冥夜 の使徒】であったとしたら、話は違ってくる。彼にその素質があるという証拠は未だ不十分であるが、可能性は否定できなかった。降誕祭 の夜に眼にした不可解な現象が、動かしがたい証明として麗紅 の中に燻っている。
彼が【使徒】の素質を持っていた場合、烏龍幇はまず間違いなく彼を潰しにかかるだろう。あるいは貴重な逸材として、手中に収めようとするかもしれない。紫霖 の性格からして、後者はありえない。権力に屈して従順になるくらいなら、死んだほうがましだと本気で言いかねない奴だ。ならば残された道は一つしかない。烏龍幇からの誘いを拒んだ【使徒】に与えられるのは、凄惨な末路のみだ。
その程度の予測は邦光 にもついているはずである。にもかかわらず一方的な退去命令を出したということは、騎士団は紫霖を幇会の毒牙から守る気がないということを示していた。蚊帳の外にいる民間人が幇会 の餌食になったとしても、当局 は一切関知しないということか。
ならば紫霖 に真実を告げてしまえばいいのではないか。麗紅 たちが追っているものの正体を知れば、邦光 だって彼をぞんざいに扱えなくなる。だがそれにも躊躇 いがあった。言えば、彼はきっと戻れなくなる。陽があたる場処、青空が広がる光の世界に。真実と引き換えに彼に与える十字架は、命の代償とするにはあまりにも重過ぎた。
幇会と騎士団の知られざる抗争劇。その舞台に立てるのは、真実を知る役者のみだ。遠い観客席に坐っていた者が、運命の手違いで一度舞台に上がったからと言って、それから先の惨劇に加わる資格はない。邦光 が言いたいのはそういうことだ。その考えに反発してしまうのは、自分が彼よりも長く紫霖 と時間を共有してしまった所為によるものだろうか。
せめて紫霖 に監視役でもつけてやれればいいのだが……叶うとも思えぬ希望を胸の中で呟くと、麗紅 は対岸に広がる浦東 の街並みへ眼をやった。天空を我が物にせんとばかりに立ち並んだ大廈 の群れは、それぞれが重なり合い、ゆるやかな幾何学を描きながら空へ伸び、架空の霊山めいた趣を醸し出している。煙霧 の中に聳える、蜃気楼の楽園。伝統的な大陸様式の寄棟 屋根を乗せた大廈 と、宝珠で飾った大廈 の隙間を、哨戒型網絡飛行船 が派手な宣伝文句を空に瞬かせながら泳いでゆく。
早朝ともなれば太極拳を嗜む老若男女でごった返す黄浦公園の賑わいは、正后 を回った今でも健在だ。観光客たちの雑踏に些か辟易していた時、遠くに居ても人目を惹きつけてやまない美貌が、ふと視界を過ぎった。
「紫霖 ?」
思わず口の中で呟いた声は、速やかな足取りで公園を闊歩する少年の耳には届かなかったようだ。此方に一向に気付く様子もない紫霖 に、何故か苛立ちのようなものを覚える。なんて暢気に歩いているんだ。人の気も知らないで。
邦光 に命令されたことが、自分の思いとはかけ離れたところで麗紅 を嘲笑っている。命じられたことと、自分の感情に折り合いがつかない。手に余る状況に追い討ちを掛けるような少年の様子に、罪のない悪戯心が湧き上がってきた。どうせならばうんと胆の冷えるような方法で、声を掛けてやろう。そのくらい赦されるはずだ。心の中で呟いて、紫霖 の背中に音もなく忍び寄る――――
「騒ぐなよ。少しでも動いたら撃つぞ」
すかさず紫霖 の両手首を拘束し、銃を象った左手を背中に押し付けた。ほんの少しだけ身を寄せながら、自分より少し高い位置にある耳元に囁きかける。無造作に掴んだ少年の身体が硬直したのも束の間、その声の主が誰であるかを悟った時には、彼の口から鬱陶しげな溜息が吐き出されていた。
「……脅迫される覚えはないんだけど、」
掴まれた手首を捩ると、紫霖 は顔だけで振り返った。同時に手を離した麗紅 はさして悪びれもせずに、しゃあしゃあと言い放つ。
「人が近づいてることに気付かないあんたが悪い。無防備にもほどがある。何されたって文句は言えないと思うけど?」
「………」
人を呼ぶのにこんな悪趣味な真似をするな、と抗議する気にもなれなかった。尊大な麗紅 の言い草に、反発する気が萎えてゆく。無言のまま背中を向けた紫霖 は、淡々とした足取りで歩き始めた。彼女の戯れに付き合ってやる道理はない。
「あんたが此処まで遠出するのは珍しいな。何か面白いものでもあったのか?」
「別に」
触れれば切られそうな紫霖 の邪険な眼差しを軽く受け流して、麗紅 が少年の隣を陣取った。そう言う彼女こそ、なぜこんなところにいるのだろう。確か今日は、浦東の病院へ出向いたのではなかったか。
「じゃあ何だ。あんたは別に用もないのに外歩くのか。まるで年寄りだな」
「盆栽の世話して、じじいと象棋 打ってるお前に言われたくない」
「日がな一日店番しかすることのないあんたよりはマシ」
口を開けば性質 の悪い皮肉しか返さない少女に心底嫌気が差した紫霖 は、もう話したくもないとばかりに顔を背けた。いっそのこと、この減らず口を縫い合わせて喋れなくしてやれたら、どんなに気味がいいだろう。無論、そんな真似をすればさらに恐ろしい報復が待っているのだろうが。