黄浦江 を挟んで、対岸に浦東 の未来型理想都市を臨む西洋建築の群れ。懐古趣味な租界時代の面影を色濃く残す外灘 の岸辺は、長江河口の奔流と共に上海に流れ着いた、貿易船や戒克船 を華やかに迎え入れる。東に聳える金属質 の高層大廈 街、西に連なるセピアの摩天楼は、この都市が魔都と呼ばれるに相応しい威容を備えていることを物語っていた。
中でも旧市街の外灘――― 中央の国政が不安定だった時代、外国列強がこぞってこの都市に押しかけた際産み落とされた西洋風の石造建築は、忌まわしき彼らが去った後も、かつての偉容を失わぬまま立ち並んでいた。その中でも一際目を引くのが、新古典様式を取り入れた、神殿めいた威厳を醸し出す建物である。そのてっぺんに戴く白亜の円天蓋 には、剣に巻きついた双頭の龍と桂花の紋章をあしらった旗がはためいていた―――― 誇り高き連邦警備保安局の証を、天地に知らしめるかのように。
上海騎士団の総本部、通称『凌霄閣 』である。
その最上階に位置する執務室は、映画の
屏幕 じみた大窓があるにもかかわらず薄暗かった。部屋全体をどこかしら陰鬱な、それでいて肌を刺すような緊張感を孕んだ重たい空気が支配している。心なしか、窓際に佇んで浦東を眺望する男の表情も強張って見えた。
独りで使うには広すぎる一室の主 とするには、些か若い男である。齢三十を超えたところだろうか。地味だが仕立てのいい背広を一分の隙もなく着こなし、榛 色の髪を綺麗に整えた姿が、彼の性質をあらわにしていた。目鼻立ちは端整であったが、見るものに緊張を強いるような厳しさを漂わせている。銀縁眼鏡の奥から覗く冷徹な双眸は、気の弱いものが直視したら息を止めてしまうほどに鋭い。
「失礼します」
商都 を覆う喧騒や黄浦江のさざめきなど一切届かない部屋に、扉を叩く乾いた音が響いた。続いて聞こえた少女の声に、男は顔半分だけを扉へと向ける。
「入れ、」
男が短く命じた後に、扉の後ろから声の主である少女が現れた。幾分寛いだ様子で椅子に腰を降ろした男に対し、少女はその姿に似つかわしくない、どこか武人じみた表情で直立の姿勢をとっている。だからと言って、目の前の男が持つ威厳に圧倒されていたわけではない。十六という年齢よりも幼く見える顔立ちは毅然としており、畏れや緊張と言った感情は見当たらなかった。
「坐ったらどうだ?」
「いえ、私はここで結構です」
男の申し出を臆した風もなく退けると、少女は琥珀の眼差しを向けてきた。この組織を統べる男を前にして物怖じ一つしない様子は、大胆を通り越してふてぶてしさすら感じさせる。
この部屋の主であり、総帥 として騎士団の頂点に立つ男―――陳 邦光 は困惑半分、呆れ半分と言った面持ちで目の前の少女を見遣った。
最後に逢ったのが、彼女が局長に就任したときであるから、既に半年以上の時間が経過している。彼女とはそれ以前からの面識があったし、年頃の娘にしては妙に小賢しい気質の持ち主であったが、いつの間にこんな表情をするようになったのだろうか。冷静にして狷介 な精神を宿した瞳は、組織をまとめ率いる者のそれである。その点において、規模や階級を異にするものの、彼女の持つ雰囲気は騎士団総帥である邦光 と引けを取っていなかった。
これが血のなせる業なのか。あるいは……。
ふと湧き上がってきた思いを心の奥で払い退けるのと、騎士団第九部局長・黄 麗紅 が口を開いたのが同時だった。
「それよりも総帥。本日はどのような用件で私は招かれたのですか」
「……思い当たる節はないのか?」
「関 秀来 の送検、もしくは裁判に必要な資料の中に、何らかの問題があったのでしょうか?」
「その件は既にカタがついた。我々が手を出す必要はもうない」
「それでしたら、花渓幇 に関する問題、もしくは唐 が重傷を負った事件についての報告に不備が?私が最近手掛けた事件、現在捜査中の事件は以上ですが―――、」
「それも違うな」
短く言い捨てた声には、なんの感情も存在しなかった。あくまでも事務的に対応する邦光 を訝しげに凝視する麗紅 は、ただおし黙るしかない。
「時間がないから単刀直入に言おう。現在君が匿っている少年について、聞きたいことがある」
先刻に比べれば幾らか穏やかな声音をしていたが、邦光 の両眼は笑っていなかった。その視線を泰然と受け止めながら、麗紅 は胸の奥で密かに舌打ちする。それまで極力避けてきた話題を、此の男は何故今になって持ち出したのだろう。瑞杏 から呼び出しを受けた時点で薄々感づいていたことだったから、見苦しく動揺せずに済んだのがせめてもの救いである。
「朱 紫霖 。表向きは昨年十二月に発生した孫 福康 による武器密造事件の重要参考人となっているな。正確には、【宝匣 】の持ち主と目されていた人物だ。聞くところによると、この少年を事件現場へ同行させ、後に第九部の本部に居候させているらしいが……これは君の判断と見て構わないか?」
「―――― はい。すべて私の独断によるものです」
特に悪びれもせず頷いた麗紅 に、邦光 があからさまに眉根を寄せる。
「私の許可も得ず、か?随分と勝手な真似をするようになったな。よりによって民間人をあの店に引き入れるなど……」
まったく、正気の沙汰とは思えぬ振る舞いであった。
第九部の存在は、世間一般人はおろか、騎士団内部でもごく僅かな人間にしか知られていない秘密裏の部署だ。総帥自らが命令を下す直属の組織であり、表沙汰には出来ない事件を捜査局に代わって処理するのが彼らの役目である。闇から生まれた事件を、騎士団の名に泥を塗る前に葬り去る。それが可能なのは、いつでも切り捨てられる覚悟を持った夜の住人たちのみだ。ゆえにその存在を民間人に知られることは、第九部の存続に関わる致命傷となりかねなかった。
「凱 の報告によれば、人買いに連れ去られたこの少年を救出するために、例の娼館を襲撃したそうだな。正義を気取るのは結構だが、君の行動一つでこちらがどれほどのリスクを背負うことになるのか、ある程度自覚してもらわなければ困る」
眉間に神経質な皺を増やしながら、邦光 が淡々と誹謗を連ねた。その声は咎めると言うよりもむしろ相手の至らなさを抉るかのように聞こえ、麗紅 は固く引き締めた顔がげんなりと緩むのを堪えねばならなかった。
「凱 がなんと報告したのかは存じませんが、それは事実無根の誤解かと思われます。ですが、民間人をあの家に匿い、あまつさえ事件現場へ引き連れて言ったことに関しましては返す言葉もございません」
麗紅 は慇懃に腰を折りながら、相手の顔色を素早く読み取った。少なくとも彼は、麗紅 の真の狙いを嗅ぎ取ってはいないようだ。邦光 は頭を下げた少女を興味もなさそうに一瞥すると、極めて無慈悲な結論を言い渡す。
「いずれにせよ、起きてしまったことを今更蒸し返しても何の得にもなるまい。今まで気付かずに放って置いたのは私の落ち度だ。今回は見逃してやろう」
「――― それで、処分はいかがいたしますか?」
「速やかに彼を宝蘭堂 から立ち退かせること。住居を与え、学校に行かせるなり仕事を斡旋するなりして、我々と接触する以前の環境に戻してやるよう手配したまえ」
予め用意してあった書類を読み上げるようなさりげなさで、邦光 が今後の方針を述べた。いくら予想していたとは言え、気の重い判決である。麗紅 の脳裏に、普段は無愛想なくせに、妹のことが絡むと途端にむきになる少年の顔が浮かぶ。その姿に何かしら後ろめたい想いを感じながら、麗紅 は口調の端に切り札を忍ばせる手筈を整えた。その罠に、邦光 がかかるかという賭けとともに。
「彼は、先の事件で烏龍幇に拉致された妹の行方を知りたがっています。彼が我々の店に留まるのも、それが目的のようです。今更出て行けといったところで、納得するとは思えませんが、」
ことさら未練がましく食い下がる麗紅 を、邦光 が冷ややかに見遣る。
「それでも、だ。残念だが彼には妹のことを諦めてもらうしかあるまい。無論、あの店を出て行った後に彼に内部の情報を与えたりしてはならん。君たちのことが暴露されないよう取り計らった後は一切、我々との接触を絶つんだ」
「如何なる理由があっても、彼を我々の組織に立ち入らせてはならない……と仰いますか?」
「ああ、その通りだ」
邦光 は、麗紅 が一介の孤児に過ぎない少年をなぜ匿ったのか、という理由までは思い至っていないようだった。だからこそあっさり頷いたのだし、大した興味も示さないでいられたのだ。仕掛けるまでもなかったかな。心の中で呟いた麗紅 は、此処数ヶ月の間、宝蘭堂の同居人にも隠し続けた、とっておきの爆弾を投げつけた。
「―――― 彼が、【冥夜 の使徒】であったとしても?」
「……何だと?」
麗紅 が叩きつけた切り札は、この堅物の心を少しは動かしたらしい。眼鏡の奥で、月夜の海にも似た深い藍の瞳が険しい光を帯びる。喉元まで出掛かった衝撃をすんでのところで飲み込むと、邦光 は相変わらずの仏頂面で少女を睨み据えた。
「何を理由にそう思う?」
声こそ冷静であったが、デスクの上で組まれた両の手は幽かに震えていた。してやったりと言わんばかりの笑みが麗紅 の口元に灯る。やっと食いついてきたな。思ったとおり、少しは楽しめそうだ。
「孫 の屋敷に乗り込んだとき、彼の躰と【宝胤 】が共鳴するという現象が起こりました。また、【使徒】である翡翠 に拒否反応を起こしたとき、一瞬ですが磁力を生み出した」
一つ一つ言い聞かせるように指摘すると、麗紅 は邦光 の元へと歩み寄った。これ以上ないほどに慇懃な素振りで、にもかかわらず勝ち誇ったような微笑を浮かべながら。
「それが彼をあの家に留める理由か?――― 君らしくもないな。そんな不確定要素を信用して、無関係の人間を迎え入れるなど、」
「ならば彼の躰を調べてみたらいいでしょう。もし彼が【使徒】であったならば、彼をあそこへ置く理由になりえると思いますが?」
デスクに手をついて挑発するように身を乗り出した麗紅 を、険を増した藍の双眸が射抜く。真っ向から睨み合った二人の間に、明るい午后 の日差しが降り注いだ。柔らかな春の光すら凍りつきそうな静寂が、辺りにしんと垂れ込める。
さあ、お前はどう出るつもりだ?この仮説が正しかったとしたら、彼の存在は願ってもない幸運を導く鍵になるだろう。お前はその幸運を拾い上げるか?己 が野望のために、何も知らない少年を忌まわしき財宝の贄と捧げるか。
胸の内で問うた声は、邦光 に向けられたものであったのだろうか。あるいは自分の覚悟を試すものであったのかもしれない。いずれにせよその答えが、虚しさに満ちた正義の証となることは間違いなかった。
どれほどの沈黙が流れたのだろう。上海にひしめく雑音の嵐が、耳鳴りのように遠く聞こえるほどの静寂。一瞬此処がどこであるかを忘れてしまいそうな沈黙の後に、邦光 がゆっくりと口を開いた。この時間の終焉を告げるかのように、冷然と。
「――― 却下だ。彼は事件の当事者であって、騎士団の人間ではない。ただの民間人だ。君たちのようなケースとは違う」
「ですが彼には、【使徒】としての素質があります」
抗議を訴える声は、ひどく上擦っていた。感情的になりかけた麗紅 の言葉を、冷水を浴びせるような総帥の低い声が制する。
「それだけではこの争いに生き残れるわけがないだろう。君や彗星 たちのように、彼にも何らかの特出した要素があるのならば、私も少しは検討するが」
邦光 の台詞に、麗紅 は何か言おうとして口を噤んだ。忌々しげに口唇をかみ締めながら、落ち着き払った邦光 の視線を受け止める。麗紅 の中で、敗北感にも似た悔しさが膨れ上がっていった。それは唯一にして最上の切り札が、いとも容易 く無効化されたことへの苛立ちではなかった。
邦光 は少女の心中などあえて無視するかのように、さりげなく視線を逸らした。デスクの端に設置された電脳が柔らかな機械音を響かせ、電子郵件 が届いたことを報せる。そちらへと指を滑らせながら、邦光 は淡々と続けた。
「とにかく、私は彼を【使徒】として迎え入れるつもりはない。君は何の罪もない民間人を、これ以上の厄災に巻き込むつもりか?今までの事件を考えてみろ」
デスクに浮き上がった空中画面へ意識を向けたまま、邦光 が問うた。その言葉に、少女は答えない。ただ何かを堪えるように、軽く項垂れただけだ。
「昨年の蘇州 事変に、今回の唐 の負傷事件。君の父親が命を落としたのだって同じことが言える。あの忌まわしき財宝が存在するが故に、多くの血が流される。かつてそうであったように、な。だからこそ、私は無関係な民間人をこちら側に引き入れるような真似は……、」
「なら訊こう。こちら側の人間ならば、どんな目に遭ってもいいと言うことか?」
それまでじっと床を凝視していた少女が、邦光 の台詞を遮った。部屋に入ってから今まで粧 ってきた、恭しくも毅然とした態度が嘘のように豹変した少女の口ぶりに、邦光 が空中画面から目を離す。
麗紅 が俯けていた顔を上げる。そして滾るような怒りと憎しみを燃やした双眸を、邦光 へと向けた。
「この半年で、奇麗事を並べるのが随分お上手になったもんだ。罪もない民間人を巻き込みたくない?笑わせるのも大概にしろよ」
低く渦巻くような声が、執務室にわだかまる薄暗い闇へと溶けてゆく。取り繕ってきた少女の感情が、砂の城のように崩れていくのを凝視 めながら、邦光 はただ黙していた。微かな殺意さえ感じさせる麗紅 の声に、身動きすら封じられてしまったかのようだった。
「今更そんな奇麗事を言えば、赦されるとでも思ったか?あの時……」
言いさした麗紅 の瞳にふと過ぎったのは、隠しようもない哀しみの欠片。
「あの時、あいつを見殺しにしたお前に、そんな資格はないだろ、」
限りない憎悪の中に、抑えきれない哀切の響きが滲んだ。それは未だ癒えることのない傷の痛みに啼く者の叫びだ。己の躰からとめどなく溢れる、絶望という名の血を止める術を乞うような、麗紅 の眼差し。それに出逢ったとき、邦光 は思い出の中の少女と、今目の前にいる彼女が確かに重なったのを感じた。
「―――― ……俺は、」
かつて幾度となくこの瞳に映した姿。それが未だ失われていないことに安堵しながらも、もはや自分が彼女にとって、憎しみの対象にしかならないことを思い知らされた。自分があの夜に失ったものは、彼 の存在だけでないことを。
「あの時は、………本当に、済まなかったと思っている」
じっと何かに耐えるかのように、邦光 が固く眼を閉じた。騎士団の総帥とその部下と言う境界を忘れた謝罪の言葉は、今なお虚しく開いたままの溝を修復してくれるのだろうか。いや、そんなもので償えやしないだろう。自分の犯した罪は、それほどに重い――――。
「――― 冗談だよ。そんな顔をするな、」
「……麗紅 ?」
目蓋を開いた邦光 の目に、何処か困ったような麗紅 の顔が映った。戸惑ったように眉を寄せた邦光 に、リーホン が幾分おどけた調子で微笑みかける。だがそれも一瞬のことで、少女はすぐさま姿勢を正すと、
「詫びねばならないのは私の方です。私が軽率であったばかりに、余計な犠牲を増やしてしまった。それに関しては、既に納得しております」
先刻、憎悪の言葉を吐いた者とは思えぬほどの落ち着きぶりで、麗紅 が言った。総帥への忠誠を誓う者らしく、誠実に。だがそれは、彼女がもはや邦光 の部下でしかないことを物語っていた。かつての関係を断ち切るような麗紅 の口調が、微かな痛みを伴って邦光 の耳へと響く。
「にもかかわらず、こんな私にチャンスを与えてくださったことには感謝しています。それだけは、いずれきちんと報告しようと思っていました」
何かにふっきれたように清々しい少女の顔はしかし、失われた信頼を呼び覚ますことを拒んでいた。
「居候の件につきましては、私が片をつけます。総帥がそこまで仰るのならば、出来るだけ速やかに彼を店から出て行くよう手配いたしましょう」
「――― ああ。それでは宜しく頼むぞ」
折り目正しく敬礼した麗紅 は、暇を告げて踵を返した。淀みない足取りで部屋から出ようと扉を開きかける。その直前、彼女を引き止めるような邦光 の声が耳朶を打った。
「お前があの件について、気に病むことは何もない。すべて私の責任だ。それを忘れるな、」
「―――― 失礼します」
邦光 を顧みる素振りすら見せずに、麗紅 が扉を閉める。肯定も否定もしない冷たい響きが、いつまでも部屋の中に残っているような気がした。最前のやり取りこそ、現在の二人の関係のすべてであると、嘲笑うかのように。
少女が去った後、再び静けさが舞い戻った部屋の中で、邦光 はしばらくその沈黙に耳を傾けていた。会話の途中でほったらかしにしていた電脳の回線が、空間を齧るような音を立てている。やがてデスクに突いた肘に頭を預けていた邦光 は、すっと顔を上げて電脳の回線を無線通信へと切り替えた。
「凱 、聞こえているか?」
「総帥?何があったんっスか、いきなり」
デスクの上に浮かび上がった屏幕 から、電波が悪いのだろう、輪郭のはっきりとしない青年の顔が像を結んだ。
「今の任務が終わった後……いや、手が開いた時でいい。朱 紫霖 という少年の素性と経歴を徹底的に調べてくれないか」
「別にいいっスけど……何スかそれ?結婚相談でも持ちかけられたんスか?」
「冗談を聞く暇はない。情報が第九部に漏れないよう慎重にことを進めてくれ―――― 頼んだぞ、」
一方的に通信を切ると、邦光 は深々と椅子に沈み込んだ。早春の日差しが目に沁みる。微睡 みたくなるような陽光に束の間の安らぎを覚えていたとき、すぐさま入ってきた社内電報が、無機質な電子音と共に、間もなく会議が始まることを伝えた。
邦光 はゆっくりと椅子から身を離すと、電脳回線を遮断して部屋を後にする。
主を送り出した執務室に、柔らかな一条の光線だけが差し込んでいた。