希臘の神殿を模した露台に、白くくすんだ緞子がのぞく小窓。中山東路から旧市街へと続くその道には、決して華美ではないが小粋な雰囲気で装った、西洋の下町が広がっていた。枯れた蔓草が黒ずんだ紅煉瓦の塀に模様を描き、窮屈そうに肩を寄せ合った屋根の間には、蜘蛛の巣めいた電線が垂れ下がっている。セピア色の時間と、遠く離れた異国の叙情を封じ込めた、共同租界の片隅。
大陸式の文化とはかけ離れた閑静な通りは、以前住んでいた街とよく似ていた。深い意味も無しにその界隈を散策していた紫霖は、露地に漂う雰囲気に既視感めいたものを憶え、歩みを止める。見上げた先に映ったモノクロームの扉から、見慣れた少女がひょっこりと顔を出し、笑いかけてくる追憶の幻影がふと過ぎった。
とりとめもない郷愁が一時だけ脳裏を占めた少年の背後から、幼子のあどけない笑い声が聞こえた。振り返れば母親に手を引かれた娘が、擦れ違った老人の連れた犬と戯れている。おっかなびっくりな手つきで、けれど無邪気に犬を撫でる子供の振る舞いに、飼い主と母親の顔が自然と綻んだ。
そう云えば。他愛もない光景に記憶が刺激される。幼い頃の松花もああしてよく通りすがりの犬を撫でていたっけ。けれども近所の犬に吼えられて、半分涙しながら自分に助けを求めたのは、確か天津に移り住んで間もない頃の出来事だったろうか。
母に連れられるまま、大陸を転住する生活。天京、北京、天津、大連、そして哈爾浜―――いずれ去ることが約束された仮初めの都市たちに、感慨など抱いたことはなかった。けれども亡き母親や妹と共に紡いだ追憶の欠片たちは、色褪せることなく去来する。母が他界した後の日々も、経済的な力も社会的な能力も無い子どもがたった二人で生きるには過酷で、時に押し潰されそうにもなったが、なんとか生き抜くことは出来た。決して多くのものを手にしていたわけではない。だがそこには松花がいた。たった一人の、かけがえのない肉親が傍にいるというだけで、満ち足りた日々が流れ過ぎていくのを、確かに感じていた。
やがて犬を撫でていた娘が、母親に宥められて歩き始めた。遠くなっていく二つの背中に、在りし日の母親と妹の姿が重なる。どこにでも転がっている穏やかな日々。そんな些細な光景すら、今の自分には届かない。
松花が攫われ、大陸最強の犯罪組織と騎士団の抗争に巻き込まれたのを皮切りに、生死に関わる物騒な事件に立て続けに巻き込まれた。宝蘭堂に転がり込んで数ヶ月。妹を探すために選んだ道は、紫霖からありふれた幸福を奪い取った。この手から飛び立っていった平穏な日々が舞い戻ることを望む一方で、その願いを聞き届けてくれる者など存在しないことを、最近うすうす感じ始めている。
紫霖の指が、無意識のうちに左の頬に触れた。あの時感じた痛みを、確かめるかのように。
数週間前ある事件に携わっていていた同居人に、頬を張られた痛みが鮮やかに甦る。それは彼女に逢ったときから燻っていた、不信感や懐疑を一段と濃くするような出来事であった。
余計な真似はするなと言った。ならばなぜお荷物同然の自分を、わざわざあの家へ置くのだろう。喩えようのない不満は疑惑へと形を変え、答える相手のない疑問を己が心に投げかける。だが同時に、紫霖は恐れてもいた。その答えが明確に知らされることを、心のどこかで拒んでいたのだ。
「ひょっとして、この辺りの方?」
様々な思いに囚われていた紫霖の耳朶を、華やかな女の声が打った。咲きかけた桃の蕾が、花芯から幽かな芳香を漂わせるような声。心なしか、甘い香りが風に乗って、鼻腔をくすぐっていったような気さえする。
「あ、もしかして以前此処に住んでいたの?今はこの公寓、人がいないんですってね。浦東の開発ブームの余波がここにも来たってことかしら?その所為か、古い建物は敬遠されがちなのよね。嘆かわしいわ、本当に」
声の主は、古風な旗袍を纏った女だった。まだ若い、どう見ても二十代前半と思しき女である。くすんだ若草色の布地に、薄紅の蓮花と金色の胡蝶が刺繍された旗袍は時代錯誤の骨董品だったが、この女の持つ雰囲気にしっくり合わさっていた。耳の傍らで結い上げた長い黒髪が、その肩先に落ちかかっている。派手なつくりの鼻梁は、くっきりとした山を描く口唇の紅に彩られ、猫眼がちの紫瞳を悪戯っぽく輝かせた顔立ちは、前世紀のモノクロ電影に生きる明星を髣髴させた。
「まぁ、古い建物の設備が心配だって言う人も居るけどね。貴方ご存知かしら?旧正月行列があった日に、准海路の高級公寓で煤氣漏れがあって、爆竹を鳴らした拍子に爆破が起きたっていう事件。物騒な世の中だわぁ、そう思わない?」
それまで独り言のように語り続けていた女が、急に話を振ってきた。傍らに聳える公寓を一瞥し、さりげなくその場を去ろうとしていた紫霖の腕を掴んで強引に引き止める。その拍子に、女の大きな猫眼と視線がかち合った。
「もう、君に言ってるのよ。ちゃんと聞いてる?」
硬質な紫水晶を思わせる瞳のなかで、銀色の虹彩が、玻璃が砕けたような煌めきを放っている。一目で義眼と分かる代物だったが、紛いものの輝きに暫し心を奪われた。じれったく此方を凝視める女の視線に、居心地の悪いものを感じた紫霖は、
「……離せよ、」
冷たく一蹴すると、煩わしげに女の手を振り解いた。呆気にとられた女など意に介さず、そのまま女の傍から離れようとする。あんな上物の義眼を嵌めている奴にろくな連中などいない。あの女も大方、何処かの成金の愛人か、高級娼婦の類であろう。堅気でない人間に関わって莫迦を見るのは、もうたくさんだった。
「――― それにしても静かなところだわ。君が前に住んでいた哈爾浜の公寓とちょっと雰囲気が似てないかしら?」
「――――?!」
背後から問われた言葉は、少年を振り向かせるに十分な力を備えていた。思わず足を止めた紫霖に、女が澄ました微笑を投げかける。
「前の家は壊されちゃったから戻れないんでしょう?どうせだから此処に引っ越してしまえばいいわ。でも、働き口が見つからないんじゃどうしようもないか」
「………」
「ああ、よかったらわたしが仕事紹介してあげましょうか?と言っても、わたしと同じ職場なんだけれど。丁度人手が足りなくて困っていたところなの」
「……… 遠慮しとく、」
紫霖はそっけなく首を横に振った。華やいだ口調で次々と畳み掛ける女に辟易しながらも、その真意がどこにあるのか探ろうと身構える。女はそんな少年の困惑を楽しむように眼を細めると、
「そんな気、使わなくてもいいのに。それとも愛しの妹さんが居ないんじゃ、やる気が起きないのかしら?朱 紫霖君、」
「………っ」
無表情な仮面を貼り付けた紫霖の顔に、衝撃が走った。かつて感じたことのある不安が脳裏を過ぎる。見も知らぬ人間から名を呼ばれる、恐れと胸騒ぎ。そして本能が鳴らす警鐘。さざなみのように広がり溢れ出した不安を鎮めようと、紫霖は拳を強く握り締めた。
この女はいったい何者だ。自分の何を知っている?
息苦しいほどの沈黙が、やけに長く感じられてならない。不規則に脈打つ血がめぐる音も、五月蝿く聞こえて厄介だ。それにしても、先刻から纏いついてくるこの香りは何なのだろう。季節柄、花が咲く時期ではない。そもそもこれは自然が生み出す芳香とは何かが違う気がする。甘やかに誘いかけるような、それでいて意識の一部を麻痺させるほど強烈な、蜜の如き空気を圧縮したような匂い―――。
「心配しなくてもいいわ。君を売り飛ばすような真似はしないから。もしわたしについてきてくれたら、悪いようにはしないけど、」
「……っ、断る」
かたくなに首を振った少年の肩先から、滑るように一羽の蝶が現れた。こんな春先になぜ……。怪訝そうに眉を顰めた少年を揶揄うように、蝶は憂いを含んだ碧い翅を優雅に閃かせる。そして水銀の如き燐粉を撒き散らしながら、晴れた空へと舞い上がっていった。
「あら、どうして?」
蝶に気を取られていた少年の心を戻そうとするかのように、女が問いかける。だが紫霖の耳に、女の声がはっきりと届くことはなかった。何故だか分からぬが、女の声が水の中から呼びかけられたように朧に聞こえる。それどころか視界さえも、水面の底を覗き込んだかのように揺らめいているではないか。
「今の、家を……出る、わけには………いかない、」
自分の声までも、誰か別の人間が喋っているように聞こえた。覚束なくなった足元と同じように、滑舌の悪い口調で答え返すものの、意識が宙に浮いているみたいで落ち着かない。空へ舞い上がった蝶が、自分の魂の一部をさらっていったのだろうか。だとしたら視界がこんなにも曖昧で、不安定に揺れているのも納得がいく。自分は今、蝶と視界を共有しているのだ。
「ふぅん。そんなにあの家の居心地がいいって言うの?」
「違う……あそこにいれば、松花の……妹の、行方が」
言いかけてから、紫霖は口元を押さえた。こんな得体の知れない女に、一体何を言っているのだろうか。
「なるほどね。貴方にとってあそこは得をする場処ってわけか。――― けど、向こうにとってはどうかしら?」
「なん……だって?」
「確かに彼女たちにしてみれば貴方は必要な人材だわ。だからこそ契約をしたんでしょう?妹を救ってもらうかわりに、貴方は【冥夜の使徒】としての能力を提供するって、」
女が何を言っているのか理解出来なかったのは、この意識の不安定さの所為ではなかった。契約?冥夜の使徒?一体なんの話だ。
「あら、もしかしてご存じないの?どうして彼らが貴方をあの店に置くのか、彼らの目的が何なのか……」
「………」
「まさか本当に、彼らが貴女の妹を連れ戻すのに協力してくれると、期待しているわけではないでしょう?」
女は口元を嘲笑の形に歪めると、試すような口調で囁いた。そんなことは厭と言うほど理解している。そう言い返そうとしたが、言葉に詰まった。
此処数ヶ月のうちに、麗紅たちに過剰な期待をかけるのは莫迦げていると、何度も自分に言い聞かせてきたではないか。ならば何故自分は、かたくなにあの場処に留まろうとするのだろう。そして何故彼らは、何の力も持たない自分をあの家に留め置こうとするのだろうか。
女の手によって芽生えた不安が、それまで溜まり続けていた疑惑に直結する。胸に湧き上がった動揺を悟られたくなくて、紫霖はさりげなく視線を逸らした。
「なんの見返りもなしに君を匿うほど、騎士団は暇じゃないわ。それくらい分かっているんでしょ、」
女は紫霖の葛藤を見透かすようにそう言って、僅かに青褪めた彼の頬を愛しげに撫でた。海の底を漂うような揺らぐ視界の中、女の手は春風めいた温かさをもって少年の意識のうちへ割り込んでくる。その感触が心地よく、思考や疑惑の一切を捨てて、このままこの手に流されてしまえればいいのにとすら思えた。
「ああ、ようやく自分の置かれている状況が分かってきたみたいね。よかったら、教えてあげましょうか?彼らの目的を、貴方の存在価値を」
その声の方へ彷徨いかけた意識を迎え入れるかのように、女が嫣然と微笑む。その勝ち誇った響きを耳にして、紫霖は一瞬我に返った。霞がかった世界がほんの少しクリアになる。その中で一際眩く輝く紫の瞳に出逢って、紫霖は思わず眼を伏せた。この眼に惑わされては駄目だ。見れば、自分を失って仕舞う。
「強情ねぇ……」
女は顔を背けた少年を見て、呆れたように息を吐いた。
「いいわ。わたしの言うことが信じられないのなら、一ついいことを教えてあげる」
意味深な台詞に首を傾げかけたとき、女が紫霖の耳元へと口唇を寄せた。耳朶を撫でる吐息に強張らせた少年の肩を、女が逃がさぬように強く握り締める。そうしてしなやかに鼓膜を震わせた単語の羅列は、紫霖をさらなる懐疑の迷宮へと突き落とした。
「……何、それ?」
まるで意味を成さないアナグラムにも似た囁きに眉を顰めた紫霖を、女は可笑しそうに見遣った。謎めいた曖昧な言葉の意味を問う幼子を宥めるように、女が少年に笑いかけると、
「宝の隠し場処よ……。よぉく覚えておいてね?」
拍子抜けするほどあっけなく、肩を掴んだ手を離した。強い光を放つ紫の義眼が此方を見据え、銀の虹彩がカレイドのように散らばるのを、紫霖は呆然としながら受け止める。
「信じる、信じないは貴方の勝手だけどね……。さぁ、眼を閉じて」
命じられた紫霖は、言われるままに目蓋を閉ざす。何故だかわからないが、そうしなければならないような気がした。未だぼんやりとした視界の中、闇に落ちかける前に、女の繊手が蝶のように舞って目の前に翳される。
「貴方は真実を知るべきだわ。その覚悟が出来たら、いつでもわたし達のところへいらっしゃい。―――― それじゃあ、またね。紫霖君」
ぴちゃん、と水面に雫が落ちるような音が響いたと同時に、紫霖の意識が浮上した。水の底から空中へと。それまでぼんやりとしていた世界が、急に確かな輪郭を持って辺りを取り巻く。石造りの瀟洒な公寓、複雑に絡み合う電線、遠くに聞こえる南京路の雑踏、耳を聾するクラクションの叫び。女に話しかけられる前まで、確かに見えていた存在がはっきりと認識できた。紫霖は狐につままれたような面持ちで、辺りをぐるりと見回し……自分の目を疑った。気付けばこの界隈に、自分以外の人影が見当たらなくなっている。
女の姿は忽然と、陽炎のように消え失せていた。