「納得しかねるのはそれだけではありません。何故彼らはあんな手の込んだ真似をしてまでタオを殺害したかったのでしょうか」
 予め解いてある答えを生徒に尋ねる教師のように、麗紅リーホンが問いかけた。瑞杏ルイシンは何も言わずに目線でその先を促す。
花渓幇ファーシィパンの人身売買や売春産業における市場での影響力は、確かに抜きん出ています。だがそれは上海に限っての話だ。大陸全土……いや、世界規模で独自のマーケットシェアを確立している烏龍幇ウーロンパンにしてみたら、タオの組織など取るに足らない存在です。それに今更上海での裏事業をめぐって、烏龍幇が躍起になる必要なんてないでしょう?」
 犯罪組織として無類の権力を誇る烏龍幇であるが、此処最近は浦東プートンに籍を置く贋物フェイクの企業を中心に事業展開をしていた。従来のように表立った犯罪へ直接介入し、尻尾を覗かせるようなヘマはしない。あくまでも強大な影響力を、他の組織に誇示するのみである。
「花渓幇はここ数ヶ月で急進したマフィアです。その裏で、烏龍幇が手を貸していたと言うのは考えられます。だとしたら何故、烏龍幇がタオと手を結び、あまつさえ彼を口封じする必要があったのか。そこに何か理由がある気がしてなりません」
「なるほど?」
 麗紅リーホンの説明を興味深そうに聞いていた瑞杏ルイシンが、意味ありげな相槌を打った。鷹揚に坐席シートに凭れ掛かり、長く伸びた足を組みかえる。確信めいたものを宿した色素の薄い瞳が、一瞬だけ光を帯びて見えた。
「それで、貴女はどう思っているの?その理由とやらを」
「あたしは……」
 間を待たず切り返されて、麗紅リーホンが言い淀んだ。タオの病状を知らされて以来、いや、もしかしたら唐が倒れた時点で頭を過ぎった仮説を、今此処で軽々しく口にするべきか迷う。確かな理論と証拠がない、単なる一つの可能性に過ぎない話をするのは麗紅リーホンの信条に反するものだ。飛躍した考えは妄想として片付けられる。それは何よりも耐え難く、愚かしいことのように思えた。
 しかし少女の目の前に坐る雇い主は、彼女の心情などはなから承知しているようだった。妄想とは思わないからとりあえず話してみろと、瑞杏ルイシンの眼が言っている。
「あたしは、花渓幇ファーシィパンと烏龍幇との間に、経済的な関係や人脈確保とは違った取引がなされたのではないかと思っています。そしてそれは、烏龍幇にとって経済的な利潤と匹敵しうるほどの効力を持っていた」
 窓の外で、金属質メタリック大廈ビルの群が次々と移り変わってゆく。その光景を横目に見ながら、麗紅リーホンは大きく息を吸い込んだ。これ以上、躊躇していても仕方がない。
「例えば、タオが【宝胤ほういん】の手がかりを持っていた、とか」
 その名前を突きつけた瞬間、車内の空気が息詰まるような緊張を孕んだ。それは麗紅リーホンの言葉を否定するものではない。むしろその逆であった。
「つまり貴女は、タオが宝の隠し場処について、何らかの関わりを持っていたと。そう仰るわけね?」
「ええ、確信はありませんが」
「それならひとつ、頼みたいことがあるの、」
 突拍子もない話を聞かされても、動揺の欠片すら見せずに瑞杏ルイシンが微笑んだ。艶やかな微笑みは、麗紅リーホンの推測が飛び出すのを始めから知っていたような様子すら窺える。
「実は一昨日、天津テンシンで調査をしていた部下から情報が入ったの。【はこ】を持っていた人間と接触したって」
「……羅刹法師らせつほうしから?」
 【匣】という単語に、麗紅リーホンが眼をみひらいた。その名を呼ぶ声が、幾分上擦った疑問符を投げかける。
「持っていた……ってことは、既に手放した後ですか?」
「ええ。その人はもう十年位前に知人に【匣】を譲ったらしいの。とても古い、骨董品アンティーク自鳴琴オルゴールだったそうよ。その知人は上海にいると言っていたわ。彼の名前は荘 敏チョン ミン。上海でそれなりの成功を収めていて、最後に逢ったとき黛玉ダイユーという恋人を連れていた……と」
 荘 敏チョン ミン、と麗紅リーホン鸚鵡おうむ返しに呟いた。聞き間違えるはずもない。それは情報データを消し去られた微小晶片マイクロチップの製造番号から割り出された、タオの本名であった。
「――― つまりタオは、【はこ】を所有していたのか。烏龍幇ウーロンパンの目的はそれか?」
 可能性としては十分にありえる。【匣】はその真の使い道を知らぬものにとってはただの骨董品に過ぎない。だが烏龍幇にしてみれば【匣】は金塊と同じ、いやそれ以上の価値を持つものである。
 烏龍幇は上海における売春産業で利益を上げることと引き換えに、タオから【匣】を譲り受けた。しかし騎士団、正しくは第九部にその取引を知られることを危惧した烏龍幇は、口封じのためにタオを殺し、その記録を抹消したのだとしたら?筋書きとしてはまずまずだ。しかしそれが真実ならば、取り返しがつかないことになる。
「分かりました。我々第九部はこれより、唐 宗昌タオ ゾンチャン殺害、及び花渓幇ファーシィパンによる事件捜査を、宝胤ほういんに関する線から追う方針へと切り替えます」
 俄かに活気を取り戻した麗紅リーホンは、厳しい口調で頷いた。瑞杏ルイシンが口を挟むのを待たずに、
「法師が接触した人間の【はこ】がどの【宝胤ほういん】を開ける鍵であったのか、それがどのあたりに隠されているのかについての捜査は、そちらにお任せしましょう。我々は【匣】の行方と、タオ如何いかにして烏龍幇と接触したのかについて調査いたします。それと、羅刹法師から何か情報が入った場合はお知らせください。私たちも定期的に、捜査報告をしますので」
「―――― 小賢しいのは結構だけど、人の台詞を先取りするのは困りものね」
 予め用意していた命令を一つ残らず言われてしまった瑞杏ルイシンは、不服そうに柳眉りゅうびをひそめた。さも嘆かわしげに首を振ると、車内に備え付けた携帯式電脳から宝蘭堂ほうらんどうへと電子郵件メィルを送信する。
「一昨日羅刹法師らせつほうしから入った情報を、そちらへお送りしたわ。今のところ分かっているのはそれだけよ。もし貴女の読み通り烏龍幇が【匣】を所有していたとしたら、ことは緊急を要します。一刻も早く【匣】の在り処を探し当てて頂戴」
「承知しました。全力で捜査にあたりましょう。それから、青蓮房しょうれんぼう郵件メィルを送っていただけますか?幸い翡翠フェイツェイが、今日あそこの主人と逢うと言っていました。彼女なら、何か知っているかもしれない」
 麗紅リーホンの申し出を、瑞杏ルイシンが快く承諾する。もう一つの郵件メィルを届け終わる頃、前方硝子フロントガラス黄浦江ホヮンプージャンの向こう側で燦然さんぜんと輝く外灘ワイタンの景観が広がった。黄浦江に面した道路に出た高級轎車リムジンは、川の流れに沿うようにして突き進んでゆく。
「ところで麗紅リーホン総帥そうすいから伝言を預かっているの。今日中に本部に出頭しなさいですって」
「―――……… 邦光バンコヮンが?」 
 思いもかけぬ出頭命令の所為だろうか。不意に口をついて出た名前に自ら慌てた麗紅リーホンは、その場を取り繕うように聞き返した。
「何の用向きかご存知ですか?」
「いえ、そこまでは……」
 曖昧に首を振って、瑞杏ルイシンは心持ち視線をそらした。急に歯切れの悪くなった雇い主の様子を怪訝に思いつつ、頭の中で呼び出しの理由を探る。今関わっている事件は公式には捜査済みだし、コヮンの御曹司の話で今更小言を喰らうとも思えなかった。そもそも伝言を瑞杏ルイシンに託したのも妙である。用件があるなら電子郵件メィルでも送ってくればいいものを、なぜ人づてに頼んだのだろう。
 突然の命令に首を傾げた麗紅リーホンに、瑞杏ルイシンが何か言いたそうな素振りを見せた。しかし瑞杏ルイシンが口を開きかけた時、運転席の海嶺ハイレイがそれを遮るように、
瑞杏ルイシン様。そろそろお時間です」
「ああ、そうだったわ」
 従者の一言で、瑞杏ルイシンは夢から覚めたような面持ちで頷いた。何気ない動作で腕時計を見遣る。彼女が騎士団の人間として任務に関われる時間が、もう少しで終わろうとしていた。
「ごめんなさい麗紅リーホン。この後仕事の打ち合わせが入っているの。悪いけど、此処で降りてもらって構わないかしら?」
「ええ。どうせ本部にも行かなければなりませんし」
 瑞杏ルイシンが車を停めるよう命じると、高級轎車リムジンは速やかに近くの歩道へと乗りつけた。黄浦江ホヮンプージャンを挟んで対岸に外灘ワイタンを臨む道は閑散としており、あたかも飛行場の滑走路を思わせる。臭気を含んだ強い風が、結び損ねた麗紅リーホンの煉瓦色の髪をまきあげた。旧市街へ訪問アクセスする水上巴士バスの入り口はすぐそこだ。
 暇と礼を告げた麗紅リーホンは、軽く手を振って瑞杏ルイシンたちへ背を向けた。それを確かめるように走り出した車と、少女の背中が徐々に遠ざかる。進行方向へ座りなおした瑞杏ルイシンは、後視鏡バックミラーの中で小さくなってゆく背中を見送りながら、嘆息と共に独りごちた。
「……やはり彼女には、早すぎたのかもしれない」
 低く唸る発動機エンジン音が、車内の沈黙と同化する。だが方向盤ハンドルを握った海嶺ハイレイにはその呟きがはっきりと聞こえた。気まぐれと呼ぶにはあまりにも空虚な悔恨を感じさせる、おのが主の声。
「時々思うの。あの時、ああする以外の選択肢があったのではないかと。……今更言っても、詮無いことだけれど」
 麗紅リーホンの能力は瑞杏ルイシンも高く評価している。戦闘能力は決して褒められたものではないが、彼女の判断力や思考力、分析力などは大の大人ですら舌を巻くほど卓越していた。何よりも麗紅リーホンは、一部の特権階級のみが持ちえる電磁濫戯でんじらんぎの使い手である。烏龍幇との闘いにおいて有効な切り札になりえる少女を、使わない手はないのだ。
 だが同時に、彼女を後戻りの出来ない列車に乗せてしまったことも事実だ。死しても贖贖/Rb>あがないきれぬ、深き夜の業を道連れにして。おそらく麗紅リーホンは、今まで以上に過酷な旅路を歩むことを強いられるだろう。それを背負うには、あの娘はあまりにも若く、そして危うかった。
「局長になることを受け入れたのは彼女の意思です。瑞杏ルイシン様たちがどのように提言なさっても、彼女は今と同じ道を選んだでしょう。あの時はああするしかなかった。だから貴女が気に病む必要など、どこにも無いのです」
 いつになくはっきりと瑞杏ルイシンを咎めた海嶺ハイレイは、後視鏡バックミラーから後部座席に坐る主の姿を盗み見た。瑞杏ルイシンはただ黙したまま、潤んだ眼差しを外へ向けている。春の日差しが女の頬の輪郭を浮かび上がらせ、そこだけ光が満ちたように穏やかな空気を醸し出していた。
「申し訳ございません、出すぎた真似を……」
「――― いいのよ、海嶺ハイレイ。ありがとう」
 相変わらず窓辺に顔を向けたままの瑞杏ルイシンは、謝罪する従者を宥めるように言った。高級轎車リムジンが再び浦東プートン大廈ビルの狭間へと滑り込んでゆく。奔流する黄浦江ホヮンプージャンのさざめきを含んだ、春風に背を向けて。過ぎ去った時間への憂いを断ち切った瑞杏ルイシンは、方向盤ハンドルを握る従者に向けて、密やかな微笑を返した。