神仙が住まう霊峰を思わせる摩天楼が天空に聳え、硝子製の尖塔がたなびく雲と戯れていた。ゆるやかな曲線を描く建造物の谷間には整備された環状道路が広がり、長い冬から目覚めはじめた柔らかな陽射しが、銀色の大厦に乱反射して穏やかな光線を投げかけている。
正后を回ったばかりの浦東。切り立ったオフィスビル群からは、ひとときの休息を得た人々がひっきりなしに外へ繰り出していた。霞みがかった青空には風がなく、日光浴を楽しむにはうってつけの日和である。硝子張りの大厦の中でしめっぽく閉じこもっているくらいなら、少しでも外の空気を吸いたいと思ったのであろう。これから昼食を摂りに向かおうとする会社員の横を、黒塗りの高級轎車が音もなくすり抜けて行った。浦東のオフィス街が、防弾硝子の窓を滑ってゆく。
だがその車内に坐った少女は、外の様子など見向きもしなかった。手許の書類を絶えずめくる顔は、清々しい青空とは対照的に浮かない様子をしている。しかしながら熱心に書類を見つめる眼は、その内容ではなく、別の何かを追っているように見えた。
「――― 何度読み返しても同じだと思うけど?」
交差点の信号で高級轎車が停止した時、少女の向かいに坐っていたこの車の主がそう語りかけた。書類の端を神経質に弄っていた少女の手がふと止まる。
「それとも、百回読み返せば文面が変わるとお思いかしら?」
「……まさか、」
揶揄うような女の口調を退けた少女は、それでも諦めきれない表情で溜息をついた。
女の言うことは十分に分かっている。ここに提示された情報以上の手がかりなど、魔法でもかけない限り増えやしないだろう。それでもなお探さずにいられないのは、先刻の出来事が、自分の予想の範疇に収まっていたことに対する苛立ちの所為に他ならなかった。あるいはそれ以上の何かを望んでいた自分の甘さを、思い知ったことによるものだろうか。
「唐のことは残念だったと思うわ。一縷の望みをかけていたけれど、本人があの状態では……」
「彼の病状は資料から推測していました。今更事情聴取をしたところで、たいした収穫もないことは分かりきっていた。それに関しての意見はありません」
言った後で、少女――― 麗紅は、これでは強がり以外の何物でもないなと胸の内で自嘲する。ありのままの事実を口にしただけなのに、こうも敗北感を感じるのはいかなるわけか。濃い焦燥をかみ締めているうちに、車は再び走り出した。
組織的な人身売買及び売春斡旋を行っていた花渓幇の首魁・唐 宗昌が逮捕された直後、原因不明の発作によって倒れ、浦東の国立病院に運び込まれたのは数週間ほど前のことだ。迅速な処置により唐は一命を取り留めたものの、特別治療室に留まるという、予断を許さない昏睡状態が続いた。その禁が解かれ、騎士団による事情聴取が許可されたのはつい先日のことである。
だが無菌室を出て、無数の生命維持装置に繋がれた状態で再び麗紅と見えた唐の姿は、およそこの世のものとは思えなかった。精気の抜け落ちた表情で病室の天井と向き合う、虚ろに開かれただけの双眸。冥界の夜をそのまま写し取ったかのような瞳は、何を映すことも出来ぬまま沈黙していた。知性と理性、人間のみが持ちうるあらゆる感情の一切を奪われた、ただ息を吸うことしか叶わぬ木偶のひとがた。人形のような、などという生易しい比喩は通用しない。文字通り唐という人間の魂を剥奪された、人の姿をした物体だけが清潔な病室の寝台に横たわっていた。
脳内爆発回路。唐の病態、及び現場の状況から鑑みて導き出された結論がそれだった。何者かが唐の脳内にのみ有効な爆発装置を植え付けたのだ。あるいは脊髄に埋め込んだ極小晶片が暴走し、彼を死に追いやる電磁波を生み出したか。いずれにせよ、彼が騎士団と接触することを条件に、その仕掛けが発動するよう程序編成されていたに相違ない。犯罪組織や軍部での秘密保持のために、そうした手段を用いる例はさして珍しくなかった。
ただし今回ばかりは具合が違った。通常は宿主の脳そのものを破壊することが爆発回路を仕掛ける目的であり、唐のように一命を取り留めるということはまずありえない。だが唐の場合、自律神経や感覚神経を有する大脳は一部の破損を除いて、ほとんど爆破の影響を受けることなく、正常に機能することができた。
しかしながら、言語能力や記憶、意識を司る脳細胞は悉く破壊されつくしていた。一片も余すところなく焼き切られていたのである。それは、個人情報を書き込んだ極小晶片も同様であった。いかなる秘術を使ったか、彼の本名すら残さずに情報が抹消されていたのだ。唯一残された手がかりと言えば、辛うじて残された晶片の製造番号のみである。ここまで徹底した、のみならず有効な口封じなど、未だかつてお目にかかったためしがない。
植物人間も同様の唐に対して適応された取調べは、意識野と電脳とを接続して行う質疑応答であった。事故などで昏睡状態に陥った犯罪者向けに開発されたこの技術は、被疑者の脳の意識や記憶を司る部分に電子干渉して、情報や証言を引き出すと言う類のものだ。だがしかし騎士団の質問に対して、唐が返した言葉はすべて沈黙。記憶に関する器官が使い物にならないのだから無理もない。当然の結果と言えた。
「やってくれたな……くそっ」
電脳と直接接続した唐の脳が、顕示画面を延々まっさらにし続けた光景を思い出して、麗紅は苛立ちが逆戻りするのを抑えられなかった。目の前に雇い主がいることすら忘れて、憎々しげに歯噛みする。
「あんなのは唐……いや、人間ですらなかった。ただの生きる屍だ」
誰に聞かせるでもない独白は、見えぬ何かへの怒りを滾らせていた。寝台に横たわり、浅い呼吸を続けながらも、何の反応も示さなかった男の姿を思い返す。言葉を紡ぐことのない口唇、盲者の如く光を失った眼球。その中に、かつて一人の女を歪んだ愛情で束縛し、目の前でその女を亡くして慟哭した男の面影はどこにも存在しなかった。
殺されてもなお生き長らえる身体。魂魄をもぎとられた人間とはかくもおぞましきものか。闇すら映さぬ死者の眼差しを目の当たりにした麗紅は、恐怖とも怒りともつかぬ、ある種の絶望にも似た感情が湧き出ずるのを禁じえなかった。
「――― 事件当事者に入れ込むのもほどほどになさい。でないと、貴女が辛くなるだけよ」
手許の書類と共に拳を握り締めた麗紅は、雇い主――― 呉 瑞杏の冷静な一言で我に返った。事件当事者と言われて、咄嗟に浮かんだ女性の面影を慌てて打ち消す。長い黒髪が美しい、笑顔が優しい人だった。見るものまでもが哀しくなるほどに、儚く透き通った微笑。美しい花が虚しく散りゆくように、果敢なく生を絶った女。
「思い入れなんてしていません。ただ、奴らのやっていることが赦し難いだけです。被害者を生かしたまま口封じするなど、我々を莫迦にしているとしか思えない」
目蓋に浮かんだその女の姿を振り払うと、麗紅は厳しい顔つきで言い切った。その拍子に、運転席で方向盤を握っていた海嶺と、後視鏡の中で眼が合う。顔に切り込みを入れたような双眸が、幾分警戒したように閃いたのは麗紅の思い過ごしであろうか。
「奴ら……ということは貴女もやはり、この事件の裏には烏龍幇が絡んでいると思っているのね?」
「……断言はしませんが、」
瑞杏の言葉に含みがあるのに気付いた麗紅は、言っていいものかと躊躇った。唐の脳内爆弾が作動したのは本人による自殺であり、花渓幇にまつわる事件は既に処理済みであるというのが捜査局の出した結論である。しかしながら疑問が残る点が多々あったのも否めない。
唐が所有する組織での情報や身辺での証拠品などが、彼の住居や偽装として使用していた会社のどこにも見当たらないことの奇妙さがそのいい例だ。逮捕の際に愛人と帝國へ逃げると言ったのはおそらく事実であろうが、それにしても手がかりとなるものを一切消去して亡命するというのは不自然であった。それだけではない。唐の元で組織を運営していたと思しき幹部たちの名前すら、捜査線上に浮上しないのである。
気味の悪いほど奇麗に抹消された事件の手がかり。塵一つ残さぬそのやり口が示唆するのは、第三者による事件の介入に他ならなかった。
「捜査局は花渓幇が関与した事件は唐一人が起こしたものと見ていますが、それは考えにくいと思います。唐の脳の一部とID晶片のみを破壊し、彼の身辺情報を一つも残さずに闇へ葬り去る……この手際のよさは、彼ひとりのものであるとは考えにくい。また、上海での裏社会における烏龍幇の影響力を考慮するに、奴らが唐と何らかの関わりを持っていたことは十分に考えられます。ただ……」
「情報があまりにも少なすぎる……。そうね、貴女の言うとおりだわ、麗紅」
直接的な関わりを持たずして魔都の裏社会に君臨する烏龍幇。降誕祭の折に襲撃した孫の時も、幇会が孫に密輸の手引きをしたという決定的な証拠を欠いたまま、事件に幕引きせざるを得なかった。もっとも、証拠が挙がったところで彼らをどうこうすることも出来ないのが現実であるが。
烏龍幇の祖は、黄浦江を活動拠点に据えた土着水夫の自衛組織だ。革命の際に生まれたこの秘密結社は時代の流れと共に、商都の裏社会を仕切る一大犯罪シンジケートとして成長を遂げた。彼等を肥え太らせた諸悪の根源は、魔都を拠点とするあらゆる企業や商人たちの悪の側面との癒着である。賄賂や資金洗浄、不正密輸や海外企業との違法取引を始めとする商都の汚穢を貪り、その頭角を現した悪しき怪物。その牙が大陸全土の犯罪結社を喰らい尽くし、裏社会における帝王と化すまでそう時間はかからなかった。
中央政府の権力が直接及ばない、特別行政区である上海の真の支配者は行政ではなく企業である。その裏事情を一手に握る烏龍幇は、さしずめ陰の権力者とでも呼ぶべきだろうか。一説によれば市当局も、烏龍幇の恩恵を預かる『企業』のひとつであると言われていた。一笑に付すべき流言ではあるが、近年での魔都の治安悪化を見るに、それもあながち嘘とは言い切れない。
ゆえに表の正義を司る騎士団にとって、烏龍幇は迂闊に手を出せない連中であったのだ。無闇に喧嘩をふっかけたら最後、企業と行政をも巻き込んだ血の海を見ることになるのは明らかである。そしてその特異な権力図こそ、彼らがこの都市の秩序の一部であることを物語っていた。