少女の奏でた音色が、引き潮のような余韻を残して消えてゆく。
鍵盤に手を置いたままの少女が、じっと紫霖 を凝視する。黒曜石を思わせる大きな瞳は虚ろな光を灯し、病的なほどに白い顔には悄然とした翳りが落ちていた。
数ヶ月ぶりにまみえた愛しい妹の姿。少しやつれた趣はあるにせよ、可憐に首をかしげる仕草は幾度となく眼にしたものだ。鋼琴 を前にし、はしゃぎながら自分に向かって笑いかけてきた松花 の面影が、目の前の少女と重なる。ねぇ、お兄ちゃん。今の演奏聞いてくれた?
何気なくやり過ごしたかつての日常が、克明に呼び戻される。紫霖 はふと、今までのことは全部夢だったのではないかと思った。降誕祭 の夜から見続けてきたものたちは、こうして妹の演奏に聞き惚れているうちに誘われた、白昼の悪夢だったのだと。
「松花 ………善かった、無事で」
悪い夢なら、すぐに醒める。その時は松花 と二人で、笑い飛ばしてしまおう。紫霖 は全てが幻であると確かめるように、数歩踏み出して少女へと手を伸ばす。だが次の瞬間、束の間彼を満たした淡い想いが、冷ややかに凍りついた。
「――― ……あなた…… ―― …誰……?」
たどたどしくも困惑に満ちた声が戦慄となって、紫霖 の背筋を貫く。伸ばされた手を見て怯えたように、少女がすっと身を引いた。行き場をなくした繊 い手が、虚しく宙を彷徨う。
「…… 誰って……何言ってるんだよ、松花 !」
問われた言葉の意味を拒絶するように、紫霖 が畳み掛ける。そして柔らかな少女の手を握り締めた。祈るように。
「お前の兄貴だよ!十三年間ずっと一緒に居たじゃないか、」
今まで彼女を求め続けた想いが、溢れてゆく。だが松花 はそんな哀切の響きにも、惚けたように紫霖 を見つめるばかりだ。
「……… 帰ろう、松花 。今度はちゃんと、オレがお前を守るから。絶対離れたりしないから。また二人で暮らそう………松花、」
「……帰る……、の?貴方と、」
松花 の虚ろな眼差しが、戸惑ったように揺らいだ。紫霖 の手から伝わるぬくもりに、萎縮したように身を震わせる。花の蕾めいた稚い顔立ちが強張ってゆく。あたかも見知らぬ誰かを見るかのような少女の視線が、鋭い棘となって紫霖 に突き刺さった。
「やはり、来てくださいましたね」
その時、皮膚の上を撫であげるような声が、紫霖 の耳朶を打った。背後に感じる陰湿な気配に、はっと振り返る。淡く白く発光する空間に、禍々しい影が浮かび上がっていた。
「皓 ……喬石 、」
「おや、憶えていてくださいましたか」
あたかも自らの影と同化してしまったかのような皓 の姿を眼にし、俄かに紫霖 の中の怒りが沸々と煮え始めた。
「松花 に……妹に何をしたっ?!」
背中で松花 をかばいつつ、皓 を睨み返す。だが男は不気味な薄笑いを浮かべたまま、じっとその場に立ち尽くしていた。
「何もしておりませんよ。彼女はただ、目覚めただけです……己の力に」
「力……だって?」
「そう。彼女には随分と助けられました。この遺跡を掘り起こし、【宝胤 】を手に入れられたのは他でもない、彼女自身の力によるものです」
その宝の名を聞いた紫霖 の顔から、血の気が引いた。
「予想に違わず、素晴らしい働きを見せてくれました……手違いで、この【蛟蛇 の柩】を起動させてしまうというトラブルには見舞われましたが、」
「……松花 を……利用したのか。【冥夜 の使徒】として。お前たちのくだらない抗争のために、こいつを巻き添えにしたってことか?!」
「ご冗談を。我々は【使徒】など使わずとも宝を手に入れる方法を心得ております。彼女にはそんな低俗な能力とは別の………」
皓 の台詞は最後まで紡がれることはなかった。怒涛の如く皓 の元へ突っ込んできた紫霖 が、男の胸倉を鷲掴みにして壁へと叩きつけたのだ。
「ふざけるなよ………理由なんてどうだっていい。オレは、あんたを絶対赦さない」
松花 を、道具のように利用した。莫迦げた宝を手に入れるためだけに、奴らは松花 に忌まわしき罪を負わせたのだ。すべては彼らのエゴのために。
低く押し殺した激昂の声が、絶対零度の冷ややかさを帯びて皓 の耳に届く。その冷たさを楽しむように、皓 が薄い笑みを口元に灯した。
「これはまた。随分と厭われてしまったようだ」
哀しげな声とともに、皓 が深く溜息をつく。
「ですが、貴方は何か勘違いをなさっている」
「何?」
空気すら凍りつきそうなほどの怒りに晒されながら、皓 はあくまでも余裕だった。一向に崩れぬ気味の悪い微笑に神経を逆撫でされた紫霖 が、男をさらに締め上げようとした時。
「…… やめて、」
拙く掠れた声が二人の間に割って入る。そのか細い響きが、何よりも鋭く少年の心を抉った。腕に込めた力が、みるみる萎えてゆく。
「松花 ………」
「この人に……非道いこと、しないで……お願い、」
皓 の胸倉を掴みあげていた手が離される。呆然と後ずさった紫霖 の前に、小柄な人影が飛び込んできた。たおやかな細い腕を広げて、皓 を守るように包み込む。乞い願うように顔を上げた松花 の眼の縁には、うっすらと涙が溜まっていた。
嘘だ。目の前の光景に、辛うじてそれだけを呟く。皓 を抱きしめた松花 が、嘆願の眼差しを向けてくる。どうしてそんな奴を庇う?どうしてそんな眼で、オレを見つめる?嘘だ、嘘だ、嘘だ。嘘だと言ってくれ、誰か。
耳の奥で、自分の声が反響する。それが現実を打ち破ってくれると信じるかのように。ひたひたと迫り来る絶望から、必死になって逃れようと紫霖 が拳を握り締めた時、不意に足元が大きくぐらついた。
『【蛟蛇の柩】の再始動が、消去、されました。これより当系統 は、自壊方式 を、実行します』
抑揚のない声が途切れ、耳障りな機械音が響き渡る。操作卓が一斉に赤く明滅し、地響きが空間を震わせた。立つのもやっとの振動に合わせ、天井からぱらぱらと何かが零れ落ちてくる。
「なんだ、一体?!」
「【蛟蛇の柩】を停止した場合、【宝胤 】そのものを壊すよう程序編制 しておいたのですよ。此処はもって、あと数分と言うところでしょう」
崩落を始めた建物から松花を守るように、皓 が立ち上がって説明を加えた。
「……あまり時間がない。彼女を救いたいのなら、私とともに来てください。我々と手を組めば、決して悪いようにはしない」
皓 が片手で松花 を庇いつつ、もう片方の手を紫霖 に向かって差し伸べてくる。紫霖は黙ってその手を見つめた。彼の手をとれば、松花 を守ることが出来るだろう。以前のように彼女と共に暮らし、かつてのような日々を取り戻すことが出来る。そして今度こそ、片時も離れることなく松花の傍についてやれる……。
「―――― 断る、」
だが紫霖 は、頑なに首を振った。彼の誘いを選んだところで、兄妹揃って烏龍幇 の手駒として生かされるのが落ちだ。そんなものは望んでいない。なにより、こいつらは松花 を利用した。何も分からぬ妹を、戦いの道具にしたのだ。そんな連中の言いなりになるなど、死んでもごめんだった。
「交渉決裂……残念ですね、」
皓 の眼差しが俄かに険しさを帯びた。蝋のような手が音もなく懐へ吸い込まれる。そして現われた拳銃が冷然と佇む少年に据えられた時、乾いた発砲音が響き渡った。
「?!」
突如響いた銃声に、紫霖 が眼を瞑る。だが一向に痛みはやって来ない。戸惑いがちに目蓋を持ち上げると、手首を押さえた皓 が目の前に蹲っていた。
「茶番は終わりだ、皓 喬石 」
低くも深みのある声に、紫霖 が弾かれたように頭 をめぐらす。入り口に、銃を構えた海嶺 と、翡翠 が立っていた。
「観念したまえ、皓 。大人しく【宝胤 】をこちらへ渡せ」
「そう言われて素直に従うとお思いで?呉 家の忠犬殿」
撃たれた手首を押さえた皓 が、侮蔑も露わに言い捨てた。間髪いれずに、海嶺 が引き金を絞る。しかし次の瞬間視界を覆った人影の所為で、照準が僅かに狂った。
「ぼさっとしてんじゃねぇよ!」
突如躍り出た影に、翡翠 が木刀を抜き放つ。血に飢えた獣の如き一撃が、人影の懐に食い込んだ。固い手応えが返ってくる。
「うむ、なかなかいい腕をしておる」
覚束ない足取りで倭刀 を構えた男が、翡翠 の木刀を弾き返した。麗紅 の仕掛けた『電磁濫戯 』の悪夢から開放され、皓 の加勢にやってきた頼豪 である。翡翠 の木刀を退けた頼豪 だったが、痺れたままの手足が言うことを聞かなかったようだ。重く穿つような攻撃を受けた反動で、躰が後ろへ大きく傾く。
翡翠 の攻撃はそれだけに留まらなかった。無防備になった頼豪 に飛び掛るや、脳天めがけて凶器を振りかざす。頼豪は辛うじて倭刀の峰でそれを受け流すと、翡翠 の脇腹に強烈な蹴りを叩き込んだ。
「……そんな玩具でここまでやるのは驚きだが……」
たまらず身を離した翡翠 から逃れると、頼豪 は素早く立ち上がった。そしておもむろに、敵の顔を凝視する。
「なんと!!丸縁の黒眼鏡を掛けているではないか!それは何だ、伊達か、」
「……… ごちゃごちゃうるせぇ!」
頼豪 のふざけたコメントを合図に、翡翠 が斬りかかる。二つの刀が衝突し、気が触れたような甲高い音が炸裂した。その隙に乗じて、海嶺 が目の前の階段を駆け上って行く。
「とっととそこを退きやがれ。でねぇとぶっ殺すぞ、」
ぎりぎりと悲鳴するように、刀と刀がせめぎあう。その軋みにも似た声音で、翡翠 が囁いた時だった。
「翡翠 ッ!」
海嶺 の叱咤が、空気を切り裂く鋭い音に重なる。翡翠 が力任せに頼豪 の刀を退けたが間に合わない。ふっと背中を過ぎった殺気に身をかわした瞬間、翡翠 の肘の辺りには時代錯誤な太矢が深々と突き刺さっていた。白く煙る空間に、赤黒い飛沫が弾け散る。
「ほんまに見境ない奴やなァ。そろそろ幕引きやで、頼豪 」
「おお。かたじけない、白薇 殿」
腕を貫いた激痛に翡翠 が舌打ちし、声がした方を仰ぎ見た。白装束を纏い、目深に頭巾を被った人影が壁の張り出した部分に立っている。その人物が手にしているのは、緩やかな弧を描いた弩 だった。それが自分を傷つけた凶器であると悟った翡翠 の眼が、驚愕に瞠 かれる。
「てめぇは……」
「ほな、またな。狂犬」
目深に被った頭巾の下、その人影は確かに笑った気がした。
崩壊の地響きが、激しさを増す。幇会 の剣士は倭刀もろとも姿を消し、先刻まで切り結んでいた場処には細かく砕けた瓦礫が降り注いでいた。
「生きてたのかよあの野郎……」
憎々しげに零れた翡翠 の独白が、崩壊してゆく空間に掻き消されていった。
「ではこの辺で、お暇申し上げましょう」
戦況はもはや不利と見込んだ皓 が、血の滲み出した手首を押さえて立ち上がった。それを不安そうに見つめる松花 の肩を抱くようにして、踵を返す。
「これにて我々の歌劇は終幕いたします。それまで皆様には、しばしのお別れを」
「おい、待てよ!」
皓 に導かれ、遠ざかってゆく松花 に紫霖 が手をかざす。
「松花 !」
紫霖 の指先が、松花 に触れる。さらりとした髪の感触が、肌を撫でていった。
「厭っ……」
一刹那触れた紫霖 の手を、松花 が振り払う。その弱々しい叫びに、松花 が慄然と身を竦ませた。怯えた瞳に見出したのは、他でもない自分への恐怖。今にも泣きそうなほどに歪んだ顔には、瞭かな拒絶の色が浮かんでいた。
「おい、何をしている」
瓦礫の雨を潜り抜け、やっと風琴 の麓まで辿り着いた海嶺 が、紫霖 の腕を引いた。だがその問いかけは、少年の耳には届かない。自分に背を向け、遠くへと去ってゆく妹を見つめていた紫霖 は、海嶺 の手から逃れるように腕を振った。
「……待て、松花 ッ!!」
あらん限りの声で、その名を呼ぶ。降り注ぐ天井の残骸が、雪のように舞って松花 の後ろ姿を消していった。薄い靄のような視界の向こうに、愛しき者が去ってゆく。自分の手の届かない場処まで行ってしまう。
「行くな、松花 ッ!松花ッ!!」
海嶺 が、狂ったように叫ぶ少年を羽交い絞めにした。紫霖 は全身の力を込めて、その手を振り解こうと抗う。少女の姿は既に、煙の彼方へ消え失せていた。
「落ち着け、逃げるぞ」
紫霖 の耳元で、海嶺 が怒鳴る。その声と、自分の絶叫が聞こえたのを最後に、少年の意識はぷっつりと途切れ、闇へと沈んでいった。
そのあとどうやって、海螺 のヘリまで辿り着いたのか覚えていない。
ただ、暗澹たる闇が眼前に広がっていた。最後に眼にした松花 の顔が、目蓋から焼き付いて離れない。怯えた眼をして震えていた。はっきりとした恐怖が、可憐なかんばせを塗り潰していた。短い拒絶の言葉が、幾度となく頭の中で木霊する。その全てが闇となって紫霖 の意識を覆い尽し、絶望となって彼の心を蝕んでゆく。
嘘だ、嘘だ、うそだ。こんなの、現実じゃない。夢なら早く、醒めてくれ。
不自然に脈打つ鼓動に、息が詰まる。躰の底から湧き上がってきた怖気を宥めるように、肩をきつく抱いた。狂気と紙一重のところで、己を保っている。このまま暗い絶望に身を委ね、悪夢じみた現実から眼を背けてしまえば、楽になれるかもしれない。だがそうすることを、少年のプライドが拒んでいた。
熱に浮かされたように意味を成さない言葉を呟き続けていた紫霖 の前に、どさりと重い音を立てて何かが倒れ伏した。その物音に、底なしの闇を漂っていた紫霖 の意識が覚醒する。足元に投げ出されたのは、紅い髪を乱したまま横たわる麗紅 の躰だった。
あたかも動力を失くした機械人形のように、ぴくりとも動かない。心なしか、血の気を失くしているようにも見える。苦しげに眉根を寄せ、何か伝えようとするように薄く開かれた口唇が、やけに生々しく写った。
吸い寄せられるように、緩く折りたたまれた指先に触れ、手首を掴む。固く強張った冷たい感触に、ぞっとした。脈がない。
「心配しなさんな。死んでるわけじゃありませんぜ」
少女の手をとった紫霖 の心中を察したのだろう。麗紅 を此処まで運び込んだ海螺 が、こともなげに言った。
「似たようなものだろう。だが、じきに目を醒ます」
紫霖 と並んで坐っていた海嶺 が、素っ気なく付け加えた。紫霖 は釈然としないまま、ちらりと麗紅 に眼を向ける。それ以上、追求する気にはなれなかった。
それを境に、機体の中には重苦しい沈黙が垂れ込めた。きつく包帯を巻いた翡翠 の腕から血が滲み出し、紅く錆びた匂いがうっすらと籠りだす。それぞれの疑惑と、数え切れぬ謎、そして忘れえぬ忌まわしき過去を抱えた者たちを乗せて、ヘリはゆっくりと上昇していった。