「ええ、なるほど?それで【遊仙窟】が騎士団にマークされた、と?」
寝台の端に座った男が、側面に備え付けられた最新型の無線通信に向かって鷹揚に頷いた。窓に向き合うここからでは表情は伺えないが、屹度つまらなそうに報告を聞いているのだろう。
彼女は肩から滑り落ちたシーツの裾を持ち上げると、壊れ物でも触れるように窓に手を当てた。自分と世界を隔てる透明な硝子の檻は、冷たくも哀しく澄んだ感触をしていた。硝子に映る自分の顔が、まるで別の女のようにさえ思える。
男が通信を切る気配がした。振り向くまでもない。報告を聞き終えた男は、ゆっくりとした足取りで彼女の元へ歩み寄ると、その華奢な躰を愛おしげに包み込んだ。大切な人形を、誰にも渡さないというように。
「すまなかったね。急な連絡が入って」
「構わないわ。大切なお仕事ですもの」
彼女は優しく首を振って、男の謝罪を退けた。彼は後ろから彼女を抱きすくめたまま、酷く荒々しくその口唇を塞ぐ。
「君よりも大切なものがどこにあると言うのか……。私の仕事も、この世界も、すべては君のために存在しているというのに」
吐息すら逃せぬほどの口付けのあと、男は彼女の瞳を覗き込んで熱っぽく呟いた。彼女は気恥ずかしげに微笑むと、自然な仕草でその眼差しから逃れる。
「ええ、わかっているわ……充分に、」
わかっている。彼がいう世界にとって、自分など取るに足らない存在であることを。分かっていないのは彼のほうだ。彼が語る愛など、鳥籠の中で美しく囀る人形に向けられる愛玩と、同じものであるに過ぎぬということを。
男は足元の卓子の上で輝く首飾りを掬い上げると、彼女の折れそうなほど細い首に銀の鎖を回した。それが自分と男を繋ぐ鎖のような気がして、息の詰まるような眩暈を覚える。
「どうだい?南京路の宝石店で特注したものだよ。君をイメージして作ったのさ、」
「ええ………」
夜に滴る、月の雫の如き純銀で拵えた天使の羽根。その羽根に絡みつく茨の鎖が、自分の躰を今にも締め付けていきそうな錯覚を感じた。
「気に入ったわ、とても」
虚ろな声音で微笑む彼女の、その胸の嘆きなど男は気付かない。彼女のうちに吹きすさぶ虚無の風鳴りが、この男に届くことなど永久にないのだろう。男は満足そうに笑うと、彼女の長い髪を梳いた。その柔らかな手触りが、肌のぬくもりが、すべて自分のものであるのを確かめるかのように。
彼女は抗うことなくその愛撫に身を委ねた。そして視線だけを眼下に広がる魔都の輝きに向ける。上質な天鷲絨を思わせる夜闇に広がる数多の灯火。そのエネルギーを男の手によって享受することはあれど、その灯火の一つに身をやつすことなど出来はしない。この束縛から、羽ばたくことが夢であるのと同じように。
彼女の本当の望みを知らぬまま、男はその耳元で優しく囁いた。
「愛しているよ、黛玉。仮令この街の灯火が絶えてしまっても。君だけは私の手から離れていかないでくれ」
懇願する声は、彼女の魂に揺さぶられたものであったのか。
闇よりも深く、川の流れよりも激しい愛の言葉は、虚しく彼女の鼓膜を行過ぎていくのみであった。
第二幕 完