赤々としたテールランプが、夜闇に尾を描きながら遠ざかっていく。その瞬きを不貞腐れた顔つきで一瞥すると、麗紅リーホンは仕方なく三人の元へ向かった。
「――― お疲れ様、翡翠フェイツェイ彗星フォイシンコヮンはあのまま放置してきたか?」
 ブーツの踵を鳴らしながら、少女は今しがた任務を終えた同僚に、ことの仔細を伺った。翡翠フェイツェイの傍らで、叱られる前の子供のように顔を背けた少年には気付かぬように。
「あァ。おめぇが言った通り、例の部屋に居やがったから一発ぶん殴って置きっぱなしにしてきたぜ。ついでに『我愚蠢わたしはバカです』って貼り紙付けてやった」
「小学生かお前は。……捜査局の奴らは?」
「大丈夫、心配ないよ。麗紅リーホンが言ってたように、あの部屋は下水道に繋がってたから、そこ使って逃げてきた。捜査局の人たちにはバレてないと思う」
「お陰で見ろ、いい男が台無しだ。臭いったらありゃしねぇ」
「水も滴る何とやらって言うから、別にいいんじゃない。けど寄るなよ、臭いから」
 騎士団の捜査局が出向いたのなら、さほど話がこじれずに済むだろう。彼らは襲撃のあった館で、身内を発見して大いに焦るはずである。
 保守的な騎士団のことだ。今回の騒動はチンピラ同士の抗争であり、それによって例の娼館は壊滅したという事実のみを全面的に報道するに違いない。そこから芋づる式に判明した、騎士団関係者による、情報の漏洩という醜聞スキャンダルと引き換えにして。そう考えると、今回の押し入りは決して無意味で無謀な試みではなかったのではないかとすら思えてくる。少なくとも醜聞を偽装カムフラージュすることは出来たのだから。
 あとは襲撃者の追跡に関して、捜査局が深く突っ込んでこないことを祈るばかりだ。無論、深く立ち入らせないための根回しは講じてある。憐れなるはコヮン親子、そして騎士団保守派と民衆報道の板ばさみにされた広報局の面々であろう。
「さて、仕事も一段落したことだし帰るとするか。明日から忙しくなるだろうしな」
 ことさら明るく言い放った麗紅リーホンの声に、紫霖ツーリンが僅かに反応した。麗紅リーホンは相変わらず目を合わせようともしない少年に向き直ると、無造作に彼の頬に手を伸ばして、コヮンが殴った傷跡に軽く触れる。
「ちょっと腫れてるな。美人が台無しだ」
 喧嘩をした息子を窘める母親を思わせる口調で、麗紅リーホンがそう揶揄からかった。紫霖ツーリンはその手から逃れるように顔を背けると、
「……怒るなら、怒れよ」
 何時もの威勢を道に置き忘れたかのように、顔を俯けたまま投げやりに言い捨てた。
「――― 怒る必要が、どこにある?」
 だが予期していた怒声も、突き刺すような叱責の嵐もやってこなかった。麗紅リーホンは平然と肩をすくめると、至極落ち着いた口調で続ける。
「あんたが勝手にいなくなって、勝手に戻ってきたんだ。気ままな猫のやることに、いちいち目くじら立ててみろ。こっちの身が持たない」
 ならば何故、コヮンに襲われかけた時に翡翠フェイツェイが『迎えにあがった』などと言ったのか。自分が攫われたことを知っていて、あそこに来たのではないかと勘ぐって、そんなことをしても彼女たちの得にはならないことに気付いた。それと同時に、自分でも知らぬところで誰かの助けを望んでいたことに思い当たる。
 叱責されるということは、僅かでも心配している、あるいは気にかけるという感情が無ければ出来ない。それを予期していたということは、麗紅リーホンたちがそうした感情を持ち合わせていると考えたということだ。ならば自分は、彼女たちにそれを望んでいたというのか。だとしたらとんだ思い上がりだ。自分の認識の甘さに、苦い感情ががこみ上げてくる。
「――― 猫とか言うな。気分が悪くなる」
 暗い影の中に沈みかけるように、紫霖ツーリンが低く呟いた。誰かの助けがなければ自分の身一つ守れない無力さを改めて感じる。加えてそれを当然のように受け入れていたという事実が、自己嫌悪に追い討ちをかけた。
「ああ、ごめん」
 少年の響きに、何か気付くものがあったのだろう。麗紅リーホンは微かに目を瞬かせて、素直に詫びた。
「……とか言ってるけどよ、お前がいなくなって、こいつすごい剣幕で方々探し回ったらしいぜ?」
翡翠フェイツェイ!」
 二人のやり取りを傍観していた翡翠フェイツェイの声と、麗紅リーホンの叱咤が交錯した。その言葉の意味を量りかねた少年に向かって、翡翠フェイツェイがひどく上機嫌な、だがよこしまなものを孕んだ満面の笑みを浮かべる。
「本当は俺と彗星フォイシンとであの店でコヮンを待ち伏せして、出てきたところを取り押さえるだけだったんだぜ」
「くだらない話だよ。紫霖ツーリン、聞くな」
「んで、この寒空の中、すれっからしの風が吹く露地で凍えながら待ってたらよ、お前が中に入ってくじゃねぇか。なんだありゃ、って言ってるうちに、無線でこいつの怒鳴り声。今すぐ店に入れ、どんな手段を使っても構わない。派手に暴れてうちの姫を救出しろってね」
「勝手に発言を捏造するな。派手に暴れろなんて誰が言った?」
「じゃあ、他の台詞は認めるんだね、麗紅リーホン?」
 翡翠フェイツェイの言葉に、面白がるように彗星フォイシンが加担する。
彗星フォイシン。あんたは人の揚げ足を取って喜ぶような子じゃないと思ってたのに……何時からそんな性悪になったんだ?このアホの所為か?母さんはそんな子に育てた覚えはありません!」
「アホとは何だ、失敬な。それでだ紫霖ツーリン。その後こいつが……」
「ああ、わかった。わかったからその減らない口を少しは黙らせろ、翡翠フェイツェイ。それより紫霖ツーリン、他に聞きたいことがあるんじゃないのか?今なら特別大サービスで、あんたがあの店にいたことについては詮索しないでおく。だから今のうちに聞いておけ、あたしの気が変わらないうちに」
 翡翠フェイツェイの台詞を半ば呑み込むように、麗紅リーホンが畳み掛けた。その口調ははっきりしていたが、何処か動転するように不安定でもある。今にも紫霖ツーリンの腕を引っ張ってその場から遠ざけようとしそうなほど、その声には不自然な圧力と動揺の色が滲んでいた。
「別に」
 そんな少女の抵抗など気にもかけぬ素振りで、紫霖ツーリンはゆるく首を振った。
 コヮンという男が、騎士団の重鎮の御曹司であること。あの男はその立場を利用して、マダムに騎士団内部の情報と市民データの一部を売り渡していたこと。そしてコヮンが誘拐や家出などの失踪事件を揉み消し、捜査を難航させていたこと。あの館はただの娼館ではなく、人身売買や臓器売買の拠点として拉致した人間を一時的に留置、あるいはその場で解体する場処であったこと。
 大まかな事件の全体像は、此処に来る途中翡翠フェイツェイから聞かされた。翡翠フェイツェイたちが館を襲撃したのは偶然ではなく、むしろあの場にいた自分自身がたまたま命拾いをしたのだということも。
「特にない……けど、」
 あの少女はなんだったのか。そして路地裏で殺されたあの男は何者だったのだろうか。それを聞こうとして、言い淀んだ。聞いてしまうということは、何故自分があの場処に行く羽目になったのかを自白するようなものである。己の迂闊さを、みすみす暴露する真似はするべきではない。
「――― 最近な、」
 だが麗紅リーホン紫霖ツーリンの言葉を引き継ぐように、ぽつりと呟いた。
「素人の女の子とチンピラかぶれの男がつるんで、どこの組織にも属さない美人局つつもたせや売春行為を働く連中が増えているんだ。南京路ナンジンルーであたしがおせっかい焼いたも、多分それだと思う」
「――――」
「生活のためにやってるんじゃないんだ、あのたち。単なる小遣い稼ぎで、売春の真似事をしてる。それで補導された女の子の情報を、コヮンは館の主人に密告していたんだ。もっとも、それに気付いたのは老街ラォジェの親父たちの噂を聞いて、この事件を調べだした後だったんだけど」
 紫霖ツーリンは夕刻、旧県城けんじょう内の片隅で将棋を指していた老人たちを思い出した。麗紅リーホンが彼らと交流を持っていたのは、ただの戯れではなかったのだ。
「そのせいであの女の子達が、今回みたいな事件に巻き込まれることも少なくない。客から金を巻き上げた女の子たちは薬漬けにされて売春窟に売り飛ばされ、土地の掟に背いたポン引きの男は、土地を仕切る組織に殺されて、臓器や晶片チップをごっそり持って……」
 そこまで言って、麗紅リーホンは言葉を切った。薄暗く明滅する夜光燈ライトに照らされた少年の白い顔が、さらに青褪めたまま強張っている。
「――― 見たのか?あれを、」
「……っ」
 慎重な問いかけも功を奏さなかった。その一言に、紫霖ツーリンがどこか傷ついたような顔を見せる。忌まわしげに伏せられた目蓋が、生理的な恐怖と嫌悪によってかすかに震えていた。
「あれが、そう言う奴らの成れの果てってわけ、」
 気遣わしげに顔を覗きこんだ麗紅リーホンに向かって、紫霖ツーリンは辛うじてそれだけを吐き捨てた。無残と言い切るにはあまりにもおぞましい死体が断続的にフラッシュバックする。流れゆく水音、鼻を突く錆び付いた異臭、生々しい肉の断面。不意にせりあがってきた胃液の饐えた匂いを堪えるように、紫霖ツーリンは口元を押さえた。
「………とんだ悪夢だな、」
 あの部屋での惨劇も、自分は所詮、上層階級者の食い物だと言い散らしたコヮンとか言う男も。見捨てられたことに落胆し、誰かが手を差し伸べてくれるのを待っていた自分も。何もかもが悪夢じみていた。夜が明けようとも、目を醒まそうとも、消えることなく刻まれる悪夢の連鎖。
「悪夢……ね」
 紫霖ツーリンの言葉を皮肉っぽく繰り返すと、麗紅リーホン新世界シンスーカ入場口エントランスに掲げられた巨大な映像面板パネルを見上げた。ネオンの海とともに眠りにつき、誰一人訪れるもののない娯楽施設に向かって、麗紅リーホンが手を翳す。人差し指を伸ばし、親指を立てて銃を象ったその手が引き金を引いた時、まるで見えない弾丸に撃たれたように面板パネル速報ニュースを流し始めた。
『――― ……四馬路スマロで…深夜発生した…事件の続報です……』
 まるで魔法にかかったように、あかあかと辺りを照らし出した屏風幕スクリーンが、例の娼館を映し出す。夜も更けてきた頃合であるが、画面の中では異常なほどの人で溢れかえっていた。
「あの程度の悪夢なら、どこにでも転がっているさ。この街には」
 電磁濫戯でんじらんぎの能力をもって、屏風幕スクリーンを眠りから呼び覚ました少女は、虚ろな眼差しでそれを見つめていた。彼女の顔に、面板パネルの幻覚的な光彩がちかちかと瞬く。
「だが、お前が用心していればこの街の闇が牙を剥いて襲ってくることはない。―――多分、な」
 屏風幕スクリーンから視線をはずした麗紅リーホンは、くるりと振り返って紫霖ツーリンを見据えた。いさめるような口調は、この夜初めて彼女が見せた叱責とも思えた。
「あんたがあの場処で、どんな目に遭ったのかは知らない。知りたいとも思わない。だけど今夜のことは、自分で選択した末に招いた事態であることを忘れるな」
 面板パネルの音響が流すサイレンと、何処かの露地から響いてくるそれが重なった。たどたどしい不協和音が遠くに聞こえ、目の前の少女の言葉へと変換されていく。
「今回は運がよかった。それを肝に銘じておけ。………もし妹が帰ってきた時にあんたがいなかったんじゃ、合わせる顔がないだろう?」
 激しくいきるでもない、怒鳴り散らすでもない。だがその言葉はひどく重たく響いた。松花ソンファのことを出されるとは思ってもみなかった。
 もし妹が帰ってきたら。その可能性を麗紅リーホンは棄ててはいなかった。それどころか当然のことのように言い放ったのだ。松花ソンファが帰ってくると。ただそれだけのことが、閉ざされていた闇に、彷徨い続けた夜という名の迷宮の果てに、一筋の光明を示した気がした。
 濃い闇の如き沈黙が辺りを支配しかけた時、傍らに立つ翡翠フェイツェイが唐突に盛大なくしゃみをした。畜生と口の中で呟きながら、両腕を寒そうにさすっている。
翡翠フェイツェイ、大丈夫?」
 彗星フォイシンが自分よりも高い位置にある顔を、労わるように覗き込んだ。
「あー、分かったからもう帰ろうぜ。寒いったらありゃしねぇ」
「ずっとこの寒い中にいたんだもんね。風邪なんか引いたら大変だよ、」
 彼のくしゃみの所為で、忘れていた寒気が急に蘇った気がした。寒い寒いと連呼しながらその場をとっとと離れた翡翠フェイツェイに、麗紅リーホンが呆れたように溜息をつく。
「さあ、こんなところに長居は無用だ。あたしたちも行くぞ、」
 そう言い放つや、少女は再び面板パネルから映像を吸い取るように手を翳した。屏風幕スクリーンの瞬きは少女の手の中に収斂され、魔法が解けたように夜の静寂に溶け込んでいく。
「ああ、それから」
 軽やかに踵を返した麗紅リーホンが、ふと思い出したように紫霖ツーリンを呼び止めた。彼女よりも先に歩き始めた少年は、胡乱げに振り返って次の言葉を待つ。
「あんたが遊び人だってこと、よく覚えとくから」
「なっ………」
 悪戯好きの子供じみた笑みに添えられた意味深な台詞に、紫霖ツーリンは言葉を詰まらせた。そんな彼に追い討ちをかけるように、
「女の匂いがするんだよ。あと、阿片アヘンの匂い」
「…… 気の所為じゃない?お前の思い過ごしだ」
「そう?まぁ、女を何人たらしこんでも構わないけど、阿片を次やったらパクッからな」
 警官としては非常に寛大な警告をくれてやると、麗紅リーホンは顔を引き攣らせた少年の傍らを静かに横切っていく。
 ―――― 無事でよかった、
 去っていった後ろ姿が、傍らを通り抜けていった刹那に聞こえた言葉。あれは今しがた吹き抜けた風がももたらしたまやかしだろうか。それとも躰に染み付いた阿片が聞かせた幻聴か。あるいは……。
 もうじき夜が明けるのだろう。それにしては未だ暗い夜道を見つめて、紫霖ツーリンは密かに嘆息した。考えても無意味なことを頭から振り払うと、足早に遠ざかっていく少女の後ろ姿を追いかけていった。