「ですから。四馬路スマロで発生した襲撃事件は、我々とは一切関係ありません」
 時刻〇三五六――――。
 すっかり夜も更けた南京路ナンジンルーのスクランブル交差点。あれほど煩かったネオン看板の群れは濃い闇の底へと沈み、魔都の喧騒を見下ろし続けた今宵の月も、夜天そらの彼方へと姿を溶かしつつある。わずかな夜光燈ライトが朧々と瞬きする以外に、目を醒ましているものなど見受けられない。ただ一つ、新世界シンスーカの尖塔に程近い露地に駐車した轎車セダンに乗っていた二人組みだけが、例外的に南京路の夜霧を見つめていた。
「例の娼館が襲撃されたのは、縄張り争いによるものでしょう。あそこは不当な手段で儲けていたらしいですからね。どこぞのチンピラに狙われるのも、自業自得というわけですよ、総帥そうすい
  何やら早口で言い募る少女を、乗り合わせた青年は意味ありげな笑みを浮かべつつ眺めていた。短く刈った髪に、穏やかな目つきをした、扁平な顔立ちの男である。人混みで溢れかえった南京路ですれ違ったとしても、一瞬で記憶から消去されてしまうだろう。これと言った印象を持たない青年だ。
「ええ。夕方電子郵件でご報告したとおり、コヮン支部局長の身柄は無事に捜査局へと移送いたしました。このような騒ぎがあった所為で、わざわざ娼館内に潜入する手間が省けましたよ。その点では、見も知らないチンピラの襲撃者たちに礼を言わねばなりませんね―――はい、了解しました。ではまた後日、事件のあらましをご報告いたします。夜も遅いことですし、今夜はこれ以上そちらのお手を煩わせませんので、ご安心を。ええ、それではお休みなさいませ、総帥」
 助手席に座っていた少女が些か苛立った声でいとまを告げると、車内に備え付けた無線通信型の監視器モニターが音も無く中継を遮断した。彼女は耳に嵌め込んだイヤホンをはずし、乱暴な動作で車の座席シートに深く身を埋める。眉間の辺りを指で押さえ込むと、盛大な溜息が口唇から零れ落ちた。
「……で?総帥は何だって?」
 十年分の疲れを背負い込んだような顔つきで窓の外を睨みつけていた少女に、運転席に座った青年が問いかけた。方向盤ハンドルを軽く握ったまま、何処か悪戯っぽい目つきを少女に送る。
「礼状なしで特派局にガサ入れを許可した覚えも、戦争を仕掛けろといった覚えも無いってさ。コヮンのボンクラ息子の身柄を取り押さえるのがあたしの仕事だろうって」
「そりゃ正論だ」
 方向盤ハンドルに顔を埋めるようにして、青年が肩を震わせた。揶揄からかうように笑いながら、監視器モニターに【遊仙窟ゆうせんくつ】内部の映像を呼び出す。娼館に張り巡らされた監控攝像頭監視カメラの映像を、無断で拝借したものだ。 
 彼は台風が去った後、あるいは爆撃を受けた廃墟じみた内部の様子を、見せ付けるように次々と映し出してゆく。第九部局長はそれを忌々しげに見遣ると、ばつが悪そうに口を尖らせて弁解の余地を挟もうと試みた。
「確かにこれだけ派手にやらかすのを許したあたしも悪いのは認める。だが、あの連中に関する決定的な証拠は何一つ無かったんだ。ああやって現行犯でパクらない限り、ホシに言い逃れされる可能性は十分に考えられた。何せ親父が親父様だ。こればっかりは、邦光バングヮンにも分が悪いだろ?」
「おとなしく捕まえたところで、リュウの圧力と、親父様のありがたーいご加護によって、うまく揉み消されただろうね。ま、その辺は否定しないけど」
「ご名答。だから今夜がチャンスだったんだ。奴が競馬で儲けた、今夜が」
 麗紅リーホンは傍らの同伴者を諭すように言い含めた。
 深夜の南京路ナンジンルーは静かだ。宵の口に見た騒がしさと猥雑さが、嘘のように拭い去られた上海の目抜き通りを見つめながら、麗紅リーホンは夕刻、翡翠フェイツェイがもたらしたコヮンについての情報を胸のうちで反芻した。
 新世界シンスーカにあいつがいるのを見かけたぜ。やたら機嫌が良くてな、雰囲気から察するに新春競馬でぼろ儲けしたんだろ。知り合い使って調べてみたら、案の定結構な額の配当金を頂戴したって言うじゃねぇか。あいつが新世界シンスーカ出るまで見張ってたんだけどさ、ありゃ絶対四馬路スマロに行くだろうな。運がよけりゃ、今夜あたり狙い目かもしんねぇ。
 状況としてはありえない話でもなかった。今回の事件に関しては既に上に報告済みであったから、後は行動に移すのみであったのだ。だが即行動に出るにはあまりにも不確定要素が多すぎた。下手をしたら自らが、証拠不足の地盤沈下によって身を滅ぼしかねない。
 騎士団内部みうちによる人身売買組織との癒着。特に今回の事件は、騎士団勢力の片翼を担う機動局との結びつきが深い、コヮン総務局長の子息が引き起こした不祥事である。場合によっては第九部の存在を快く思わない、保守派として知られる機動局統括・リュウの手によって、自分たちが潰される可能性も考えられた。だからこそ今回の捜査に関しては慎重を期したかったのだが……
「そんなの、麗紅リーホンの詭弁じゃん?確かにチャンスかもしれないけどさ、翡翠フェイツェイの目撃情報だけで動くのは相当な賭けだろ。用心深い麗紅リーホンにしては、随分とまた思い切ったことをしたもんだと思ったね」
「あたしも同じ気持ちだよ、カイ。何だってこんな真似したんだか」
 麗紅リーホン座席シートに凭れ掛かり、絶望的な気分で天を仰いだ。そんなことをしてみたところで、神や偶然が降ってきて、今回の不始末を無かったことにしてくれるとは思えなかったが。
 そもそもこの男―――カイが自分を迎えに来た時点で厭な予感はしていたのだ。自分たちと同じ、総帥直属の部下。身の上は同じ麗紅リーホンカイであったが、総帥の手足となり、彼のために任務をこなす騎士団トップの子飼いの人間であることが、第九部と彼を隔ててていた。だがそれは大きな溝であった。少なくとも第九部の人間は、総帥の愚痴と厭味を届けるためだけに、深夜三時に車を出すような真似はしない。
「冗談は止せ。莫迦げたお祭り騒ぎの原因は自分が一番分かってんだろ?」
「祭り騒ぎね……大陸のどこよりも早く春節しゅんせつを先取りってわけだ」
 もっともその所為で、今年の旧正月は書類整理に追われることになるやも知れなかったが。
「とぼけても無駄だって。ほら、噂をすれば何とやら、だ」
 カイがほのめかした『原因』が何かを探る前に、彼が思わせぶりに窓の外を指差した。ぼんやりとしていながら、濃い陰影を浮き立たせる夜光燈の元に、三人の人影が見える。
「行けよ。俺はもう帰って寝る。総帥の頼まれごとはもう終わったし」
 青年の言葉を待っていたかのように、助手席側のドアが自動的に開いた。きんと冷えた夜気が、温度調節された車内を無遠慮に侵食する。
カイ。あんたこんな暗い夜道にか弱い女の子一人放り出すのか」
「悪いけど、今夜はか弱い女に逢った覚えは無いな」
「てめぇ状況読めよ。寒いんだよあたしは。わかったらとっととドア閉めて宝蘭堂ほうらんどうまで送れ、薄情者が」
「あんたを送るのは総帥に言いつけられてないんでね。任務の範囲外だ」
「知るかそんなの……って、おい!!」
 反論が終わらぬうちに、麗紅リーホンカイに躰を押された。よろめいた拍子に、殆ど転がるようにして車道に降り立つ羽目になる。
「じゃあな、麗紅リーホン。おやすみ、」
 無情にドアが閉まる音と、青年の呼びかけが重なった。少女が悪態をつこうと口を開きかけた時には、青年が操る轎車セダンは悠々と滑り出している。