不気味なほど静まり返った館の中で、二人分の足音が何かに急き立てられるかのように響く。適度に落とした偽物 の照明が、白い壁に歪な影を映して揺らめいていた。
マダムの部屋を飛び出し、ひたすら出口を求めて廊下を彷徨っていた紫霖 と少女が、壁に沿うようにして左へ曲がる。先ほど横切った広間 の惨状を思い出しながら、館の番人どもに逢わないことを切に願った。
部屋を出てまもなく辿り着いた広間 は、さながら人食い虎が獲物を求めて暴れまわったかのような有様になっていた。幽かに硝煙の香り立ち込める中、豪奢な金の屏風は無残に食い破られ、深紅の天鷲絨 の緞子 はずたずたに引き裂かれ、砕け散った酒盃 は破片の涙を絨毯の上に煌めかせていた。青磁の壺に生けた薔薇はさながら血痕のように赤い花弁を散らし、夜でありながら昼の如く眩い広間の享楽が、何者かに蹂躙 されたことを惜しんでいるかのようだった。
この館の広間にいた客たちや娼婦なのだろう。途中でその幾人かが逃げ惑うのに何度か出くわしたが、さしたる注意を払われることもなかった。あの様子から推 すに、他人のことになど構っていられないのだろう。
それはそれで好都合だ。紫霖 が見知らぬ襲撃者に密かな感謝を述べるのと、次に曲がった廊下の奥に赤錆の浮かんだ鉄の扉があるのを認めるのが同時だった。地上へ続く非常階段かもしれない。ようやく発見した出口への手がかりが、長年探し続けた財宝の在り処のように思えた。
おそらく他の誰かが逃げ出した後なのだろう。ゆるく開いた扉に手をかけて素早く中へ滑り込む。そしてその先に待つ階段を上ろうとしたが、彼らの予想は悉 く裏切られることとなった。
扉を開けた先に待っていたのは、非常階段でもなければ誰かの部屋でもなかった。マダムの部屋よりもさらに薄暗い室内に、目が慣れないでいる少年少女が声もなく立ち尽くす。やがて彼らの視覚が捉えたのは、傷痍兵が横たわっていそうな粗末な寝台であった。
そればかりではない。セメントが剥き出しになった床には気味の悪いしみが幾つもの模様を描いている。殺風景だが思ったよりも広い空間の壁には薬品棚が配置され、天井には手術鏡がシャンデリア代わりにぶら下がっていた。およそ清潔とは言えない、地下の外科室。
だがそれだけならば少年たちの本能が警鐘を鳴らすことは無かっただろう。鼓膜の上を柔らかく滑っていく微かな水音。その響きに混じるは汚濁した下水の匂いだ。だが何より異常だったのは、鼻の奥まで腐らせるような饐 えた血の匂いだった。
錆び付いた鉄じみた匂いが部屋中に充満し、鼻腔を刺している。それが未だ新しいものであると気づいた時、不意に部屋の隅から人の声がかかった。
「これはこれは。さっきの野良犬君じゃないか」
俄かに視界が明るくなったかと思うと、いつの間にか部屋の中央で男が仁王立ちして此方 を見ていた。マダムの部屋にいたその男は、確か関 と言ったか。男は先刻逢ったときと同じく、不安定な視線を宙に投げ出したまま紫霖 たちに笑いかけている。
「逃げて来たのかい?駄目じゃないか、勝手なことをしちゃあ」
呂律の回らない、酷く舌っ足らずな口調で少年たちを非難する。酔っているのだろうか。それにしては様子がおかしい。
「言うことを聞かない悪い子は、飼い主から厳しく叱られないとね。もっとも……」
何処か獣じみた、本能を剥き出しにした男の瞳が不自然に瞬いた。いち早く危険を察知した紫霖 は少女を庇うように後退する。そして再び逃げ出そうと扉に手をかけたとき、突如凄まじい力が少年の首を締め上げた。
「………っ…」
喉元を圧迫する感覚に、意識が押しつぶされそうになる。それを何とか堪えると、紫霖 は見よう見まねの肘鉄を男の懐にめり込ませた。ふっ……と意識が開放されたかと思うと、一気に空気が流れ込んでくる。
「もっとも、この部屋があることを知ったからにはたたじゃすまないだろうけど」
だが男の攻撃はそれでは終わらなかった。抗う少年をむしろ楽しげに見遣ると、どこからか取り出した手術用のメスを彼の目の前に翳す。
この男、中毒者か……。何処か尋常ではない物言いからその可能性をはじき出した紫霖 は、無表情に男を見上げた。マダムが嗜んでいた阿片のような、典雅なレトロドラックではない。獰猛に精神を食い荒らす新型麻薬 か幻覚剤の類が、この男を幻惑の世界へと引きずりこんでいる。
「残念だったねぇ。大人しくマダムの言うことを聞いていれば、幸せに暮らしていけただろうに。悪い子には罰を与えなくちゃね、そこの彼のように」
彼とは誰だ……男の言葉を反芻しようとした紫霖 の口が、不意に止まった。
紫霖 の肩を押さえつける男の視線と、扉の傍で腰を抜かしている少女の眼差しが、扉から最も遠い場所に注がれている。それにつられて視線を転じた先に、さしもの紫霖 も絶句した。この男に気をとられて気付かずにいたものを。この異臭の正体を。
そこにあったのは、部屋の片隅を流れる下水道の端に、鎖で括り付けられた肉の塊だった。だがそれは屠殺 された家畜などではない。ましてやうち棄てられた人形 の残骸などでもなかった。
「―――― ……っあ…」
喉の奥で掠れた声を奏でたのは少女か、自分か。その判別さえつかぬまま、紫霖 は四肢と首を喪失した屍骸から目を逸らすことが出来なかった。下水の脇に無造作に積み上げられた腕と足から滴る血溜まりが、それが未だ新しいものであることを物語っている。
「さて、お仕置きの時間だ。さっきも言ったように眼球を潰されたいかい?」
とびっきりの悪夢を目の当たりにし、せりあがってくる嘔吐感をぎりぎりのところで堪えていた紫霖 の眼に、男が握ったメスが突きつけられる。そのやけに鋭いきらめきが、少年の網膜を貫いた。
「昔の娼妓 には、わざと目を潰した者もいるらしいね。客の選り好みをしないようにって。生意気な君もそんな目に逢えば、少しは世間というものが分かるんじゃないのかい?それともあそこにいる彼みたいになる?ああ、でも僕は解体屋じゃないからそういうことはしてあげられな……」
「……うるさい」
熱に浮かされたように滔々と語り出した男の言葉を、静かな、しかし氷の刃めいた声が一蹴した。
「そろそろその汚い手をどけろ。オレに気安く触るな、」
眼前に翳されていたメスの先から僅かに身を反らすと、紫霖 は埃でもはたくように男の手を払いのけた。思いのほか力が籠っていたらしく、男の手からメスが離れ寝台の下へ転がっていく。
次の瞬間、紫霖 の躰が大きく傾 いだ。続いて頬に走った衝撃に、意識が一瞬だけ真っ白く燃え上がる。寝台に近い薬品棚に背中をぶつけた時、ようやく自分が男に殴られたのだということに気付いた。
「偉そうな口を利くな、クズが!!」
ぼやけた意識の端で、少女が駆け寄ってくるのが分かった。顎の下から頬の辺りがぼんやりと熱い。そこだけ隕石が落ちて穴が開いたような熱っぽい喪失感に続いて、じわじわと鈍い痛みが広がっていった。
「俺を誰だと思ってそんな口を利いている?!誰のお陰で貴様ら嘉式 の奴らが生きてられると思っているんだ?」
男が何事かを喚いている。だが呂律の回らぬ不明瞭な音声は、ただのノイズと化して虚しく地下の空間に木霊するばかりであった。
「大体お前は、始め見たときから気に食わなかったんだよ。貧民窟 の底辺を這い回っているくせに、生意気な態度をしやがって。俺たちが使いようの無い貴様らをこうして利用するだけでもありがたいと思え!クズはクズらしく、俺らのために生き、従順に言うことを聞いていればいいんだよ!!おい、聞いてんのか、貴様」
こんな男の言うことなど耳にする価値すらないことは瞭かだった。支離滅裂にがなりたてる男の台詞は、自分ではなく己の幻覚に向かって放たれているのだ。理性を脱ぎ捨てた人間の言うことなど、宝蘭堂 で小賢しく説教を垂れる九官鳥よりもたちが悪い。
紫霖 は痛みが広がった頬を押さえながら、霜が降りた夜の如き一瞥を男にくれてやった。
「――― すごい勝手な言い分。クズなのは、あんたの方なんじゃない?」
こんな男に理解できるとも思えなかったが、何か言い返してやらねばならぬと思った。怒りや侮蔑などではない。そんなものをこの男にかけてやる価値など無いのだ。皮肉っぽく微笑みかけた少年が紡いだ言葉は、憐憫以外の何者でもなかった。
窮地に陥ってもなお尊大且つ高慢な態度を崩さぬ少年に、男がわなわなと躰を震わせた。こんな言葉を投げられたのは生まれて初めてなのだろう。かつて無いほどの憤怒を持て余し、顎が砕けんばかりに歯噛みした男が、やおら紫霖 の襟首を捕まえた。そして寝台の下に落ちたメスを拾い上げ、高々と少年の頭上に掲げ上げる。少女が細く、長い悲鳴を上げたまさにその時、扉の方から場違いなほど陽気な声がかかった。
「失礼しまーーっす」
宅配でも届けに来たのかと錯覚するような声に続いて、閉ざされた扉が地鳴りの如き音を立てて派手に倒れこんだ。扉の枠で切り取ったその場所に、長身の影と小柄な影が浮かび上がる。
「上海騎士団第九部、特別派遣捜査局っす。うちの姫さんお迎えに上がりました」
呆気にとられた紫霖 、少女、そして関 とか言う男は呆気にとられたまま二つの人影を見遣った。長身の影は薄墨色に染め抜いた髪に、丸い色眼鏡 を掛け、原色の襯衣 を着崩したチンピラ風情の男である。こんな奴がマダムの配下に居ただろうか。関 は劣化し始めた意識の隅で、呆然とそんなことを考えた。
「聞けばうちのもんが色々と世話になったとかで。いやぁ、本当にご迷惑をお掛けしました。とっとと連れて帰りますんで、何卒ご容赦を。あっ、示談金は払えないんで、そこんとこも勘弁してくださいな」
「何だ……貴様らは」
へらへらと笑いながら一歩ずつ近寄ってくる男に、得体の知れない恐怖を感じる。何だか知らないが、とにかく自分の味方、マダムの手の者でないことは明らかだった。
「だぁーから、騎士団第九部です。知りませんかね?まぁ無理もないっすよねぇ。こちとらお上 直属の精鋭部隊ですから。なんでそんなエリートがこんなとこにいるのかって、まあ話せば長いんで、とりあえず今はそこの迷子くんを俺たちに返して大団円ってことにいたしましょうや。事情は後日お話しますから。
それにしてもこいつ引き取るのに散々手間取ったんですよねェ。うちの局長 は理不尽な仕事を押し付けてくるは、寒い中張り込みさせられるは、此処の主人に誤解されちゃって銃向けられるは、すんげぇ大変な目に遭って……昼間麻雀に勝った時はそりゃあもう絶好調だったんですけどねぇ。賭場で今日の運気を使い果たしちまったんですかね?お陰様で久しぶりにスリリングな一夜を過ごす羽目に――― おっと、妙な真似はしねぇほうがいいぜ、関 秀来 」
一分間に700発もの弾丸を吐き出す機関銃 だって、もう少し慎ましく喋るだろう。だが饒舌という予期せぬ銃撃に見舞われた関 が、少年を盾に取ろうと身構えた瞬間、男のへりくだった口調が急にぞんざいなものに切り替わった。
「ネタは全部上がってんだよ。どこぞの莫迦息子が、あろうことかマフィアに情報流してぼろ儲けしてたってな」
どこから現れたものか、男が掲げた木刀の先が関 の喉仏を押し上げた。じわじわと絞め殺すようなその硬い感触に、関 の顔が引き攣る。
「いや、だがらあの、これは………」
「まァ待て。悩み事なら拘置所でたっぷり聞いてやっからよ」
関 の弁明をにべも無く制した男はゆっくりと木刀を離すと、その切っ先よりも硬く、関 を凍りつかせる言葉を告げた。
「上海騎士団第五部総務 局、浦東 支部長関 秀来 。てめぇを傷害未遂、死体遺棄、及び個人情報保護法違反の容疑で逮捕する」
手錠を掛けるかわりに振り下ろされた木刀が、関 の意識を闇の彼方へと追いやった。