マダムのくゆらせていた阿片アヘンが、甘く誘うように鼻先を掠めてゆく。
 ロビーでの惨劇は此処には届かない。血腥ちなまぐささとは無縁の、風化した時代と、攫ってきたとりこをこっそり隠してでるような頽廃が、この部屋には満ちている。紫の煙が霧のようにうっすらと立ち込めた部屋は、狂おしくも甘美な幻覚を嗜むにはうってつけだ。
 朴訥と扉に寄りかかっていた狗虎グォンフーは、煙草に火をつけようとした手を止めた。煙たげな白い煙は此処には相応しくない。柄にもなくそう考えたのは、何も時代錯誤な灯りと雰囲気に満ちた部屋の所為ばかりではなかった。
 狗虎グォンフーは部屋の隅の壁際に凭れ掛かった少年を顧みた。力なく項垂れ、四肢を放り出しているさまは魂を抜かれた薬物中毒者に見えなくもない。
 此処に連れてくる前までは強情な態度を頑として崩さなかった少年が、ああも容易たやすくマダムに服従するとは思わなかった。それとも野郎の言いなりになるよりも、女の方が良いのだろうか。もしかしたらこの少年は、前にもこう言った局面に遭ったことがあるのかもしれない。事情は知らぬが、南京路ナンジンルーの裏通りをふらつくような手合いである。まともな人種であるとは考えがたかった。
「あんな真似ができるとは、お前も大したタマだな」
 少年の真意が気になって、狗虎グォンフーは軽い冗談を飛ばした。答えるのも億劫だとでも言うように、少年がのろのろと顔を上げる。宵闇の帳を溶かし込んだ黒髪がさらりと揺れ、白いかんばせが此方を向いた。その滑らかな白さが目に沁みる。
 狗虎グォンフーはことさらゆっくりと少年に歩み寄り、傍らに屈みこんだ。目を合わせるのが厭なのか、怠惰に伏せられた睫毛の長さが際立つ。先刻外で出くわした時に殴ったあとが赤く腫れて麗貌に影を落としているが、加虐心を掻き立てる要素になりこそすれ、彼の美しさを大きく損ねることにはならない。
 男の脳裏にふと、昔誰かに聞かされた怪奇譚が甦った。美しい女に化けた蛇をめとった男が、その妖魔に魂を吸われるという逸話だ。その時は女の美しさに我を忘れ、虚無という名の地獄へ溺れていった男を莫迦にしていたものだが、今なら彼の気持ちが分かる気がする。理性を貪り、魂すらも吸い尽くす美貌があるとすれば、屹度きっとこんな姿をしているに相違ない。この少年は確かに、期せずして相手の気を我が物にしてしまうような、危うくも離れがたい空気を纏っている。
「どんな手管を使って、あのマダムをたらし込んだんだ?あん?」
 狗虎グォンフーは頑なに顔を背け続ける少年の顎を掴み、無理に此方へ向かせると、研ぎ澄ましたやすりで優しく撫で上げるように問いかけた。魂を何処かに置いてきたような、焦点の定まらぬ目つきで男を見上げた少年は、緩く閉じかけた口唇を開いて囁きかける。
「―――― どうせだから、試してみる?」
 紅を差したわけでもないのに鮮やかに濡れた口元が、誘惑の形に歪んだ。何処か挑発するように煌めいた瞳が男を捉え、嫣然と微笑みかける。不意に背筋に走った震えは、部屋に漂う阿片の幻惑によるものか、妖しく誘いかける少年の吐息の所為か。
 男の手が、華奢な少年の肩を壁に押し付けた。その先を促すように、彼の舌先が口の端で蟲惑的にうごめく。狗虎グォンフーの躰が少年の呼吸と触れ合い、自分のそれと混じりあうほどにのしかかった。それを待ちかねていたように少年の腕が、男の躰を抱き込むように背中に回される―――
「………っ?!!」
 次の瞬間、狗虎グォンフーの背筋から脳天を鈍い痛みが貫いた。少年が男の股間を力任せに蹴り上げたのだ。運悪く急所を狙い打たれた男は、声も出せずに悶絶した。その隙を狙って少年が下から這い出すのを、狗虎グォンフーが見逃すはずがない。
「…で……めぇ…っ」
 憤怒の鼻息も荒く、逃げ出した少年の細腕を掴みあげようと狗虎グォンフーが手を伸ばすも、時既に遅し。傍らに置かれた壺を両手に掲げた紫霖ツーリン、渾身の力を込めてそれで男の頭を殴りつけている。
 ガシャン、と壺が割れる音とともに、何か柔らかなものが潰れる厭な音が部屋に響いた。頭から血を流し、白目を剥いて昏倒した男を少しだけ憐れに思いつつも、紫霖ツーリンは彼の懐を無遠慮に探った。先ほどあれだけ自分を殴ったのだから、これでも未だ足りないくらいだろう。暴力は嫌いだが、この際贅沢は言ってられない。
 すぐに目的のものを探り当てた紫霖ツーリンは、倒れた男の向こうで縮こまる少女を見遣った。藪から棒に少年と目を合わせた少女は、わけもわからず身を竦ませる。紫霖ツーリンは少女の恐怖になど頓着せずに、その後ろに回りこんで肩を押さえつけた。
「やっ……ちょっと、何なの?!」
 悲鳴に近い声で尋ねる少女の問いに、何かが外れる音が重なった。手許が不意に、羽根のように軽くなった気がした。
「えっ……」
 自分を戒めていた手錠が解かれ、少女は呆然と少年を見上げた。その視線に答えるように、少年が手にした手錠と鍵を放り投げる。金属のかち合う音がかすかに響き、床に転がった。
 漸く手にした自由を持て余すように、少女が紫霖ツーリンを見つめた。この自由の使い道を尋ねるかのような、縋るような目つきだった。少年は僅かに眉根をひそめると、ぶっきらぼうに自分の手を差し出す。だが少女はその意味を量りかねるように首を傾げるばかりだった。
「とりあえず逃げるぞ。厭なら別に良いけど」
 少女の反応を拒絶と受け取った紫霖ツーリンは端的に言い捨てると、さっさと身を翻して部屋を横切っていく。
「待って!!」
 置いていかないで。やっとのことで振り絞った声はしかし、擦れていた。そのか細い声を聞きとめた少年は、一瞬だけ歩みを止める。その背に追い縋ろうと少女が立ちかけたが、足が縺れて上手く立てない。
 少女の腰が抜けていることに気付いた紫霖ツーリンは、呆れたように溜息をつくと、おもむろに少女の傍へ歩み寄り、彼女のわきへ腕を差し入れた。何の断りもなしに黙々と少女を立ち上がらせる様子は奇妙であったが、乱暴ではない。何処かいたわるように肩を貸した少年は、少女の歩みに手を添えながら、何とも不安定な足取りで部屋をあとにした。