霧の夜は更け、今宵限りの宴もたけなわ。上海でも有数の歓楽街として知られる四馬路スマロには、一夜の快楽を求めて彷徨う人々を乗せた車が静かに行き交っている。
 唐代の楼閣を髣髴させる妓館ぎかんから揺蕩たゆたうは、くすぐるような女たちの笑い声。夜目にも鮮やかな紅い手摺から覗く娘の影が妖しく揺らめき、琵琶や三絃を爪弾つまびく物悲しい音色は夜の霧とともに空へと舞い上がってゆく。
 時代の流れにもとった界隈には、天鷲絨ビロードの夜闇に浮かぶ紅い角灯ランタンが、濃霧の中で人魂のように朧に滲んでいた。紅灯の巷という呼び名高き四馬路には、高級妓院や舞踏廓ダンスホールを併設した酒場、老舗の茶館などが軒を連ねている。
 やがて男たちを乗せた車は、音もなく一つの建物の前に乗り付けた。
 租界時代の面影を残した新文藝主義ネオルネサンス様式のビルに、角灯ランタンの灯火が照りかえる。仄かな紅みでよそおった摩登モダンな佇まいは、キャバレーで在りし日の愛を歌う女歌手を思わせた。
 リーダー格の黒服を着たいかつい男が、瀟洒な硝子扉を開けてビルの中へと入っていく。他の男たちも無言でそれに続いた。各々の手に、目隠しをした上、手錠で両手を戒めた少年少女を携えながら。
「お勤め、ご苦労様です。これが例の娘ですか?」
 黒服の男がビルのエントランスに足を踏み入れてまもなく、廊下の奥から仕立てのいいスーツをきっちりと着こなした男がやって来た。計っていたとしか思えぬ対応の素早さだ。髪を撫で付けた経営者マネージャー風の男は、黒服の後ろで縮こまる少女を一瞥すると、おもむろに彼女の傍へと歩み寄る。
「ああ。他の娘たちは今部下に追わせてる。主要な奴らだけなら、夜が明けるころには刈り終えているだろうさ」
「――――そっちは?」
 品定めするように少女を見回していた経営者マネージャーは、ふと興味の対象を彼女から逸らした。顎に手を当て、傍らで項垂れている少年を奇妙な眼差しで見つめながら、事務な口調で問いかける。
「現場に居合わせた運のないネズミさ。殺すには惜しいくらいの美人だったんで、連れてきた」
「貴方にそのような趣味があったとは知りませんでしたが……一度マダムに見せてみますか。奥の部屋へどうぞ」
 瞳を覆っていても隠しようのない、少年の上品に整った鼻梁を見て、経営者マネージャーは納得したように頷いた。黒服の一味は促されるまま、彼の後をついていく。
「今日は後援人スポンサーもお見えになっています。マダムと商談中ですので、どうぞご容赦を」
 品のいい色合いを醸し出す絨緞の道を通り抜けると、黒漆のように滑らかな輝きを放ちながら、優美な曲線を描く鉄梁てつはりの柵の前にたどり着いた。懐古趣味に溢れたその柵の向こう側に、穏やかな琥珀色の灯を宿した昇降機エレヴェーターがするすると現れる。
「今日はやけに騒がしいな……競馬の所為か?」
 足元から溢れてくるざわめきを聞きながら、黒服は戯れに問うた。濁った男たちの笑い声や、甲高い女どもの嬌声。それにかぶさる滔々とうとうとしたジャズの調べが徐々に近づいてくる。やがて階下に降り立った時、幾重にも入り混じった香水と白粉、そして阿片アヘンの甘やかな香りが鼻腔に忍び込んできた。
「ええ。後援人も今日は大勝ちしたとか」
「そんで大盤振る舞いの乱痴気騒ぎってわけか。俺もあいつらの幸運にあやかりたいもんだ」
 さすがは四馬路屈指の娼館、遊仙窟ゆうせんくつである。新春競馬ともなれば老いも若きも、こぞって一夜の快楽を求めにこの館を訪うというわけだ。皮肉っぽく呟いた男はついでに肩をすくめて見せた。もっとも、その声には羨望の色はこれっぽっちも滲んでいない。荒事も進んで請け負う女衒ぜげんである自分には、こんな連中とつるんで儲けている方がお似合いだ。
 昇降機エレヴェーターから降りて、回廊を真っ直ぐ突き進んで行く。廊下に灯された立体照明ホログラフィの蝋燭の瞬きは、押し黙ったまま歩く少年の頬に偽りの影を落とし、恐怖のあまり足元が覚束ない少女にまやかしの希望を囁きかけているように見えた。
 ほどなくして、巨大な銅鑼どらを模した観音開きの扉の前で一向は歩みを止めた。経営者マネージャーが機械的な動作で敲門ノックする。
「マダム、失礼します」
 その一言が呪文であるかのように、銅鑼がゆっくりと開かれた。

 


 始めに認識したのは、嫣然とした毒を思わせる、脳の一部が甘く麻痺するような香りだった。甘美な幻覚へと誘いながら、恍惚と滴る紅罌粟あかけしの毒。それが阿片だと気づいた時、紫霖ツーリンの視覚を奪っていた覆いが解かれた。俄かにまばゆくなった視界に、思わず眼を細める。
「お連れしました」
 慇懃に腰を折った経営者マネージャーの声が、何処か遠くのもののように感じられた。いつの間にか囚われの身となった紫霖ツーリンは、今自分が置かれている状況をすっかり忘れて部屋を見渡す。
 まず眼に飛び込んできたのは、壁一面に掲げられた姿見であった。しっとりとした木彫りの枠がその輝きを彩り、足元には波斯ペルシア製の絨緞が広がっている。年代ものの壁掛時計は小粋に時を刻み、緩やかな時代の流れさえ感じさせる黒檀の化粧台ドレッサーには可憐な陶器の壜がいくつも陳列されていた。その脇には使い方すら知らぬ蓄音機が、優美な花弁を広げて鎮座している。極めつけは天井に吊るした提燈だ。とろりとした蜜色の灯は、あたかも前世紀の無声電影サイレントキネマに迷い込んでしまったかのような錯覚をもたらした。
 自分を連れ去ったのは過去の幻影か。そんな拙い想像が一瞬脳裏を過ぎったほど、その室内は古色蒼然こしょくそうぜんたる趣を醸し出していた。
 惚けたように辺りを見回していた紫霖ツーリンの瞳が、奥の人影を捉えて止まった。繻子しゅす緞子カーテンが垂れ下がる寝台ベッドの上で、しどけなく横たわる女の影。その傍らの長椅子には、壮年の男が凭れ掛かっている。
「ああ、説明はいいよ。話は全部聞いた」
 たおやかな肢体を優雅に寝そべらせたまま、その女は気のない返事を寄越した。部屋がぼんやりと暗い所為か、あるいは充満する阿片の煙の所為か、その容貌はにわかには判然としない。だが朧な闇に浮かぶ四肢は、悩ましげなシルエットを浮かばせていた。
 だがそれよりも奇妙だったのは女の声である。見た限りでは妙齢の女性であるにもかかわらず、彼女は地の底から這い上がってきた老婆の如くしわがれた声を紡いでいたのだ。
 女はけだるげに、手にした煙管キセルを口元へ寄せる。そして少女に向けて手招きをした。少女を拘束していた男が、彼女を女の下へと突き飛ばす。さながら魔女に捧げる生贄のように、少女が寝台の足元へ倒れこんだ。
「さて。お前さん、自分が何をしたか分かっているね?」
 乱暴に寄越された供物をいたわるように、女は少女の頬へと手を添えた。何処か優しげな声音が少女の耳朶をくすぐる。寝台から身を乗り出した女の顔が、少女のそれに被さるようにして迫った。
「なんの断りもなく、あそこで客をとろうなんざ甘いよ。素人の分際でこっちの縄張りを引っ掻き回してくれたんだ。それ相応の償いはしてもらうよ、」
 だが天使の柔毛にこげのように少女をくすぐった声が吐き出したのは、それとはまったく逆の言葉だ。女は冷ややかに少女を突き飛ばすと、何事もなかったかのように傍らに座る男へと向き直った。
「野暮な邪魔が入って悪かったね。今日のところはこの辺にしておこうか。例の件、よろしく頼むよ、」
「ええ、万事滞りなく手配しておきましょう。ところでそちらの主に依頼された件なのですが、これは直接彼の方へ出向いた方がよろしいかな?」
「ああ、そうしてくれると助かるよ。介添えがいるとロクなことにならないしね……。あとは、ゆっくりしていくといい」
 手錠で自由を奪われたまま倒れ臥す少女には目もくれず、奥に控えた二人はきわめて事務的な会話を交わした。躰の均衡が取れぬ所為か、恐怖のためか、少女は立ち上がることすらままならぬようだ。涙で頬を濡らした横顔が、提燈の朧々ろうろうとした灯りのもとに晒される。その弱々しげな泣き顔を見たとき、紫霖ツーリンは思わず出しかけた驚愕の声を辛うじて押さえ込んだ。
 その少女は、南京路の交差点で見かけた妹の面影と酷似していた。だが妹とはまるで別人である。小柄な躰つきや可憐な目鼻立ちは確かに松花ソンファと似通っていたが、妹の持つ儚くも芯のある雰囲気、清廉な瞳の輝きなどは彼女からは見出せない。第一、声が違う。
「時にマダム、今宵はその娘をお借りできませんかね?」
「いいのかい、こんな娘で?ツラは悪くないがズブの素人だ」
「たまにはそう言うのも悪くない」
 斜に構えた男の声には、卑俗な笑みが張り付いていた。マダムと呼ばれた女は悠然と頷くと、
「あんたがそう言うなら構いやしない。好きにしな」
 少女の方を顎でしゃくった。飼い犬に極上の餌を放り投げる主人のような仕草だった。マダムの許可を得た男は、さも大儀そうに椅子から腰を上げると、ことさらゆっくりとした足取りで少女の下へと歩み寄る。その様子に気付いた少女はか細い悲鳴を喉の奥から搾り出した。
「―――さて。何か面白いものは見つかったかい、坊や?」
 化け物に出くわした時のような顔つきで、にじりよる男から逃れようとする少女。その横顔に恐怖とは違う、後悔にも似た念が微かに感じられたとき、紫霖ツーリンは不意にマダムに呼びかけられた。咄嗟に反応することが出来なかったのは、それが自分に向けられたものであるとすぐには気付けなかったためだ。
 それまで奥の寝台で煙管を燻らせていたマダムはおもむろに立ち上がると、やけに艶めいた足取りで紫霖ツーリンの傍までやって来た。紫霖ツーリンは目の前に佇む女の姿を神妙な眼差しで凝視する。
 二十代も後半に差し掛かった頃だろうか。わざとらしく潤んだ目元は妖しげな紫に彩られ、形のいい口唇は毒々しい罌粟けし色を乗せていた。細やかな肢体を絢爛けんらんたる刺繍が施された旗袍チャイナドレスに包み、大胆なスリットからは長く伸びた足を惜しげもなく晒している。顎もとで切りそろえた黒髪の上には、青紫の牡丹を模した髪留めが座っていた。
 蜂蜜色の照明の中、驕慢な笑みを灯しながら煙管をくゆらすそのさまは、圧倒されるほどの色香を撒き散らしていた。だが何処か虚ろな印象を感じるのは、彼女の口から零れる阿片の所為だろうか。幻惑の園に咲く妖かしの花はせ返るほどの芳香を放ち、滴る蜜で群がる蟲を虜にする。だがそれは一時の幻、うたかたの夢かもしれぬ。美しいというよりは禍々しさの勝る美女を前にしつつ、紫霖ツーリンはこの女に抱いた不自然な印象を拭えずにいた。
 彼女の持つ偽りの魔性。それを懐疑する紫霖ツーリンの心情など気付かぬように、マダムは少年の顎を指先で捕らえ、自分の方へ向かせた。その手を跳ね除けようと身をよじったが、背中をがっちりと押さえつけられているため逃れることすら叶わない。
 マダムの金色に瞬く双眸が、少年の顔を、肌を、なぶるように滑っていく。その人工的な瞳の輝きを直視した時、紫霖ツーリンは彼女の眼が義眼であることに気付いた。そこでようやく、彼女の躰自体が生身ではないのかもしれないという可能性に行き着く。
 全身義肢ぎし化した人間など、機械生物技術が躍進した昨今でも早々お目にかかる事ができない代物だ。そもそも健常者の義肢化は大陸では禁止されている。だが暗黒街で生きる者となれば話は別だった。国の許可なき義肢パーツは大陸の水面下で製造され、上海や香港を始めとする特別経済地区を中心に海外へと流出してゆく。その逆もまた然り、だ。神ならざるものの手によって造られた躰は闇で生きる者どもの懐を潤し、人知を超えた能力を与える。電子工学や機械生物技術、医療面で恐るべき技術の成果を花開かせた大陸の義肢は、本物と寸分違わぬほどの精度を誇ることで有名だった。
 もしマダムがそうした手合いならば、先刻感じた違和感も納得がいく。彼女が纏うのは偽りの美貌なのだ。
「なかなかどうして、あんたも面白いものを持ってくるね、狗虎グォンフー
 ひとしきり少年の顔を鑑賞したマダムは、さも可笑しげに口元を歪めながら扉の間際に控えた黒服の男に呼びかけた。金色の瞳を黒猫のように閃かせながら、此方を毅然と睨みつける紫霖ツーリンを満足そうに見つめる。繊細で、無闇に触れれば壊れてしまいそうな脆さを備えた少年の美貌には、似つかわしくないほどの険しさが漂っていた。
 壊せるものなら壊してみろ。人慣れぬ孤高の獣が、静寂を持って威嚇する時の緊張感がぴりぴりと伝わってくる。ただ静かに、しかしその内には憤怒と侮蔑をたぎらせながら女を見上げる少年の、それは無言の反逆だった。
「いいねぇ、その眼。生意気な子は厭いじゃないよ。手なづける楽しみがある、」
 沸々と湧き上がってくる感情は喜びか、嗜虐か。老獪ろうかいな嗄れ声が揶揄やゆした時、それまで反抗的にマダムを睨み据えていた紫霖ツーリンの柳眉がふいに歪んだ。残忍な笑みをうっすらと浮かべたマダムが、少年の襯衣シャツの裾に手を入れてきたのだ。血の通わぬ冷たい指先が脇腹をまさぐり、襯衣シャツボタンを慣れた手つきではずしてゆく。露わになった鎖骨を這う感触に寒気がした。抗う少年をせせら嗤うように、手錠が虚しい金属音を響かせる。
 逃れるならまず、この手錠をどうにかしなければならない。
「名前は?」
「――― 紫霖ツーリン、」
 こんな女と口を利くのも厭だったが、止むをえなかった。名乗った瞬間、臓腑の奥に冷たく苦いものが落ちてきたような気がする。掠れた声で唱えた名前が、自分のものでなければいいのにとさえ思った。
 力があるものを前に屈することと、気安く触られることは紫霖ツーリンのプライドが赦さない。しかし彼女の手から、拘束から逃れるためには、己の誇りなど無視するより術がなかった。
 何時だってそうだ。力のある連中を蔑み、決して言いなりになったりしないことが、無力なこの身を守る唯一の砦だった。自分の脆弱さを、無力さを、受け入れてはならない。それは他人に己の弱さを曝け出すことと同義だ。だがそんなものは、現実を前にすればいとも簡単に崩れ落ちる。浜辺に拵えた砂山が、波に攫われ溶けていくように。
 マダムの吐息が鼻先をかすめたのをぼんやりと感じながら、紫霖ツーリンは何時から自分は、こんな連中にいいようにされる現実を受け入れ始めたのかを思い出そうとしていた。母が死んで、菜館レストランの下働きを始めたとき?その仲間から暴力を受けたとき?菜館レストランの客から執拗に迫られ、やむなく要求に応じた時かもしれない。
 もしかしたら生まれたときから、こうした星のもとに生きることを設定されていたのかもしれない。紫霖ツーリンはそれを、運命などと呼びたくなかった。何処かで存在意義を失った、この社会の狂った系統システムが、少年をそうした座標軸に位置づけているだけなのだ。運命は変えられるなどとはよく言ったものだが、これは運命ではないから変えようもない。電脳コンピュータ制御された程序プログラムを、変えることが出来ないのと同じことだ。
紫霖ツーリン、あんたアタシのために一緒に此処に残るのと、別の場処に売り飛ばされるの、どっちがいい?」
 マダムが少年に選択を委ねたのは、彼の性質を見破ってのことだった。見も知らぬ人間たちの喰い物にされるのを、この高慢な少年が赦すわけがない。だからと言って、今この瞬間からマダムの玩具として生きることに甘んじるのも拒むはずだ。
「――― 此処に残るよ。売り飛ばされるのはごめんだ」
 だがマダムの予想に反して、少年が選んだ答えは至極殊勝なものだった。瞳は相変わらず傲岸なものをたたえているが、先刻までむき出しにしていた敵意は窺えぬ。手のかかる飼い猫をようやく意のままにしたと言う安堵と、残酷なまでの支配欲が彼女を満たした。紫霖ツーリンの選択をしかと受け取ったマダムは煙管に口をつけると、吸い込んだ阿片のけむりを少年に口移しする。
 口腔に充満した甘い吐息に陶然としかかった紫霖ツーリンの歯の隙間から、女の舌先が割り込んできた。鎌首をもたげた蛇さながらに忍び寄った舌の感触を、少年のそれが絡め取る。蟲惑的に蠢いた少年の舌がマダムの口唇をなぞり、溶けあうような微熱を孕んだ。呼吸すら奪われるほどの接吻くちづけに、女の喉もとから甘やかな吐息が零れ落ちる。
 やがて口唇を離し、浅く喘いだマダムを見て、少年は勝ち誇ったように微笑むと、
「それから手錠これ、取ってくれない?いい加減邪魔なんだけど、」
 後ろ手に自由を縛る手錠を顎で指すと、紫霖ツーリンは少しだけせがむように首をかしげた。先刻の従順な振る舞いに気を許したマダムは、手下に彼の手錠をはずすよう命じる。
「今日からあんたはアタシの飼い猫だ。粗相をしたら容赦なく罰を下すからね。覚悟しときな」
「なに、マダムに楯突こうなんて思わなければ善いんだよ、坊主」
 いつの間にマダムの背後にやって来たのだろうか。少女を追いかけていたあの壮年の男が、紫霖ツーリンの視界に映った。男は何処か焦点の合わないうつろな眼差しで、気狂いじみた笑みを顔面に貼り付けている。その手は恐怖と恥辱に身をよじる少女の乳房を弄んでいた。
「生意気なペットは少し厳しいくらいの躾をしたほうがいいですよ、マダム。眼の一つや二つ潰してやれば、少しは自分の立場というものを弁えるでしょうから」
「言うことがえげつないねぇ、あんたも」
「それくらいは当然ですよ。飼い猫ならそれらしく、主人の言いなりになっていればよろしい。こいつらは我々のために存在しているんですから、」
 下卑た笑いを隠そうともせず、男は至極当然のことのように言い放つ。紫霖ツーリンは僅かに顔を俯け、歯を食いしばった。妹に似た娘が辱められている光景を見るのが堪えられなかったのもある。だがそれ以上に、男の人を人とも思わぬ言い草に、軽い嘔吐がこみ上げてくるのを抑えるのに必死だったのだ。
 こんな屈辱は初めてだ。今まで幾度となく踏みにじられ、蹂躙されてもなお失わずにいた己の尊厳に泥を塗られた気分だった。こんな輩と眼を合わすことすらおぞましい。逃げ出すためとはいえ、一時でもこんな連中の言いなりにならざるを得ない自分を呪った。この愚にもつかないことを平然とのたまう奴らも憎かったが、そんな人間に保身を立てる自分の卑小さが何より憎かった。
 所詮自分たちはこいつらを潤し、時にその欲望を満たすための道具でしかないのか。大陸を網羅する階級という名の蜘蛛の糸に絡めとられ、その中で力のあるものの餌として設定された自分。そこに感情を挟むのはナンセンスだ。だとしたら自分を支え続けていた誇りとか意地といったものすら、この系統システムの中では無用の産物なのだろうか。
「さて、僕はいつもの部屋へこの娘を連れて行くよ。いいかい、マダム?」
「ああ、」
 抗う少女の肩を抱き、部屋をあとにしようとする男に、マダムがそっけない返事を返す。能面のような顔つきで押し黙った少年の心中など意に介さぬ様子で、その躰に手をかけたとき。
「………」
 突如マダムの瞳が光った。誇張ではない。激光レーザーにも似た鋭い輝きが、マダムの金色の眼でちかちかと点滅している。
「上が騒がしいみたいだね……」
 用心深く呟いた声に応えるように、蓄音機から耳を聾するほどのサイレンが響き始めた。
『マダム、緊急事態です!!表が突然銃撃を―――……っ…武そ……今……い備………』
 サイレンとともに騒ぎ始めた不明瞭な声が、砂嵐じみたノイズとともに掻き消える。ただならぬ様子を感じ取ったマダムはさっと身を翻すと、今しがた部屋を出て行こうとした男を呼び止め、動揺し始めた手下たちをぴしゃりと叱りつけた。
「うろたえるんじゃないよ、野郎ども。狗虎グォンフー、あんたは此処に残ってこの子達を見張れ。コヮンは念のため例の部屋から表へ抜けな。後のものはアタシと一緒に上へ来い」
 きびきびと命を下したマダムは、無駄のない足取りで部屋を横切ると、銅鑼を模した扉を開け放った。勇ましい後ろ姿に気圧された手下たちも、慌ててそれにならう。何が起きたか把握しきれないでいた紫霖ツーリンと少女、狗虎グォンフーと呼ばれた黒服の男を残したまま、部屋の扉が再び重々しく閉ざされた。