旧時代に建てられたと思しきアパートメントを横切り、裏門に面した小路へと出た時、少年は今宵何度目かの溜息をついた。
 目の前に群生する黒い影のさざめきは、それが何処かの公園の鈴懸樹プラタナスであることが見て取れた。その影に沿って点在する街灯の灯りは弱々しく、あたかも今際の際の言葉を吐いているかのように瞬いている。うっすらと立ち込める夜霧は、通りがかる人間の幻さえ、見せてくれそうにない。
 上海の旧市街、黄浦江ワンプージャンの西側に位置する古き街並みを覆う露地と露地の網絡ネットワーク。縺れ合いすれ違い、複雑に絡み合った、名さえ持たぬ無数の網の目は引っかかってしまったら最後、土地勘の無いものを容赦なく魔都の闇へと引きずり込んでゆく。
 紫霖ツーリンは何時果てるとも知れぬ夜の迷宮を見遣った。追いかけていた少女の姿は最早なく、ただ自分を危地へといざなう濃い夜闇が大きく口を開けて待ち構えているばかりである。仕方なしに街灯に沿って細い路地を抜けてゆく。先刻迷い込んだ界隈に比べれば何てことない通りだったが、如何せん侘しすぎた。宝蘭堂ほうらんどうが佇む、旧県城けんじょう内の廃墟の如き裏道といい勝負かもしれない。南京路ナンジンルーにほど近い場処であるにもかかわらず、風のそよぐ音すら聞こえない静けさがかえって不気味だった。
 こんなところで暴漢などに出くわしたら一巻の終わりだろう。誰の助けも望めぬまま、よくて恐喝、運が悪ければそのまま何処かに売り飛ばされて慰み者にされるか、臓器をごっそり持っていかれるかもしれない。そんなことを何処か他人事のように考えながら淡々と次の角を曲がる。もはや妹を追いかけているのか、宝蘭堂ほうらんどうへと向かっているのか自分でも分からなくなるような足取りだった。
 せり出した低層住宅の屋根という屋根が重なり合い、闇そのものが質量を伴ったものとして空間を圧迫している。月影さえも拒んだ裏露地は、地獄へのトンネルさながらだった。あまりに不吉な印象を払い落とすように頭を振り、紫霖ツーリンはそのトンネルへと足を踏み出す。切れた電線は蜘蛛の糸のように垂れ下がり、換気扇の網が突き破られたまま放置されていた。住民が去ってから、長い時間が経過したのだろう。二階と呼ぶには低すぎる位置にある窓はひび割れ、排水溝では棄てられて久しい残飯と糞尿の臭気が混ざり合っている。
 その腐臭に思わず眉をしかめた時、不意に足が何かにつまづいた。咄嗟に傍らの壁に手をついて転倒を免れる。責めるようにその感触を睨み据えたが、そのまま少年の表情が強張るのに時間は必要なかった。
 暗がりに慣れた眼が捉えたのは、夜闇の片隅にうずくまる人影だった。これほど近くに人がいるにもかかわらず、その人影は大事そうに抱えた酒瓶に寄りかかったまま微動だにしない。行き倒れた浮浪者か。あるいは……。
 紫霖ツーリンは足早にその小道を抜けていった。汚穢おわいとともに朽ちたそれが、自分の足に掴みかかるのを恐れるように。明日の夜明けも知らぬまま、二度と目覚めることのない者をあのまま捨て置くのはさすがに気が引けたが、だからと言って何が出来るわけでもなかった。
 貧民街である虹口ホンキュウ閘北チャーペイ地区よりましとは言え、このあたりに巣喰う闇もまた相当なものである。南京路や外灘ワイタン衡山路ホンシャンルーと言った観光名所は新興開発地区の浦東プートン並みに整備されているにもかかわらず、一歩街の裏に迷い込んでしまえばこのざまだ。大陸全土を電波の檻で囲っても、階級による格差と貧困、治安の悪化は防ぎようがなかった。月光さえ届かぬビルの隙間で、内側から腐っていく屍のように。
 湿り気を帯びた冷気が肌の細胞を侵食してゆく。今夜は冷えるな。少年は心の内でぼんやりと独りごちるも、さして堪えている様子でもなかった。氷の都から南下してきた彼にしてみれば、こんな寒さは物の数にも入らない。
 だがこのまま屋外で夜明かしするとなれば話は違ってくる。せめて何処かの繁華街にある店にでも逃げ込めれば……と思案してみても自分の立っている場所すら判別出来ないのではどうにもならなかった。
 埒のない計画と、果てなき彷徨に飽いた紫霖ツーリンは、疲れた鳥が羽を休めるように近くの壁に躰を預けた。ついと見上げた月に、白い吐息が雲のように懸かる。夜天そらの真上で朧に浮かぶ月が、魔都の迷路を彷徨ってから随分と時間が経っていることを物語っていた。寒さが冬の海辺に打ち寄せる波のように、ひたひたと迫ってくる。
――――松花ソンファ
 足の先からじわじわと神経が凍りついていくのを感じながら、少年はその名前を胸の内で呼んだ。溢れ溺れてゆく満潮の海辺で、身動きの取れないまま救いを求めるかのように。
 彼女を助けることも守ることも出来なかった不甲斐なさは、今でも大きなわだかまりとして沈んでいた。しかし己の無力さを嘆いたところで現状は変えられない。時折うなされる嫌悪と言う名の悪夢と折り合いをつけながら、彼は答えを探し求めた。かつての平穏と妹を取り戻すための手段を。自分たちが巻き込まれた運命の理由を。だが答えを求める声は何時だって、同じところで行き止まる。
 何故松花だったのか。 
 これまで幾度となく反芻した言葉が木霊した。事件は既に終局を迎えており、これ以上チュウ兄妹が巻き込まれる必要はどこにもない。なのに何故自分は麗紅リーホンたちのもとに留まり、妹は自分のもとに帰ってこないのか。理由を探そうにも、不確定要素があまりにも多すぎた。情報不足のまま錯誤エラーになってしまう演算機のようなものだった。
 もし……。なけなしの知恵を振り絞って辿り着いた、今まで考えることを回避し続けた仮説が脳裏を過ぎる。もし妹が幇会パンかいの手によって葬られていたとしたら?思考の糸がその可能性に接続リンクした時、今宵初めてと言っていいほどの恐怖が少年の胸を塗りつぶした。突如背筋を貫いた震えが、冬の風よりも冷ややかに彼を苛む。焦燥と戦慄、そして僅かに乱れた呼吸を宥めようとゆるく目蓋を伏せた時、不意に背後から何かが崩れかける音が響いてきた。
「――……っ、やめろ!!」
 悲鳴じみた懇願に続いて、何かが潰されるくぐもった音が聞こえた。
 反射的に壁から身を離し振り返る。死神の影よりもなお濃い闇の奥で聞こえてくるのは、低くどすの利いた声と繰り返される殴打の音、そして耳を塞ぎたくなるような悲鳴と許しを乞う嗚咽だった。
「泣いてる場合じゃねぇだろうよ」
「おめぇがこの辺荒らしてる所為でこっちがどんだけ迷惑してっか分かってんのか、ああん?!」
「それは……すまなかったと思っ……」
 か細い男の声が、骨の砕ける厭な音に掻き消された。微かに伝わってくる嘔吐の気配に混じって、なおも肉を痛めつける容赦ない音が聞こえてくる。
「悪いで済むと思ってんのか、コラァ?」
「それともさっさと黄浦江ワンプージャンの魚の餌になりたいってか?」
 下卑た哄笑が高らかに響く。まるで闇そのものが莫迦げた笑いを漏らしているかのように。話の内容の不穏さから、危険極まりない修羅場に出くわしたことはすぐに知れた。わざわざ首を突っ込んで確認するまでもなかった。
「今まで散々好き勝手やってきた分の礼だ」
「た…頼む!命だけは……そうだ、此処にいる娘をあんたたちに譲る。俺が斡旋してきた他の娘も!今回のことは俺が悪かった。あんたたちの流儀を無視したことは謝る!だからお願いだ、それだけは……」
「あー………他に言い残したことはねぇか?」
「まっ……待ってくれ!だ……誰かッ……」
 速やかにその場を去ろうと踵を返した紫霖ツーリンの背後から、心臓を突き破るような銃声が追いかけてきた。誰かの命を奪ったと言うにはあまりにも空虚に乾いた音だった。
 その音の主たちが自分に気付かぬことを祈りながら、来た道を再び辿ってゆく―――しかし出し抜けに物陰から現れた影が、少年の行く手を遮った。
「おっと……何処に行くんだい?」
 彼のささやかな祈りは、魔都に棲む運命の女神には届かなかったらしい。逃げ道を塞がれた紫霖ツーリンの眼には、黒い銃口をかざした屈強な男が一人、加虐的な笑みを浮かべながら立ちはだかっている姿が映っていた。




「ったく、面倒な野郎だ。おい、こっちは済んだぜ……そいつは?」
「なぁに。そこでうろうろしてた運のねぇネズミだよ」
 額から血を流して絶命している男の足を引きずっていたチンピラ風情の男が、露地から現れた仲間の手元を見て問うた。屈強な躰を窮屈そうに黒服に収めた彼は素っ気なく答えると、羽交い絞めにした華奢な少年を近くの壁に叩きつけた。遊び飽きた玩具を棄てるようなその手に、さほどの力がかかっているとは思えない。だが背中をもろに打ちつけた少年は激しく咳き込むと、力なくその場に崩れ落ちた。
「それとも小姐シャオジェの知り合いか?」
 呆気なく膝を折った少年には目もくれず、黒服の男は闇の奥で縮こまっていた小柄な人影に問いかけた。不意に興味の対象へと押し上げられたその人影は、恐慌をきたしたように小刻みに歯を鳴らす。その様子に軽く舌打ちをした別の男が近くの木箱を蹴り上げ一喝すると、嗚咽交じりに息を呑む声が聞こえてきた。
「……しっ………知らないわ」
 辛うじて聞き取れたのは、まだ少女と思しき甲高い声だった。全身に広がった痛みを堪えるように、紫霖ツーリンが視線を闇の奥へと転じる。真っ黒に塗りつぶされた濃い暗闇にいるためか、少女の容貌は判別しかねたが、酷く怯えていることだけは確かだった。
「どうすんだ兄貴?こいつにも一発ブチこむか?」
「ああ」
 底意地の悪い問いかけに、リーダー格らしい黒服の男は気のない返事を返した。懐から煙草を取り出すようなさりげなさで銃を引き抜くと、その銃口を壁際でうずくまった少年のこめかみに押し付ける。
「見たとこ健康そうだし、バラせばそれなりの金になんだろ。まっとうな生まれなら晶片チップも使いまわせる。悪く思うなよ坊主―――……いや、」
 俄かに、男の目の色が変わった。今しも脳髄を破砕しようとした銃口を少年のおとがいへと滑らせると、俯いていた彼の顔を銃の先で上向かせる。僅かな月明かりに晒された少年の顔とまともに向き合った男は、感嘆の溜息が漏れるのを禁じ得なかった。
「こりゃあたまげたな………お前さん、本当に男だよな?」
「―――莫迦言うのも大概にしろよ。あんたの目は節穴ってわけ?」
 銃口が零距離で自分の喉元を狙っているにしては、あまりにも不遜な声が少年の口からこぼれた。氷雪の彫刻じみた端麗な美貌には人を見下すような傲慢さが宿り、うすく整った口唇は嘲笑の形に歪んでいる。長く、繊細な睫毛に縁取られた瞳は静かな怒気を孕み、此方が優位であることを忘れてしまいそうなほどふてぶてしかった。
「ガキのくせにいきがってんじゃねぇよ」
 だがこの場合、少年の落ち着き払った反応は相手の逆鱗を逆なでする要素にしかならなかったようだ。男は銃の銃把グリップで少年の横面を打ちつけると、続けざまに無防備な鳩尾の辺りを蹴り上げる。呆気なく躰を折った少年を叱咤するように、男は紫霖ツーリンの前髪を鷲掴みにした。抗う獲物をいたぶる、猛禽類のような手付きだった。
「なんなら、こいつで可愛がってやってもいいんだぜ?」
 男は拳銃を仕舞い込むと、かわりに取り出したジャックナイフを少年の首筋にあてがった。死の接吻くちづけにも似た冷たい感触に、少年が僅かに息を呑む。男は満足そうに鼻を鳴らすと、その鋭利な切っ先を弄ぶように滑らせた。少年の白いなめらかな首筋に、細く紅い道筋を描きながら。
 だが嗜虐的な笑みを浮かべた男の視線が捕らえたのは、凍てついた氷のように冷然と構えた少年の眼差しであった。酷薄とも、傲慢ともとれるような色を灯した黒い瞳が男をめつけている。その美貌には恐怖の欠片も浮かんではいない。あるのは男に対する嫌悪と侮蔑、そして犯しがたいほどの高慢さのみであった。
 慈しまれ、かしずかれて育った胡蝶蘭のような気位の高さを誇示する少年に、男はぞくりと背中が粟立つのを抑えられなかった。背筋を走った戦慄は、むろん畏怖から来るものではない。艶やかに咲く高貴な蘭を、滅茶苦茶に引き裂き踏みつけてやりたいという、それは黒い衝動であった。
 この少年が涙ながらに許しを乞い願ったら―――そんな光景を脳裏に描いた時には、男の爪先が彼のわき腹にめり込んでいる。素早くナイフを仕舞った男はその手で少年の横面を殴打した。髪を掴んでいた手を離すと、躰を支える力すら失った少年が前のめりに倒れ臥す。
 狭い路地の上方から微かに漏れる月光。薄暗い灯りに浮かんだ少年の横顔に、ふつふつと残忍な愉悦が湧き上がってくる。男は同性に欲情するような気質の持ち主ではなかったが、身の程知らずの獲物を痛めつけるのは厭いではなかった。足先で倒れたままの少年を転がす。血の滲んだ彼の口唇から低い呻き声が零れ落ちた。
「おい、どうするんだこいつ」
「滅多にねぇ上玉だ。下手に死体を増やすより、生かしたまま金に換えちまったほうが後腐れねぇから、そっちの女と一緒に連れて行く」
 ことの成り行きを見守っていた仲間の一人が、黒服の男と同じ笑みを刻みながら了解と唱えた。半ば気絶したままの少年の襟首を、黒服の男が軽々と持ち上げる。そして意識のない彼の耳元に低く囁いた。
「殺しはしねぇ。天堂てんごくよりもずっといい思いが出来る所へ案内してやるよ」