夕餉を終えて黄河路ワンホールーにある食堂を出ると、夜の八時を回っていた。
 暖簾のれんをくぐって粗末な硝子の引き戸を開ける。スチール椅子とステンレスの卓子テェブルが並んだだけの狭い店に、冷気を含んだ夜風が流れ込んだ。一瞬だけ吹きぬけた夜気が、安っぽいタイル壁に張られたメニューを揺らし、辛めの熱気が籠る店内をじんわりと冷ましてゆく。
 勘定を払う翡翠フェイツェイを待たずに、三人の連れは一足早く街へ繰り出した。
 僅かな微熱を伴った体が急激に冷やされていくのを感じて、紫霖ツーリンは幽かに身震いした。項に、首筋に、忍び込んでくる夜気は冷たくも心地よい。口唇から洩れる吐息も、いつもより白く澄んでいる気がする。
「おい、お前ぇら。礼も言わずに先に帰っちまうなんて薄情すぎやしねぇか?」
「―――今日はご馳走様でしたあなた様のご厚意に深く感謝申し上げます」
 漸く三人に追いついた翡翠フェイツェイに、麗紅リーホン自動人形オートマータめいた無機質な礼を述べた。
「そうつんけんした顔すんじゃねぇよ。飯にありつけなかったのがそんなに癪か?」
「腹を空かせた野良猫みたいに言うなよ。人聞きの悪い」
 棘を含んだ物言いからして、彼女の機嫌が傾いていることは容易に見て取れた。辣油と胡椒の効いた酸辣湯ソヮンラータン、唐辛子をふんだんに使って淡水魚を蒸した椒子蒸桂魚ジャオズヂョンゴェイユィ、蟹をたっぷりの揚げニンニクで味付けした銀杏覇王蟹インシンバァワンシェ―――今宵の卓子に並べられた皿を頭の中で列挙しながら、紫霖ツーリンは彼女が殆どそれらに箸をつけることがなかったのを思い出す。麗紅リーホンが香料と辛味の効いた料理を好まないのは、この一ヶ月間食を共にして十分理解していた。一方で辛口の味付けを好む翡翠フェイツェイが、衡山路ホンシャンルーにあるような洒落た餐館レストランではなく、安価な四川料理を出す粗末な大牌富しょくどうを宴の席に選んだのも、あながち理由なきことではないだろう。


「あっ、シュウの餌買わないといけないんだった」
 黄河路を通り抜け、上海の目抜き通り・南京路ナンジンルーの一角に聳え立つ新世界シンスーカの尖塔を横切った時、彗星フォイシンがしまったというような声を上げた。
「あぁ。大丈夫じゃない?甘栗置いてきたし、一日くらい絶食しても死にゃあしないだろ」
「そういうわけには行かないよ。確か河南路ホーナンルーに店があったと思うから、寄ってくるね。翡翠フェイツェイたちは、先に帰ってていいから、」
 麗紅リーホンが返事をするのも待たず、慌しく背を向けて走っていった少年の小柄な後ろ姿が、あっという間に夜の南京路の人混みに飲み込まれてゆく。
彗星フォイシン!……ったく。財布も持たないでどうするつもりだよ、あいつ」
 しかも河南路ならば帰る方向が途中まで一緒だ……少年の早とちりを半ば呆れたように思いやると、麗紅リーホンは目の前に立つ青年を見上げた。
翡翠フェイツェイ。あの辺治安良くないからついていってやれ」
「はァ?過保護過ぎなんじゃねェの?大体今からあいつをどうやって追えってんだよ」
「そこは愛の力でどうにかしろ」
 意味わかんねぇ、と青年が舌打ちしたのには取り合わず、麗紅リーホンは再度畳み掛けるように、
彗星フォイシンはこの辺の地理よく分かってないだろう?何かあったりしたら面倒だしな。じゃ、あたしたちは先に帰ってるから。……宜しく頼むぞ、翡翠フェイツェイ
 麗紅リーホンは最後の言葉を相手に聞こえるくらい微かに囁くと、翡翠フェイツェイが口を挟む間も与えずにその場を離れた。出し抜けに腕を掴まれた紫霖ツーリンは、殆ど引きずられるようにして魔都まとの繁栄を象徴するネヲンの尖塔を後にする。
「……っ、離せ」
 強引な少女の振る舞いが神経を逆なでしたらしい。短い言葉の中に忌々しげな色を滲ませながら、紫霖ツーリン麗紅リーホンの手を払いのけた。
「あぁ、ごめん」
 麗紅リーホンの瞳にまごつくような気配が宿ったのも一瞬のこと。さりげなく謝罪の言葉を口にすると、それ以上は言わずに再び歩き始めた。
 同僚に厄介ごとを押し付けた所為か、麗紅リーホンの足取りは吹っ切れたように軽い。夜の南京路の、眩暈がするほどの人ごみを軽々とすり抜けてゆく少女に、追いついてゆくのがやっとである。
 両側に屹立する摩天楼は、旧租界時代に建てられた古めかしい西洋建築ばかりだった。白亜の塔が夜空を突き刺す老舗百貨店、積み上げてきた年月を感じさせる褐色の煉瓦のビル……だがそれらの優美なる外観をことごとく埋め尽くしているのは、目が眩むほどのネヲン看板だ。麻薬が魅せる幻覚世界でしかお目にかかれないような、極彩色の光の洪水が眼窩がんかを貫き、銘々の店名や公司コンスの名前をめまぐるしく明滅させている。古びた外壁のビルを彩る放電灯の連なりは、俗悪な宝石のレプリカで飾り立てた娼婦を思わせた。
 それでも飽き足りないのだろうか。有名な公司や百貨店ともなれば、看板の先から激光レーザーを投射し、鮮やかな立体電視像ホログラフィを夜空に浮き立たせて存在を主張していた。けばけばしいネヲンの海の底では、虹色に瞬く電飾をつけた路面電車トラムが通りを行き過ぎ、その傍らを着飾った若者や疲れ顔の勤め人、肩を寄せ合った恋人たちなどが、華やいだウィンドウディスプレイを眺めながら行き交っている。暗黒に閉ざされた夜の闇など、此処には届かない。
 だがこの夜を彩るのは、何もネヲンの瞬きや雑踏ばかりではなかった。
 石畳の露地に眼を遣れば、闇にうごめく浮浪者や、一夜の享楽を共にしようと目論む男女の影がいくつも見て取れた。男は快楽を、女は金を求めて華やかな街路へと繰り出してゆく。忙しなく通り過ぎる夜の光景にしばし視線を泳がせていたとき、年若い娘が道の片隅で二人の男に囲まれている様子が眼に止まった。別に風体が悪い二人組みというわけでもないが、娘が追い詰められた小鹿よろしく立ち竦んでいるのから察するに、歓迎すべからざる状況であることは間違いない。
「ちょっと……どきなさいよっ」
 夜の歓楽街ともなれば何処にでもある、ありふれたワンシーン。大方、立ちんぼをしていた少女と、彼女を買おうと近づいてきた男たちの間で、金銭的な交渉に食い違いでも生じたのだろう。振り絞るような少女の声に、好奇の眼差しを送る者はいても、助けの手を差し伸べる者はいない。困惑と一滴の恐怖が混じった彼女の姿は、何者にも救われぬまま魔都の闇へと飲み込まれるのだろう―――。
「ちょっと、其処の人」
 傍観を決め込んでその横を通り過ぎようとした時、聞き馴れた声が耳に飛び込んできた。咄嗟に声の方へと眼を遣れば、不穏な空気を醸し出していた娘と男たちしか居なかった舞台に、もう一つ人影が増えているではないか。うるさいほどの放電灯のもとに浮かぶ、煉瓦色の髪を二つに束ねた幼い顔立ちの少女。
「お取り込み中悪いんだけど……」
 痴話喧嘩の最中、不意に肩を叩かれた男たちは胡乱げに彼女を見遣った。どこから降って湧いたのかは知らないが、邪魔者は口出しするなと彼らの眼が訴えている。だが怪訝さと不愉快さがない交ぜになった視線の針に刺されようと、少女は動じない。男たちの視線を軽く受け流すと、少女はおもむろに革の札入れを掲げて見せた。
「これ、見覚えない?」
「君ッ………、それを何処で!?」
 髪が頭皮の半分ほどまで後退した男が、慌てて胸ポケットとスラックスのポケットを探る。だが確かにあるはずのものの感触を見出せず、男が顔色を変えるのにさして時間はかからなかった。
「駄目だよー、おっさん。スーツのポケットにこんな大切なもん入れちゃあ。何されたって文句は言えないよ?そう、例えば……」
 血相を変えた男を小莫迦にするような笑みを浮かべた少女は、そこまで言って不意に財布を道端へと勢いよく放り投げた。野良犬に餌でもやるような手つきで捨てられたそれを、闇にうずくまっていた浮浪者が見逃すはずがない。ビルの端で、身を切るほどの夜風に晒されていた浮浪者は、まさに天から降ってきた好運とばかりにそれをしかと拾うやいなや、脱兎の勢いで南京路の人混みの海原へと飛び込んでいく。
「あっ……、君!どうしてくれるんだ?!」
「どうもしないさ。忠告はさっきした筈だけど?それより、あれ追っかけなくていいの?」
 少女の不遜な口ぶりに怒りで身を震わせた男たちだったが、財布を追うほうを優先すべきだと気付いたのだろう。憎々しげに顔を歪ませると、憤怒の鼻息も荒くその場を立ち去っていった。
 しかしこの人出の多さでは、あの浮浪者を捕まえることは砂上の金屑を見つけ出すより難しいかもしれない。湧き上がってくる笑みをこらえつつ、少女―――麗紅リーホンは、先刻まで男たちの標的にされていた娘と向かい合った。
「さて、何もされなかった?」
 流動する雑踏の波と男たちの姿が判別できなくなったところで、にこやかにそう問いかける。だが麗紅リーホンのもとに返されたのは温かな感謝の言葉ではなく、親の仇でも見つけたような少女の鋭い眼差しだった。
「―――……ッ、ふん、」
 危うく出かけた文句をすんでのところで押し留めた娘は、麗紅リーホンを押しのけるようにして南京路の人波へと身を投じていった。巧みに人混みを押しのけて行った少女の姿は、まばたきとともに明滅する夜へと消えてゆく。あからさまな悪意の視線に打たれた麗紅リーホンは、呆気にとられたまま彼女を見送ることしか出来なかった。
「何、あれ。やな感じ、」
「――――おせっかい」
 ひしめく雑音に埋もれそうなほどの低い呟きを聞き咎めた 麗紅リーホンは、ついと視線をそちらへ転じた。すっかり忘れていた連れの少年を街灯の元に見出すと、わざとらしく肩をすくめて見せる。そう言われると思ってた、とでもいうように。不敵にも思える表情のまま、麗紅リーホンは再び家路に続く道を歩き始めた。
 紫霖ツーリンも黙々とそれに続くものの、何故か暗雲の如きわだかまりが脳裏を遮って居たたまれなかった。どうして麗紅リーホンがあんな面倒なことに首を突っ込んだのか理解できない。彼女の思考回路がどういう仕組みで動いているのか分からないのは何時ものことだし、知りたいとも思わなかった。だが少なくとも彼女が、これ見よがしな救いの手を差し伸べるほど甘くないことは知っているつもりだ。にわかに霞んだ麗紅リーホンへの印象。それが儚く霧散せぬように、紫霖ツーリンは傍らを歩く少女へ問いかけた。
「……いつもあんなことしてんの?」
「たまたまだよ。これでも一応警官なんで」
 少女のやや横柄な口調が気に障ったのだろうか。傍らの少年は不信も露わに麗紅リーホンを睨めつけている。
「……何か言いたいことでも?」
「別に」
 訊ねたところで、たいした理由があるわけでもない。これ以上言及しても面倒になるだけと思い、紫霖ツーリンは再び淡白な静寂の中へ逃げ込もうと口を噤んだ。だがはまぐりの如く閉じかけた口が紡いだのは、意思に反した呟きだった。
「随分優等生なんだな、あんた」
「そう、こう見えても仕事に対しては真面目なんで」
「厭って程知ってる」
「……なんだよ。今日は随分突っかかってくるんだな」
  麗紅リーホンは溜息交じりに少年の方を見た。普段自分からは滅多に喋らない蛤が、皮肉と言う名の蜃気楼を吐き出したのだから無理もない。一方紫霖ツーリンは霜が降ったような瞳を一瞬彼女へ向けると、
「気のせいだろ」
 魔がさして余計な一言を口走ったことに後悔しつつ、すっぱりと麗紅リーホンの言葉を一蹴した。不毛且つ不愉快な議論をこれ以上繰り広げるのは御免である。しかしながら傍らの少女は、それに気付かぬ風に問いを重ねた。
「気に喰わないのか?あたしがあんな風に手ぇ出すの」
 どこか挑発するような響きを込めて、麗紅リーホンは少年の顔を覗き込んだ。その瞳には、紫霖ツーリンの言葉に潜んだ真意を容易く射抜くような余裕が浮かんでいる。
「……分かってんなら、わざわざ聞くことないだろ」
「あんたもあの娘も、どうしてそういう言い方するかな。人がせっかく心配してやってるのに、」
「――――……者」
 まぁ、別にそれでも構わないけどな。そう続けようとした麗紅リーホンの声と、紫霖ツーリンの呟きが重なった。
「…は?」
「…………偽善者」
 めまぐるしく渦巻く喧騒と雑踏。夜空を覆うネオンは相変わらず騒々しく明滅し、別の通りからは鼓膜を鈍く震わせるクラクションとエンジンの咆哮が響いてくる。そんな中、少年のひどく簡素な単語が、不思議なくらいはっきりと耳に伝わった。
「―――何だよ、あんたにそこまで言われる覚え、ないんだけど」
 紫霖ツーリンの投げやりな一言に、麗紅リーホンが思わず歩みを止める。ほんの少しの驚きを滲ませながら、再び口をきかなくなった少年を軽く見遣ると、
「何とか言えば?」
「………」
 よもや先ほどの声こそ幻だったかと危ぶむほどの無表情で、少年はその視線を受け止めた。煌びやかと呼ぶには下品な電飾の瞬きが黒瞳に踊るさまは空疎で、精巧な人造人間を髣髴させる。何時もこうだ。気を抜くと囚われてしまうほどの麗貌が、人間らしい表情を刻むことは殆どない。時々典雅とも思える所作で眉をひそめたり、生きることにいたような気怠い眼差しをする他に、この少年の感情の揺らぎを見たことがなかった。
「あぁ、そうですか。だんまりってわけだ」
 此方が流す一切の通信を遮断した少年に向かって、麗紅リーホンは苛立ちとも諦観ともつかぬ溜息をついた。まともに彼の相手をしていると、自分まで不感症に陥ってしまいそうになる。だがこれ以上話すことは無いとばかりに沈黙を守る紫霖ツーリンから視線をはずした矢先、不意に彼の口から新たな呟きが零れた。
「……つか、ムカつく」
「何?」
「一時的な気まぐれで、あんなことするなよ。あれで本当に、あの娘を助けたつもりか?」
 まるで壊れた機械仕掛けの人形が喋りだしたかのように眼を見開きながら、麗紅リーホンは傍らを歩く少年を見上げた。紫霖ツーリンはそんな彼女に視線すら返さずに、感情の籠らぬ独白じみた言葉を継ぐ。
「何も分かってねーのはそっちだと思うけど?あの娘だって、別に助けて欲しかったわけじゃないだろうし」
「………」
 麗紅リーホンは何処か戸惑うように視線を彷徨わせると、ついと俯いて黙り込んだ。
 唐突に饒舌になった紫霖ツーリンの脳裏に、先ほどの娘の姿が蘇る。あの若さで客を引っ掛けているということは、彼女が一定水準の生活を確保できない階級の出であることを示していた。
 情報化と労働力の機械化が進んだ商都において、下層階級の労働者を雇う者は少ない。結果として出稼ぎに来た地方出身者や、虹口ホンキュ一帯に暮らす嘉式かしきと呼ばれる下層階級の人間が金銭を得る機会が減少し、そこにつけこんだ犯罪も増えてゆくのだ。人身売買や売春などが、その最たる例であろう。闇の道行きを歩む彼らが、自らそれを望むわけではない。あの娘とて、好んで街娼じみた真似をしているはずが無いのだ。
 だからこそ、そんなことも知らない上層階級の人間が、彼らの流儀に口を挟む権利は無いのだと紫霖ツーリンは思う。ましてや、偽善であることにすら気付かぬ愚鈍な正義感を振りかざすのは、彼らの生き方に泥を塗ることに他ならない。
 確かに麗紅リーホンは、自信過剰で我が強くて時に血も涙もないことを平気で口にするような娘だ。だからこそ、初めて逢ったときも紫霖ツーリンの我が儘をにべも無く退けた。それが彼の命を脅かすことだと知っていたからだ。だが時に見せる彼女の非情さは、いたずらに他人に甘く媚を売る人間よりも潔い。尊大なのは気に喰わないが、その点では彼女の事を評価していた。ゆえにこれ見よがしな正義感を見せたのが、どうしても納得いかぬままくすぶっていたのである。
孔子こうしの話を、知っているか?」
 やがて俯いていた少女がおもむろに口を開いた。その声が紡いだのは、大陸初の思想家にして、儒教家の祖と謳われる賢者の名前。
「あるところに、持ち主にこき使われていた哀れな老いた牛が居たそうだ。それを見た孔子は、持ち主に掛け合って牛を買い取り、そいつを自由にしてやった。一部始終を見ていた孔子の弟子は、師にこう尋ねた。一頭の牛を助けたところで、他の牛が助かるわけではない。なのに何故、その一頭だけを助けたのか。全ての牛を助けるつもりがないなら、それはただの偽善ではないのか、ってね」
 何処かで聞いた話だろう?そんな目をしながら麗紅リーホンが心持ち首をかしげた。紫霖ツーリンは、弟子の言うことは正しいと思った。少なくとも、誇大な理想を持って矮小な行動をした師よりも、現実を知っている。
「そこで孔子はこう答えたそうだ。確かに全ての牛を助けることは出来ない。だが、目の前にいた牛は確実に救えた。己の手に余る多くのものを救えないことを嘆くより、手が届く範囲で自分の出来ることをしろって、教訓話だよ」
「とんだ聖人だな」 
「ああ。彼は仁徳を重んじていたからな。他愛もない道徳話だ。講師が小学生に聞かせるようなね」
 紫霖ツーリンの言い草に苦笑しながら、麗紅リーホンは曖昧に頷く。
「ただ、あたしもそれにならいたいと思ったまでだよ。目の前に居る人間は、どうにかして助けたいだけさ。あんたがそれを偽善だ、エゴだと言いたければそれでもいい。別に否定するつもりもないから」
 そう言った麗紅リーホンの眼は、此処を見ていなかった。言葉は確かに自分に向けられているのに、意識がどこか別の場所を凝視みつめている。琥珀の双眸に、蝋燭の灯にも似た揺らぎが去来した。前髪を攫う夜風に語りかけるような、限りない慈しみを込めて最愛の恋人を撫でるような少女の眼差しに、ざわめくような焦燥を覚えたのは錯覚だろうか。
「けど、そこまで分かってて何もしようとしないあんたの方が、よっぽど偽善者なんじゃないか?」
 緩く頬をなぶった風が、夜の彼方へと吹き抜けてゆく。同時に、麗紅リーホン凝視みつめていた幻影は嘘のように払拭され、かわりにお馴染みの、何処か試すような口調でそう問い掛けられた。
「―――もういい。お前と喋ってると、疲れる」
 暗に自分の言い分をたしなめられた気がした紫霖ツーリンは、もう話すことは無いとばかりに言い捨てた。勝ち誇ったような麗紅リーホンの言い草は癪に障るが、これ以上迂闊な発言をしてしまえば、埒のない言葉の争いが待ち受けていることは目に見えている。見苦しい言い争いの中で、醜態を晒すような真似はしたくない。
「なんだよ。自分が偽善者って言われるのは厭なわけ?」
「……」 
「やれやれ。強情で柔なお嬢さんはご機嫌が悪いとみえる」
「………ッ、誰が、」
 逆上しかけたところで、麗紅リーホンがさも愉快そうにほくそ笑んでいることに気付いた。その微笑の真意は測れない。だがそれにそそのかされてしまえば、もっと厭な顔を見る羽目になるかも知れぬと直感的に悟り、紫霖ツーリンは再び氷細工の仮面を思わせる無表情をよそおって、その続きを飲み込んだ。
 仕掛けた爆弾が不発に終わったのを悟ったのだろう。麗紅リーホンはそれ以上は何も言わずにただ黙々と歩き続けた。過ぎ去ってゆく上海の喧騒と色彩は、ふしだらな極楽を思わせるほど華やいでいるのに、二人は変わらぬ足音を単調に刻むばかりである。
 やがて河南中路ホーナンチョンルーと交わる交差点に差し掛かった。ぼんやりと信号が変わるのを待っていた少年の瞳に、見慣れた、だがこんな場処で遭遇するはずもない面影が映る。
「……?」
 夜明け前を髣髴させる蒼黒の髪に、病的な白い肌。ちらりとよぎった大きな眼は、あどけなくも落ち着いた清楚さを宿している。危ういほど華奢な肩と、細い首筋は、かつて自分が愛しさを込めて抱きしめたそれと酷似していた。
「………松花ソンファ?」
 人混みの隙間から垣間見た姿とその名の少女が鏈接リンクする。一ヶ月前に大陸最大のマフィアに拉致された最愛の妹。夢でもなお追い続けたその面影が、どうして、今、こんな場処に?
 果たしてこれは妹を求め続けた想いが見せた幻覚ではないかと自問する間にも、彼女の姿は増殖する人の波に呑み込まれて遠くなってゆく。そして信号が青に切り替わった瞬間、紫霖ツーリンは弾かれたようにその後ろ姿を追いかけていった。