「ただいま……」
「ヤイ!遅カッタジャネーカ!」
 いつ見ても客の入る気配のない店を横切り、家の玄関へと足を踏み入れた刹那、黒い物体が物凄い勢いで飛来してきた。突然のことに身構える時間すら与えられぬまま、それは狙いすましたように今しがた帰宅した麗紅リーホンの脳天を直撃する。
「―――……っ、シュウ!」
 予期せぬ襲撃をまともに喰らった麗紅リーホンは憎々しげにその名を呼んだ。
 一方体当たり攻撃を仕掛けた張本人は、ぶつかった後に旋回、夕暮れの闇に沈んだ天井へと羽搏いた。九官鳥のシュウである。闇と同化したその瞳は、麗紅リーホンの呪詛じみた声など何処吹く風と行ったように彼女を見下ろしていた。
「おかえりー、麗紅リーホン遅かったね」
 玄関先のいざこざを聞きつけたのだろう。家の奥から小柄な少年が顔を覗かせた。
「あっ、紫霖ツーリンも迎えに行ってくれてありがとう。―――ところで麗紅リーホン、頼んでいたやつは?」
 足早に暗い廊下を渡りつつ、焼き栗屋の屋号が印された朱い包み紙のみを抱え込んだ麗紅リーホンを少年――彗星フォイシンは不審気に見遣った。心なしか語尾に、戸惑いのようなものをにじませながら。
「……何だっけ」
「シュウの餌」
「――――あ、」
 老街ラオジェ象棋しょうぎを指しているうちに、忘却の彼方へと押しやってしまった用事を掘り起こされて、麗紅リーホンはきまり悪そうな声をあげた。弁解の言葉を捜そうとするも、時すでに遅し。再び生ける凶器と化したシュウが、彼女の頭上を襲撃するのにさして時間はかからなかった。
「オイコラ!!テメェ何ノタメニ出カケタンダヨ!」
 きんきんと耳障りな声でまくし立て、全身で麗紅リーホンの過失を非難する。小振りな黒い翼で往復ビンタをかまされた麗紅リーホンはシュウを追い払いながら、
「ったた……やめろ!叩くな!」
「ウルサイ!俺ガソノぽんこつ頭ヲ活性化サセテヤル!」
 少女と一匹の格闘を横目に、紫霖ツーリンはさっさと玄関を後にした。やってられるか、と密かに呟いて一人優雅に居間へと逃げ込む。
「ヤイ、テメェ…俺ガドンナ思イデ今日一日辛抱シタト思ッテンダ!オ前、俺ヲ飢死サセル気ナンダナ、ソウナンダナ?!」
「餌買ってこなかったくらいでそこまで言うなよ、大袈裟な。ほら、甘栗やるから勘弁しろ」
「ケッ。俺ハ康花こうか屋ノ天津甘栗シカ喰ワネーゾ!畜生」
「あっ、そう。それならこれ、あたし一人で頂くからな」
 玄関でなにやら喚く声が遠くに聞こえる。いい加減次元の低い言い争いはやめればいいものを、という思いは心で呟くにとどめ、居間の椅子に腰掛けた紫霖ツーリンは気紛れにラジヲの周波数を合わせた。揚聲器スピーカーから流れるくぐもった声は、新世界シンスーカで催された競馬の速報を伝えていた。
「しょうがないなぁ。いいよ、今から夕飯の買出しに行くから、僕が買ってくる」
 飽くなき暴言の応酬は、彗星フォイシンの一言によって収束を迎えた。騒がしさが去った後の居間に、ラジヲのさざめく声だけが緩やかに沈殿する。やがて彗星フォイシンが買出しのために階段へ向かう足音が近付いてきた。
「ごめんな、彗星フォイシン
「何となく想像してたからいいよ。シュウ、もう少し待っててね。すぐ行ってくるから」
「ああ。おーい、紫霖ツーリン!ついでだからついていってやれ」
 それまで我関せずといった顔つきで早々にその場を離れた紫霖ツーリンは、出し抜けに名前を呼ばれて眉をひそめた。そんな少年の様子を透視したのだろうか。厭な予感と共に紫霖ツーリンが振り向いた次の瞬間、玄関から奇術めいた素早さで居間の入り口を陣取った少女と眼が合った。
彗星フォイシンは雑貨屋に寄って来るらしいから。いたいけな少年一人に、今日の夕食の材料に加えて鳥の餌なんて重いもんを持たせるわけにはいかないだろう?」
「そんなに言うなら、お前が行けばいいじゃないか」
「あたしは駄目。これから仕事があるんだ、」
 あんなところで油売ってたくせに……という言葉を飲み込んで、少年は何も聞かなかったとでも言いたげに顔を背けた。もう外へ出るのは遠慮したいと言う、せめてもの意思表示である。だが麗紅リーホンは怯むことなく、
「それに、あんたはうちの居候だろ?ちょっとは家主に貢献しようとか思わないわけ?」
「思わないね」
 ラジヲの電源を切ると同時に、すっぱりと言い捨てた。麗紅リーホンががっくりと肩を落とした気配が背後から伝わってくる。
「そもそもオレはあんたらのパシリじゃねーし」
「はいはい、二人ともその辺にして。僕は一人でも大丈夫だから、ね」
 出かける支度を整えた彗星フォイシンが、二人の押し問答に終止符を打った。とりなすように麗紅リーホン達の間に割って張った少年のいでたちは、支那襟の襯衣シャツに黒地の外套コートを羽織っただけの軽装である。拘束具ボンデージを思わせる半ズボンが、彼の肢体の細さや未熟さを際立たせていた。
「そうか?悪かったな、彗星フォイシン。面倒をかけて」
「いいよ。なんとなく予想してたから。それじゃあ、行ってくるね」
 あどけなく笑って、小さく手を振った彗星フォイシンが居間を後にする。そのまま玄関へと足を向けた矢先、廊下の真ん中で立ちはだかっていた人影に、少年は危うく身体ごと体当たりするところだった。
「ちょーーーォっと待ったァ!」
 彗星フォイシンの短い悲鳴に顔を見合わせた紫霖ツーリン麗紅リーホンの間に、割り込むような声が突如響いた。舞台の上で見栄を切るかのような蛮声に続いて、麗紅リーホンの背後からこれまた芝居がかった姿勢で現れたのは……
翡翠フェイツェイ?!」
「オ前、何処行ッテタンダヨ」
「はン、そんなつまんねェこといちいち訊くんじゃねェよ。それよか彗星フォイシン、晩飯の買い出し行ったか?!」
「ううん。今から行くとこ」
 相棒との接触事故を辛うじて回避した彗星フォイシンが、困惑顔で首を振る。
「っしゃ。ツイてる時っつうのはツイてるもんなんだな……よぉし、お前らよく聞けよ」
 何時にもまして偉そうな口調の翡翠フェイツェイが言い放つ。もちろん過剰な手振りを添えるのも忘れない。かくして翡翠フェイツェイの独壇場と化した居間にて、白い目で見つめる少年少女を観客に、彼の大演説が始まらんとしていた。
「今日が新世界シンスーカの春季レースの日だってことはてめぇらもよく知ってると思う。賭け事はすんじゃねえって麗紅リーホンは言うが、大して繁盛してねぇ店に籠ってるよりは、いくらかましってもんだろ。つーか麗紅リーホン。お前も人のこと言えねぇよな、そこんとこよくわかってるよな?老街の親父達と象棋しょうぎやって、金をふんだくってるのはいくら俺でも知ってるぜ。まァそれは置いといてだ、俺は此処で一つ社会の消費活動に貢献しようと思い立ち、このレースで一攫千金を狙ったわけだ、」
「ソンデ結局大負ケシタ、ト」
「ああ、ぼろ負けして全財産パァに……ってなんで俺の台詞先に言っちまうんだよ」
「お前はいっぺん身包みはがされちまえ。―――それで?今回はあたしから幾ら無心するつもりだ?」
「まあ待て。この先には続きがあってな」
 刺々しい麗紅リーホンの皮肉を押し込めるように、翡翠フェイツェイが手を前に突き出す。そして反対側の手から、仰々しくもったいぶった様子であるものを取り出した。これ見よがしに翳されたそれに、三人の視線が釘付けになる。
「……どうしたの、それ」
「ツイニ自棄ニナッテ、ドコゾノ金持チカラ強奪デモシタカ?」
 翡翠フェイツェイの手から突如現れた札の束を眼にした彗星フォイシンとシュウは、唖然としながら問うた。扇子のように開いた札束は、贔屓目に見ても翡翠の給料の半分はありそうだ。
「勝手に言ってろ……。んにしてもやっぱ神っつうのは居るみてぇだなァ。日頃の行いがいい人間にはちゃんと褒美を用意してくれるありがたい野郎だ。レースで大損した俺は、急に寂しくなった懐を抱えて家に帰る途中だった。だがレース終了後の南京路あたりは同じような奴がごったがえしてるだろ?すげぇ人出で前にも進めねえってときに、俺の目の前で婆さんが一人行き倒れちまったんだ。哀しいかな、俺一人以外その婆さんに構う奴なんて居なかった。その姿が妙に哀れでよォ、俺はつい仏心を出してその婆さんを助けてやった。聞けばその婆さん、生き別れになった息子を探して重慶チョンチンからはるばる上海くんだりまでやってきたって言うじゃねぇか。しかも相当眼が悪かったみてぇで俺を息子と勘違いしてな、あれよあれよという間に茶を奢られるは金を渡されるは、挙句の果てには婆さんの遺産相続人にまでなりかけちまった。まぁ、その婆さんも随分憐れな身の上でよォ、裕福な家に生まれたものの身売り同然に他の金持ちの男のもとに無理やり嫁がされて………」
「要点を絞って話せ。先がまるで見えない」
 いつまでたっても要領を得ない世間話に麗紅リーホンが横槍を入れた。このまま放って置いたのでは明日の日の出を迎えることになってしまう。非難めいたその一言を受けた翡翠フェイツェイはわざとらしく空咳をすると、
「えー、そこでだ!今夜はこの金で黄河路ワンホールーあたりに飯でも喰いに行かねぇか?!」
 勢いづいて結論を述べた彼に、きょとんとした三人の眼差しが注がれた。
「太っ腹な俺様が今日は盛大に奢って………」
翡翠フェイツェイ、」
 たった今地の底から這い上がってきたような声で、麗紅リーホンがその名を呼んだ。遠くから怒声を浴びるよりも数段恐怖心を煽る響きを込めて、さらに続ける。
新世界シンスーカに行ったなんて嘘だろ?あんた……また博打やったね?」
「あぁん?気の回しすぎだっつの。俺は道で助けた親切な婆ぁから金をもらったって……」
「誰が信じるかよ、そんな作り話!」
 ただならぬ妖気を纏った麗紅リーホンの声が炸裂した。ちっ、やっぱりバレたかと言う青年の呟きは彼女の耳に届かなかったが、見え透いた大法螺が通用しなかったのは明白である。新世界シンスーカの競馬で勝ったと言わずに、大袈裟な作り話を語ったのが仇となった。つまらない三文芝居のお陰で、このレースに乗じていつもの賭博場で儲けた金を、景気良く使ってしまおうという翡翠フェイツェイの算段は水泡に帰したのである。
翡翠フェイツェイ、それはちょっと無理がある…かな」
「婆ぁカラ脅シトッタッテ言ウンナラ納得出来ッケドナ」
 常にあけすけなシュウはともかく、今回ばかりは彗星フォイシンも相棒に耳を貸す気はないようだ。なんにせよ先刻まで順当にめぐっていた翡翠フェイツェイの強運も、自主同然の大法螺を吹いた時点で費えてしまった。黙っていればいいものを、何故あえて自らの罪を晒すような愚を犯すのか。紫霖ツーリンは理解できないというように頭を振った。
「大体、あんたの金回りがいい時は信用ならないんだよ」
 沸々と湧き上がる怒りを辛うじて引っ込めると、麗紅リーホン翡翠フェイツェイに向き直り横柄な態度で手を差し出す。
「とりあえず、それ預かっておくから」
「誰がやるかよ。冗談じゃねぇ」
 もう用はないとばかりに札束を引き下げ、翡翠フェイツェイは素知らぬ顔で視線を外した。平和的な交渉が見込めないと判断した麗紅リーホンは一つ舌打ちすると、翡翠がひらひらと扇子替わりに弄ぶ札束へ間髪入れずに手を伸ばす。その瞬間を見越していたかのように札の扇は麗紅の手をすり抜け、あらぬほうへと舞い上がった。目の端に逃れたそれを再び追うも、翡翠の反応の速さは彼女の一枚上をいっている。あたかも野を駆ける蝶と、それを素手で捕まえようとする幼子の如き攻防を数回繰り広げた後、不意に翡翠が麗紅の手首を掴んで耳打ちした。
 二人の不毛なやりとりを傍観していた紫霖ツーリン彗星フォイシンは、それが何を意味するのか飲み込めずにいた。此処からでは二人の会話を聞き取れず、四馬路スマロ…配当金……今夜あたり…などと言った単語の断片が、電子攪乱ジャミングにあった通信機よろしく、途切れがちに聞こえるばかりである。やがて翡翠フェイツェイがなにやら囁いた時、麗紅リーホンの琥珀の瞳に確信を告げる閃光が瞬いた。
「それ、確かか?」
「ああ。この目で見たんだ、間違いねぇ」
 麗紅リーホンは掴まれていた手首を乱暴に振り払うと、
「ったく。そういうことならこんなまだるしっこいやり方するなよ」
わりぃな。こんなやり方しか出来なくて。んで、結局どうすんだよ?」
 自分に分のある風向きになったことを殊更主張するように、翡翠フェイツェイ麗紅リーホンの眼に問い掛けた。その眼差しを麗紅が邪険に見据えたのも束の間、苦々しいともつかぬ笑みを口許に浮かべると、
可以わかった。今日のところはお前の悪行、目を瞑っておいてやる」
 先刻どのような交渉がなされたのか知るべくもないが、ともかく状況は思いもしなかった方向へ転がったらしい。
「そうと決まれば話は早ぇ。お前ら、さっさと出掛ける準備しろよ!」
 にわかに調子づいた翡翠フェイツェイの一言により、結局全員出掛ける態勢を整える羽目になってしまった。
「いいのかよ?今夜は相棒の手料理じゃなくて」
 翡翠フェイツェイの策略にまんまと乗せられてしまった麗紅リーホンは、自棄っぱちな皮肉を込めて言ってやる。
「たまにはいいんじゃねぇ?あいつも楽だろうし」
「おっ、言うじゃないか、あんたも」
「お前はどーなんだよ。今から行く店は四川海鮮って決めてあっからな。言っとくがお前に拒否権はねぇ。今夜はまともに喰える飯はねぇかもよ?」
「………横暴な奴め。それより、自分の心配した方がいいんじゃない?」
 いわくありげに麗紅リーホンが微笑したとき、翡翠フェイツェイが声にならない呻き声を上げて手首を押さえた。先刻麗紅を拘束していたほうの手である。突如走った痺れるような痛みは、麗紅の身体から発せられた電磁波がもたらした。彼女が操る電磁の魔法が、麻痺感覚を誘発する磁気を翡翠の身体に送り込んだのである。いわば蠍が危機を察した時に放つ毒のようなものだ。
「さて、それじゃあ皆で楽しくお出掛けと洒落込もうか。悪いなシュウ、今日はお前に食わせるものはないってさ。せいぜい飢え死にしないよう、大人しくしてるんだな」