勝敗の行方は、既に決していた。
 大地を揺るがす鍔競つばぜりの響きは未だ激しく轟いたままだ。車輪は軋みを上げて兵を轢き殺し、軍馬は雄々しく蹄をかき鳴らす。敵将の眼前には砲と兵が立ちはだかり、その首を討ち取らんと待ち構えている。だが敵の砲弾が築き上げた砦を打ち破った時、玉座に坐る男は己の死を予感した。敵方の兵は、その命をもってまやかしを見せていたのだ。
 太刀打ちする術は無に等しい。こちらの動きはもはや、相手の術中に組み込まれている。苛立ち紛れに視線を遣った敵の瞳には、こちらが食い下がろうとあがくのを面白がるような色が浮かんでいた。
「いやぁ、参った」
 神妙な顔つきで自分の陣を見凝めていた男は、嘆息めいた呟きとともに最後の砲を打ち上げた。帥のこうべを飛び越えた大砲の音が、戦の終焉を告げる。
「こう出られちまったら手も足も出ねぇや。降参」
 お手上げ、といったように肩を竦めてみせた彼の言葉に報いるように、対局していた少女の兵士が大将を屠った。少女が指先でその駒を取り上げると同時に、それまで固唾を呑んで勝負の行方を見守ってきた観客の緊張もぷっつりと途切れる。かわりに戦陣にもたらされたのは、しわがれた揶揄とだみ声の賞賛だった。
「いやぁ、毎度のことながら見事なお手並みだねぇ、小姐シャオジェ
「これでお前は七九戦七九敗だな」
老街ろうがいの猛将の名が泣くぜ」
「おい、嬢ちゃんももう少し手加減してやれよォ。こいつもいい年だしよォ」
「あれ、年寄り扱いすんなって言ったのはそっちのほうだろ?」
 自称・老街の猛将として名を馳せた五十路の男から、七九回目の勝利を勝ち取った少女はその戦術同様、隙のない笑みを悠然と浮かべて見せた。
 一月も半ばを過ぎた上海の片隅。 
 暦の上で謳われる春とは名ばかり、鉛色の空は依然としてうそ寒く、時折吹き付ける乾いた風は刺すような冷たさを伴っている。真冬の風が人々の活力を奪ってしまったのだろうか。観光地として知られる豫園ユーユェンの大通りを行き交う人込みもどこか寂しげである。大通りの裏路地に延びる人民街に至っては人影もまばらで、粗末な木造の人家やら、白い塗装の剥げかけたコンクリートの塀やら、むき出しになった電線が雑然と家と家の間を横断する光景やらが虚しく存在を主張していた。
 にもかかわらず、最善まで象棋しょうぎを指すのに熱中していた彼らだけは例外であった。人民街に店を置く金物屋の軒先に集った昔なじみの老爺たちは、閑古鳥が侘しげに喉を鳴らす自分の店を放り出して対局の行方を見守っていた。
「あー、わかったわかった。もうお前さんに負けるのには慣れちまったよ」
 口々に降ってくる野次を振り払うと、乾物屋の親父は象棋しょうぎ盤の脇に置かれた小鉢から飴玉を取って少女に放った。もっとも、その声にはどこか感嘆するような色が混じっていたのだが。
「毎度」
 紅みがかった煉瓦色の髪を二つに束ねた少女は、慣れた手つきで飛んできた飴を受け取った。別に此の少女、プロの将棋指しでも賭博家でもない。象棋シャンチーや麻雀といった遊びにおいて、一銭も賭けないのはありえないのが大陸遊戯の慣わしであったが、彼女は男から受け取った飴玉一つを報酬としているのがその証拠である。時折ふらりと店先に現れては、気まぐれに老爺たちの道楽に付き合うだけの姑娘むすめだったが、不思議なことにその素性を知っているものは誰一人居なかった。
「って、まだやるつもり?」
「おう、当たり前よ。次はさっきみてえにはいかねぇからな」
 乾物屋は飄々と嘯くと、象棋しょうぎ盤の陣を崩し始めた。
「おい、まだやんのかよ」
「いい加減この辺にしとけ。男は引き際が肝心だぜ」
「最近景気がいいわけじゃあなし。お前今に破産しちまうぞ」
「えぇい、やかましい!俺はこいつに勝ってがっぽり金をふんだくるまで死ねねぇんだよ」
 およそ見識のある大人の言い分とは思えぬ台詞に、一同顔を見合わせた。これではどちらが子供なのか分からない。
「そんなに金が要るんなら、手っ取り早く競馬にでも行けばいいのに」
 寂れた住宅が密集する界隈で、どこからともなく聞こえてくるラジヲの掠れ声に耳を傾けていた少女が呟いた。どうやら今日は新世界シンスーカで春季レースが催されているらしい。切れ切れに紡がれるアナウンスと歓声は、庶民街の片隅にあっては別世界からの通信としてしか聞こえなかった。
「バカヤロウ、新世界シンスーカに行って馬券買ってる金なんざねぇや」
「あすこはな、金持ってるお役人や商人の溜り場なんだよ。近頃じゃあ、善良な一般市民は追い出されるって話だぜ?」
「もっとも、柄の悪ぃ兄ちゃんがごろごろ見張ってて、迂闊に近づけねぇけどな」
「懐の温かい連中は、競馬で儲けて夜は四馬路スマロで女はべらせて憂さ晴らしか…羨ましいこった」
 年季がいった煙管を物憂げに吹かしていた駄菓子屋の翁が、誰に言うでも無くぽつりとそうこぼした。
 彼らほどの年齢になれば、茶館で伝統茶と点心でも嗜みながら、他愛も無い世間話に興じて怠惰な午后を過ごすのが常である。だがあえてその手段を選ばないのは、彼らなりの流儀とは関係のない、別の理由があってのことだろう。
「莫迦、俺は金が欲しいんじゃねぇよ」
 それまで慎重に盤と向き合っていた乾物屋が、彼らの言葉を一蹴した。
「此処でお前さんに負けっぱなしじゃあ、俺の面子が廃るんでね。老街の猛将の名前は伊達じゃねえってことを思い知らせてやらねぇと」
 すっかり盤上の陣を組みなおした彼は、其処まで言って挑発的な視線を跳ね上げた。その瞳には、今再び戦場へ赴かんとする将軍の輝きが宿っている。琥珀の眼にその意思を受け取った少女はふっと微笑むと、
「―――上等じゃないか。いいぜ、いくらでも付き合ってやるよ」
 その響きだけを聞けば、これが年端も行かぬ娘のものとは思わなかったかもしれない。
 まるで馴染みの酒場で十年来の悪友に出くわしたときのような眼差しで男を見据えると、彼女は次なる勝負のために身を乗り出した。
「ようし……そうこなくっちゃな」
「当然。それで?どっちが先攻?」
「――盛り上がってるとこ悪いんだが」
 今しも緊迫した戦がその嚆矢こうしを放とうとした矢先、事の成り行きを面白そうに見守っていた観客ギャラリーの一人が間の抜けた声を上げた。
小姐シャオジェに、用があるみたいだぜ」
 思わぬ横槍を入れられた少女は、不思議そうに彼が指差す方向へ瞳を転じた。駄菓子屋が指した煙管から漂う煙が導く先には―――
「……紫霖ツーリン?どうしたんだよ、こんなとこで?」
「それはこっちが聞きたいね。……お前こそ、こんなとこで何やってんの?」
 訝しげにしかめられた顔は不機嫌だったが、さして興味も無いといった少年の声が少女の困惑に答えた。見知らぬ店先に勢ぞろいした親父たちと象棋しょうぎ盤を囲む少女を、頭の中でどう理解すべきか悩んでいるらしい。
「見て分かんない?象棋しょうぎ指してんの」
「……そうじゃなくて、」
 少女――もとい、麗紅リーホンの単純きわまる回答に紫霖ツーリンと呼ばれた少年はがっくりと肩を落とした。あらかじめ想定していた想像をことごとく無視する光景に、いっそ見なかったことにして帰るべきかと思案していた時。
「誰だい、この奇麗な兄ちゃんは?」
「兄妹…じゃねぇよな。お嬢ちゃんとは、顔の造りが違いすぎる」
 一方で、そんな困惑にまるで気づかぬ老爺たちは、突如現れた少年と少女のやり取りに興味を示した。
「ひょっとして………小姐シャオジェのコレかい?」
 意味ありげに立てられた乾物屋の親指に、一同の視線が集まる。それをきっかけに老爺たちの口ぶりが俄かに活気を帯びた。
「ああ、そいつは失敬」
「いやぁ、まだまだ小賢しいガキと思っていたが…お前さんも隅に置けねぇな。ははは」
「それにしても、これまた随分奇麗な兄ちゃんさね…嬢ちゃんより美人なんじゃないかい?」
 談笑に好奇の視線を交えながら、彼らは冷やかしの標的を少年へと切り替えた。
 憮然とした色を隠そうともしない黒い瞳は長い睫毛に縁取られ、すっきりと品よく整った鼻梁は儚くも高貴な空気を漂わせている。薄く形のいい口唇には僅かに朱が差し、雪花石膏アラバスターの如き肌と相まって艶やかに映えていた。全体的に線の細い印象であったが、なよやかに見えぬのは彼が纏う凛と澄んだ冷たさとそこはかとない傲慢さのためであろう。芙蓉の如き美女と言うより、優雅で気だるげな貴族の末裔という風情がある。
「はいはい、そういうことは家に帰ってからカミさんにでも言ってやれば?」
 不躾極まりない親父たちの視線を見かねて、麗紅リーホンがとりなすように揶揄からかい返した。
「そりゃー、冗談キツすぎるぜ」
「あんなのに掛けてやる言葉何ざもうねぇっての」
「今更褒めてやる義理もねぇしよ」
 似たり寄ったりのブーイングを交わしながらも、何処か楽しげな彼らにふっと笑いをこぼすと、
「おいおい、のろけんのは勘弁してくれよ。……じゃ、あたしはここらで抜けるわ」
 マフラーをむきだしの首に巻きつけなおし、麗紅リーホンは颯爽と立ち上がった。
「あいよー。その兄ちゃんと仲良くなー」
「逃げらんないようにしろよー」
「ご忠告ありがとう……おっさん、さっきの続きはまた今度な」
「おう。次は負かすからな。覚悟しとけや」
「――期待してる」
 何気ない帰り際の一言に約束の意を込めた笑みを返すと、麗紅リーホンは立ちつくす紫霖ツーリンの傍らをすり抜けていった。やけにあっさりと引き下がった少女を訝しく思いつつ、紫霖ツーリンはその背中を追うように踵を返す。そんな彼の怪訝なまなざしなど歯牙にもかけぬ足取りで、麗紅リーホン宝蘭堂ほうらんどうへと向かう道を急いだ。
「しっかし絶妙なタイミングで来たな。これから面白くなるところだったってのに」
 老爺たちのひやかしに満ちた黄色い声が遠ざかってきたところで、麗紅リーホンがようやく口を開いた。その口ぶりには予期していたような咎める気配は少しも窺えない。
「だったらまだ居ればよかったじゃん」
「ふん。どうせあんたのこと根掘り葉掘り聞かれて、あのあとは勝負にならなかったさ。あー、でも次に行ったらまた何か言われんだろうなァ。すっごい迷惑」
「お互い様だろ」
 面識も何も無い親父たちの好奇の目に晒されたことを思い出し、さも不愉快だといわんばかりの皮肉を返してやった。少女のほうも、薄手のマフラーに口許を埋めたまま、さいですかなどと呟いている。
 それきり会話が止まってしまうのは、何時ものことだ。何かというと憎まれ口を叩きたがる麗紅リーホンと、もとより会話を成立させる気の無い紫霖ツーリンに、まともな意思疎通の時間が期待できるはずも無い。既に御馴染みになってしまった沈黙を感じていた紫霖ツーリンの眼に、家と家の隙間を横断する洗濯物の群れが静かにはためいていた。
 陽が僅かに射すだけの午后ごご。決して裕福とは言えない人民街の空気は、どんよりと重く垂れ込めている。露地から流れ漂ってくる揚げ菓子の油っぽい匂いと、何処かの家が回している換気扇の旋律がかろうじて人の気配を伝えていた。寒さのためか、すれ違う人もまばらなモノクロームの世界の中で、麗紅リーホンの首に巻かれたマフラーの紅だけが鮮やかにひるがえる。
 冬にもかかわらず野外に洗濯物を連ねる此の街は、以前住んでいた哈爾浜ハルピンとはまるで違っていた。
 一年の大半が白い季節に支配される氷の街。吐息さえ雪の結晶に変えてしまう極寒の世界は、異国のお伽話の中だけで語られる存在、透き通るような幻想であった。今しがた吹きぬけていった北風は、遠い彼の地にも届くのだろうか。見えるはずもない風の行方を眼で追いながら、少年は白銀の氷に閉ざされた松花江スンガリーと、同じ名を持つ妹の姿を思い描いた――――
「それにしても、お前が来るなんて思わなかった。どういう風の吹き回し?」
 かつて暮らした街の追憶を遮る声がして、紫霖ツーリンはふと我に返った。
「別に……彗星フォイシンにお前を探して来いって言われたから、」
 答えながら、素直にそれに従った自分を驚いた眼で見ていた少年の顔を思い浮かべる。そういえば家を出る間際に傘を渡そうとしていたが、あれはどういう意味だったのだろう?
「嗚呼、なるほどな。あたしは暇つぶしの材料にされたってわけか」
「なんだよ、それ」
 どこか厭味っぽく呟いた横顔の真意を測りかねて、紫霖ツーリンは軽く眉根を寄せた。
「だって、あたしが店を出たときあんたすっげぇ暇そうにしてたからさ」
 悪戯っぽく含み笑った麗紅リーホンは、少年の心を見透かすように琥珀の瞳だけを此方に跳ね上げると、
「此の一ヶ月、することが無くてずっと退屈だったんじゃない?ああ、こいついつか暇すぎて潰されちまうなって思ってたんだよ」
 いきなり何をと思ったが、否定できるだけの言葉を持ち合わせていなかった紫霖ツーリンは何も答えずに視線を逸らした。
 例の事件に巻き込まれて以来、流されるままに麗紅リーホンたち騎士団第九部の拠点――宝蘭堂ほうらんどうに住み着くようになって一ヶ月と半月が経とうとしている。連れ去られた妹の行方を、一刻も早く突き止められるならと思って受け入れた選択。だが、妹の消息はようとして知れず、手がかりらしきものは何も舞い込んで来なかった。
 そもそも、宝蘭堂ほうらんどうの住人たちが騎士団らしい仕事に当たっているのすらついぞ見たことがない。局長の麗紅リーホンは時折書斎に籠ってなにやら電脳と会話したり書類を片付けたりしているが、大抵は用もないのにふらりと店を出て行ったり庭の盆栽の手入れをしたりしていた。
 その仲間である彗星フォイシン彗星フォイシン宝蘭堂ほうらんどうの料理洗濯その他諸々の家事に明け暮れているし、その相棒である翡翠フェイツェイに至っては賭博場に入り浸るか朝から酒を呷って麗紅リーホンの叱責を受けるという有様であった。これでは妹の行方を掴める筈もない。
 焦れる想いは時を追う毎に色褪せ、自分が此処にいる理由さえ曖昧にする。彼女の居ない日々の違和感は、退屈に飼いならされた焦燥へと取って代わった。そしてまた、やり場のない苛立ちと、現状を抜け出すことさえ叶わぬ自分の無力さを持て余す。
「騎士団って言ったって、いつもいつも仕事に明け暮れてるわけじゃないさ。特にあたしたちみたいなとこはな。時間ばっかり無駄に余っちまう。ああ言うことでもしてなきゃやってらんないんだよ」
 時間があるのをいいことに老街の親父たちとつるむとは優雅なご身分だ。それで自分には及びもつかない給料を得ているのだから、憤慨を通り越して呆れてしまう。あの親父たちが彼女の素性を知ったら果たしてなんと思うだろうか。
 ようやく人通りの多い路地にさしかかった時、麗紅リーホンが歩調を緩めた。路上で甘栗を商う天幕から甘い匂いが漂い、鼻腔をくすぐる。それに誘われるように麗紅リーホン炒栗子やきぐりを一袋買い求めた。
「そうやって、善良な市民から搾取してるわけ?」
 せわしなく行き交う人混みを見遣りながら、紫霖ツーリンはため息混じりに呟く。
「搾取とは何だ、失敬な。一応代金は払ってるんだけど」
 そういう問題じゃない、と言いかけてやめた。言ったところではっきりとした答えは返せないし、彼女を納得させるのは難しいと思ったからだ。
 無愛想に栗を袋に詰める、いかにも苦学生といった青年の手は、あかぎれと霜焼けでひび割れている。向かい側の路上で靴磨きの客を引き寄せようと必死になる子供は、明日の生活を繋げることに必死なのであろう。寒い中自転車にくくりつけた携帯用の炭火竃コンロを引く無許可露天の商人に、にわか造りの掘っ立て小屋で麺包パンを売る女性。その軒先からは小麦粉の焼ける香ばしい匂いが立ち込め、通り過ぎる人々に呼びかける。
 暇な時間をなんの疑問もなく弄ぶ少女が、たいした苦労もせずに手にした金を、この露天の青年に支払うという図式に不条理を覚える。だがそんな不満を語ったところで、何が得られると言うのか。恵まれた環境に生まれついた彼女は、紫霖の不満に対してその場限りの感傷しか示さないに違いない。
 産まれたときから命運を定める晶芯チップの有無、及びその性能で明暗が分かたれる。その方程式は上海も哈爾浜ハルピンもさして変わらない。庶民街のそこかしこに集う人々がこの階級社会の闇を示す一方で、ほんの気まぐれに露天に立ち寄る少女の姿もまた搾取階級が生み出した闇の一部なのだ。
「別にどう思ってもいいけどな。あたしらだってやる時はやるさ。それに……」
 甘栗の包みを受け取った麗紅リーホンは、皮肉な思考に耽りかけた紫霖ツーリンに釘を刺すと、
「うちみたいな処は、暇なほうがいいんだよ」
 またしても謎かけじみた言葉を口にした。それは妹の行方に執着する自分、あるいは遠まわしに騎士団の怠慢を非難する自分をいさめるものであったのだろうか。何かを問うように向けられた少年の瞳に、少女のしみ一つない白い手が、やけに鮮烈に映っていた。