うらぶれた旧市街の裏露地に、濃い霧が立ち込めている。
 触れれば痺れてしまいそうな霧は、冥府から囁く夢魔むまの吐息を思わせた。吸い込んだそれは阿片の如き甘やかさとそこはかとない生臭さが混ざり合い、微かに鼻腔を刺激する。背の低い煉瓦造りの建物は黒い巨影を落とし、虫食いのように開いた出窓からは化粧の崩れた女がしどけなく煙草をくゆらせているのが見えた。
 先刻まで捜し求めていた少女の姿はどこにもない。
 かわりに辺りを見渡せば、朦々もうもうと垂れ込めた夜霧の中、足取りの覚束ない幾つもの人影が幽鬼の如く揺らめき、もつれあったりいかがわしい言葉を喚いたりしている姿があるばかりだ。
 明らかに、先ほどまで歩いていた通り―――南京路ナンジンルーではなかった。あの界隈も網膜を焼きつけるほどの光彩に溢れていたが、過剰に派手であったというだけで、今迷い込んでしまった場処に比べればまだ健全だったと言えるだろう。薄汚れた街路に、毒々しいほどのネヲン看板。今しがた踏みしめた土瀝青アスファルトの水溜りには、桃色や韓紅の電飾が卑猥な文字を歪ませている。辛気臭い夜闇の中で閃く、幻覚にも似たいかがわしい色彩は、人間の欲望に直に訴えかける要素を備えていた。どこからともなく突き刺さる、好奇と自分を値踏みするような視線に居心地の悪さを感じる。
 妹に似た背中を追ってきたのはいいが、さてこれからどうしたものか。肝心の少女は見あたらないし、かといって此処が何処だか見当もつかないためもとの場処へ戻ることも出来ない。とりとめもなく逡巡していた時、傍らの店から濃い化粧をした女と、だらしなく服を着崩したごろつき風情の男が出てきた。ろれつの回らぬ口調でわめき散らす男に、甘えるように女がしなだれかかる。胃の中で発酵した酒と、白粉おしろいの香が入り混じった独特の臭いが鼻先を掠めた。顔を背けた少年の耳に、艶っぽく媚びる声で道行く客を引っ掛けようとする商売女たちの囁きが割り込んでくる。
 少年は短く舌打ちをすると、くるりと踵を返した。
 とりあえず、ここから離れよう。見慣れぬ路地裏は立っているだけで、ひしひしと身の危険を感じさせる空気を発していた。この魔都まとにあって、そんな場処に紛れ込むのは好きにしてくださいと宣伝するようなものである。
 そう結論付けて、焦る気持ちに任せて歩き出した彼の腕が、不意に何者かに掴まれた。
「兄さん、寄っていかない?」
 この寒い中、肩と胸元を露出させた安物のドレスにショールを羽織っただけの女が赤いルージュを歪ませていた。獲物を捕らえた蛇の目つきで少年に流し目をくれると、
「いい娘が揃ってるよ。何なら、あたしが相手してやっても……」
 嬉々とした猫なで声が不意に途切れたのは、面倒くさそうに振り返った少年が険のある目つきをしていた所為ではなかった。この辺りを徘徊する女たちをも凌ぐ、ある種の気品さえ窺わせる端麗な顔立ち。
「悪いけど、」
此方を見遣る少年の美貌に気圧されたのか、女が微かに狼狽える。永遠に溶けることの無い完璧な氷細工を思わせる硬質な肌に、店の安っぽい放電灯がちらちらとうごめくさまは、凄艶ともいえる光景であった。
「あんたみたいな年増の相手してる暇、無いんで」
 少年は呆気にとられた女の手を振りほどくと、何事も無かったかのように歩きはじめた。なんの断りもなしに気安く触れてきた女の厚かましさに苛立ちながら、暗い路地から逃げるように露地の合間を逆送してゆく。幾分賑やかさを増した通りに出た時、またしても例の後ろ姿が少年の眼差しを捉えた。
「―――……松花ソンファ
 思わず零したその名と共に、少女の背中は雑踏へと掻き消されていく。追いかけるべきか?だがこれ以上不用意に、地理の明るくない夜の街をほっつき歩いていいのだろうか。次に先刻のような処に出てチンピラに絡まれでもしたら、まず無事で居られるはずがない………。
 二度目の逡巡は、そう時間を要さなかった。
 少年は潔い足取りで一歩踏み出すと、もう一度少女の背中を追いかけ始めた。